ここにきて、急に身に入(し)むということばがピタリの気温になった。冬季でも、比較的に暖かい大阪の都心に住みなれた者にも、今朝の寒さは、まさに身に入むという感じである。この身に入むというのは、『源氏物語』のなかに「深き秋のあはれまさりゆく風の音、身にしみけるかなと、ならはぬ独り寝に明かしかね給へる」〈葵〉のように、恋の情を秋風に託してのべられているのだが、そのような物語の世界の情感をうけて、この「身に入む」ということばに秋の季節感を思わせたのは、藤原俊成が「夕されば野べの秋風身に入みて鶉(うずら)鳴くなり深草の里」(千載集)と詠んだ和歌を思い出す。男に捨てられられて鶉(うずら)となった女の物語(伊勢物語123段)を踏まえて、秋の情感を伝えている。その『伊勢物語』123段の話であるが、
「むかし、をとこありけり。深草にすみける女を、やうやうあきがたにや思ひけむ、かかる歌をよみけり。
年をへて住みこし里をいでていなばいとど深草野とやなりなむ
女返し、
野とならば鶉となりて鳴きをらむかりにだにやは君は来ざらむ
とよめりけるにめでて、行かむと思ふ心なくなりにけり。」
大意は、「男(在原業平〉には深草というところに長年通う女がいたが、その女を次第に飽きてきたので、歌を読んで送った。
長いこと通いなれたこの地を私が出て行ってしまえば、「深草」というその名の通り、ここは草深い野原となってしまうだろうか。荒れて通う人もなくなってしまうだろうか。
それに対して女の返した歌は。
もしあなたがこの地を離れて、野原となってしまうのなら、私はここで鶉になって鳴いていましょう。仮にあなたが狩りに来る事があれば、ここで私を見つけないとも限らないので。そう、あなたはきっと来てくれるはずよね。」という話である。
秋風に触発されて、秋の「あわれ」と人の世のもろもろの「あわれ」、自然と人生の寂寥感がしみじみと身にしみて感じられる。
・野ざらしを心に風のしむ身かな 芭蕉
街を歩いていて知人に遇えば、「急に寒くなりましたネ」の挨拶が、ピタリとあてはまる今日の寒さである。今晩は、常夜鍋をするのだ、との挨拶もあった。旧制高校の寮生が考えたと言われる清酒で炊く、豚、ホウレン草、白菜が具で、豚しゃぶの一種で、毎晩食べても飽きないという、体に保温効果がある簡単な食文化である。秋風が身にしみる夜の身があたたまる風景が想像できる。
漢の武帝に『秋風辞』という詩がある。「秋風起こり白雲飛ぶ草木黄落し雁南に帰る」秋の風の呼び方に、「色なき風」というのがある。色なきというからは、華やかな色を感じさせる色ありという風があるのではと思う。ふくよかに吹く春の風は「風光る」とまばゆさの色を感じ、青葉の頃に吹く風には、爽やかな緑、夏の南風には海の青さを感じる。そして、秋風となると、紀友則の「吹き来れば身にもしみける秋風を色なきものと思ひけるかな」の情感、すなわち、身にしみとおる色と見るべきか。そんなことを考えながら、身に入む夜長の候を迎えようとしている。

常夜鍋の具
―今日のわが愛誦短歌
・おりたちて今朝の寒さに驚きぬ
露しとしとと柿の落葉深く 伊藤左千夫
―今日のわが駄句
・身に入むや老女の語る愚痴聞きつ


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