1973年の晩秋。
大阪の地で社会人になって2年目の秋。
仕事が忙しくなる前だったが、休日を利用して京都に遊びに行った。
京都女子大に続く坂道の一角にある喫茶店で、ワタシは珈琲カップに目を落としていた。ミルクの白く渦巻く模様に気を取られながら、楽しそうな妹とその友人の顔を交互に見つめていた。
故郷から遠く離れた地での学生生活は楽しいものでなければならない。充実したものでなければならない。
ワタシは妹の輝く笑顔が嬉しかった。ふと、外に目をやると先程から出てきたらしい風に枯れ葉が舞っていた。それは聞こえるはずもないのにカサカサと音を立てていた。
店内に流れている音楽が妙に心に入ってきて、妹達の話もうわの空。足でリズムをとりながら頷いていた。
「学生街の喫茶店」
思えば、あれから36年もの時が過ぎ、多くの人々と交流し、多くの経験をし、多くのものを生みだし、多くのものを得て、そして失ってきた。
『あの時の歌は聴こえない 人の姿も変わったよ』と言うのだが、時の流れはすべてを変えるのだろうか?と、思うことがある。
高度成長期に社会人となって厳しい経験も楽しい経験もした。
街の装いも大きく変わり、交流する人々も変わった。
世界的不況の時代になり失業者が溢れている。政治も経済も裏工作だらけ。
正義が捨てられた住みにくい世の中に失望しそうになる。
でも、時が流れてもいつも変わらないものがある。
子供の頃の思い出、中学、高校、大学。社会人になってからの怒涛のように押し寄せる思い出。
そして、今の生活。未来への展望。
だから、やっぱり自分は自分。自分を見失わないことが大切。
自分が社会を構成する一部であることを認識しなければならない。
どれだけの時が流れても変わらないもの。立場や肩書が変わっても変わらないもの。
それは自分という存在なのだ。
今日はたまたま「学生街の喫茶店」を歌っていたガロの大野真澄さんの新しいアルバムを視聴していて、こんな文章を書いてみた。
ここ↓
大野真澄 Vocal’s Vocals
先日、日出の糸ヶ浜に行ってきた。
干潮で砂浜に残されたクラゲはやがて死んで消えていく運命にある。
ヤドカリ達は死んでしまった巻貝の殻を引き換え取り換えしながら成長していく。
長閑な海、奇麗な砂浜。
繰り返す生命の営み。
人は心まで変わらなくて良い。ただ、波に洗われるだけで良い。
正しいものの見方、考え方から生まれたもの
それが真のカイロプラクティック
今からでも遅くない
長い間、痛みで苦しんでいる人も
すぐ目の前に必ず希望が見えてくる
根本原因を正す
快方の森カイロプラクティック院

4