ワタシの治療院のデスクの前の壁に、ある人の赤ちゃんの写真を飾っている。
とても可愛い顔をした男の子で、聡明そうなしっかりとした顔つきである。
何故、飾っているかと言えば、毎日、ことあるごとにその顔を見ると、とても和んで嬉しくなるからである。
可愛い赤ちゃんを見ると、ほんとに良い気分になる。幸せな気分になる。一方、不細工な赤ちゃんは、これはもう見たくない。2度と見たくない。(笑)
新聞なんかに、赤ちゃんの写真を紹介するコーナーがあるけれど、あれは親が応募するシステムのはず。「よくもまあ、こんな子を…」というのが結構ある。(^^;)
親からすれば、とても可愛いのはよく判る。だけど客観的に見ることも必要だ。(笑)
このように、人間の赤ちゃんは可愛い子と、そうでない子がハッキリと区別されているけれど、動物の赤ちゃんは例外なく可愛い。鼻ぺチャのオランウータンだって、嫌われ者のハイエナだって赤ん坊は可愛い。
何故か?
まず、思考することと喜怒哀楽の感情の変化が顔の表情を作る。「考える」という行為が人間の様々な顔つきを作っていった。それと食べ物の違いや食べ方も骨格を変えていく。
もう一つは言葉だ。言葉のアクセントやイントネーションの違いが顔を変える。例えば、何十年も中国で暮らした日本人は中国人の顔になっているし、逆にずっと日本に住み、日本人と暮らしている欧米人なんかは日本人のような顔になっている。
そうやって出来た顔の作りの変化は遺伝子で次の世代に引き継がれていく。
(もちろん、要因はもっとたくさんある)
そんなことで、言葉もなく、考えることもなく、持っている本能だけで生きる動物は、種が同じであれば顔つきがほとんど同じままだ。
そして、この世に生まれてきて、将来的にも本能のまま、嘘をつくこともなく、損得を考えるでもない動物達は、皆、平等に素直に可愛さを持っている。
片や、マチマチの顔つきで生まれてきた人の赤ちゃんは、本人には何の責任も無いはずなのに、その時点で既に因果を背負っている。決して平等ではない。でも、もちろん、それは人の価値とは何ら関係ないことだ。それこそが、最初に発生した個性である。
人は、親や回りの人達に育てられながら言葉を覚え、喜び、怒り、悲しみ、そして楽しみながら考え、自分の個性を見出し、伸ばしていかねばならない。
と、いうことで、可愛い顔で生まれた子も、そうでない顔で生まれた子も、スクスクと子供らしく育って欲しい。そして、自分の生きる力で魅力的な自分を創造していくのだ。それは、持って生まれた因果ではなく、親の愛と自分の責任で造りあげるものだから。そして、より良い因果を自分で造り、次世代に繋いで行けばよい。
ところで、「かわいい子には旅をさせよ」という言葉がある。これは、「子供には親の傍で楽ばかりさせるのではなく、離れた所で人様と交わる苦労をさせなさい」ということだと理解しているが、「かわいい子には足袋をはかせろ」ちゅうのもいいかも知れない。
西洋文化が入ってくるまでの日本には水虫は無かった!
と、ワタシは勝手に思っている。指を独立させてはく足袋は水虫を発生させないだけでなく、足指を器用に動かすメリットもある。何10年か前までの日本人は日常的に足の指を使ってモノを掴んだりしていたのだ。その時代には今ほどのボケ老人は居なかった。(これも勝手な思い)
そういうワタシは、最近はやりの足袋風靴下は、はいていない。
今日も、いい加減な論理に付き合ってくれてありがとう!
(もっと、まともなことを考えろって? いや、ただの思いつきだから…)

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