朝、眼醒めると雨。眠れぬまま、自分の時間に浸ることにする。春眠、暁を覚えずというが、それは、疲れを知らぬ若い頃は惰眠を貪る至福の刻のことであった。しかし、いまは、眠れぬことは、一刻千金の徳を与えられているのだ、と解釈して、家内、猫、の寝静まるなかを気の向くままに行動することにした。
嫋々と降りしきる春を感じる雨にうたれて、近隣を徘徊する。流石に、いつも見かける野良猫は、この雨のなかでは現れず、わが行動をどこからか観察している様子らしい。
昼前、大学時代の友人から自家栽培の野菜が獲れたからと、届けられる。銀行を定年退職後、先祖伝来の休業農地から、試行錯誤の結果、収獲した自慢の作物、とのことらしい。有難いことだ。大学時代ともに関っていた同好会の縁がいまも続くことにあたたかい絆を感じる。同封された、彼の短歌作品のなかから、葛城の山麓に代々営まれてきた、風俗・習慣・行事の匂いを嗅ぎとることができる。
午後、天気の回復で、しばらく、昨年夏来、疎遠であった、千里江坂の古書店に妻が行くというので、その気になり、出掛ける。北嶋廣敏『塚本邦雄論』、落合重信『近世部落の中世起源』、結城昌治『俳句つれづれ草』、太田一郎『うたの風景ー昭和私史ノート』を購入する。
昼食のつもりで寄った、寿司店のビールの微醺に負け、一昨夜、三人の友人が行った十三の店に行く。偶々、同席のひとつ年下の元銀行支店長に出遭い、世代を共にしたひとの歯に衣着せぬ経験談や名調子の歌を拝聴しながら、自分とは違う人生を歩んだ人と時の経つのを忘れる時間をもつことができた。
さて、今月から書き始めた「鼠六匹に冬の蛙」の戯言にお付き合い戴き、恐惶敬白の至りで、お礼を申し上げることばが見当たらぬままに、一年で一番短い月である、二月尽の日を迎えた。
日本人には「尽」という語は終末を意味して・あまり有難くない響きを持っている。白川静『字通』の【尽】【盡】によると、【盡】は聿(いつ)+皿+水滴の象。深い器の中を洗うために、細い木の枝のような棒(聿)を入れ、水を加えて器中を洗滌(せんじょう)することを示す。[説文]「器中、空しきなり」とあり、器中を洗うことによって終尽の意を示す。終尽の意から、すべてを傾注する。ものを究極する意となる、とある。
このひと月、夢中に、わが生き方の方向を考えながら、矢の如く過ぎ去った時間の速さにためらいながら、次へと繋ぎたいと願っている次第である。乞う、ご声援!!
―今日のわが愛誦短歌
・葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。
この山道を行きし人あり
釈 迢空
―今日のわが駄句
・何故か羞恥相聞の歌春の風

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