東京へ行くのは何年振りだったろうか?
A300の力強い出力にちょっと安心しながら、過去を振り返っていた。
サラリーマン時代は毎月、本社の会議で上京していたが、それとて、もう17年も前のことになる。
「東京へは、もう何度も行きましたね♪」
若い頃、女房が良く口ずさんでいた歌が、ふと浮かんできた。
羽田に着くと、そこには友人が迎えに来てくれていた。
「滅多に来ない東京で、とまどうだろうから・・」
「確かに・・」羽田から目的地に行くバスでさえ、みんながパスのようなものをスキャンするだけなのに、ワタシ一人が現金を払った。こんなことから既に時代から取り残されようとしている。(笑)
ホテルに荷物を預けて、まだ午後3時前だというのに早くも飲み屋を探しまわった。蒲田は想像以上に大きな街で、地方の県庁所在地より遥かに大きく人も多くてビックリしたのだった。
ただ、東京というイメージではなくて、懐かしい大阪の梅田や難波のような感じだった。これが東京の下町の雰囲気なのだと友人が言った。
友と飲みながら語らうのは楽しい。
いろいろ話しているうちに、友人の知り合いの話になった。その知り合いは以前より腰が悪く足にもシビレが出ていて、治療を続けているのだけど、一向に回復の兆しが見えないので、ワタシのことを紹介したことがあると聞いていた。
されど、東京と大分ではなかなか治療の機会が持てないのは当たり前田の何とかだ。
実は東京に来る飛行機の中で、ワタシはその人のことが頭に浮かんだことを友に伝えた。すると、友は「じゃあ、その人に連絡をとってみよう」と言った。お、何やらコトがうまく運びだしたと嬉しくなった。
されど、友はその人の連絡先を知らなくて、何人かの人に聞いたけど、誰も判らず、最終的に家に電話をして、同窓会名簿を調べてもらったんだけど、住所は判っても電話番号は記載されていなかった。
今度は104で調べることにした。
でも、電話番号を知らさないようにしている人も多い。「連絡付くか付かないか? まあ、これが縁というものだろう」と思っていた。
家の電話番号は幸いにも判った。でも、電話に出ない。土曜日だし、出かけているかも。2回目の電話で奥さんが出た。その人、今日は遠くへ出かけているとのこと。携帯の番号を教えて頂く。
これも2回目のコールで本人に繋がった。あとは、本人が来るかどうかだけ。
ワタシが東京に来ていて、今、飲んでいるけど、その気があるなら治療をすると伝えたら、これからそちらへ行くという返事があった。直前まで最近スポットをあびている高尾山に登っていたとのこと。これから電車を乗り継ぎ1時間以上かけてやってくることになった。
友人もワタシも、今回のことはトコトン追及して、何とか本人に連絡が付くことを願っていたし、本人が何とか来てくれることを祈っていた。
「縁があれば・・すべてうまくいく」
1時間ちょっとで、その人が来た。
早速、ワタシが泊まるホテルに行って治療開始したのだが・・。
ベッドは柔らかすぎて使えないし、床にシーツを敷いて施術するにも勝手が違っていつもどおりにはいかなかったけど、何とかしようというワタシの熱意と努力の効果はあったのかも知れない。
終わった後、ワタシは完全に酔いは抜けていたので3人で飲み直しをした。
その人はワタシ等と同郷の1年先輩になる人で、家も比較的近所だったから、小中高と同じ時を過ごした訳で、その頃、きっと何かとすれ違う場面があったに違いなく、柔道界の猛者にも関わらず、朴訥(ぼくとつ)として、されど試練を乗り越えた人だけが持つ、心底の優しさを感じさせる人だった。
翌日のカイロプラクティックの某試験も、まあ何とか無事に終わり、東京を去らんと羽田に着いた頃、友から連絡が入り、また見送りに来てくれた。彼は、その日も山に登り、早めに降りて遠路羽田まで来てくれたのだった。
何ていい奴なんだろう!
出発までの1時間、また飲んだ。
搭乗前、一言「ありがとう!」と言った。
大分に向かう飛行機は満席だった。
気になっていた試験も終わり、友と有り難い時間を過ごし、縁あって在京の同郷人と知り合えて、また大分に帰省した時に治療に来てくれることになった。
『東京へは、もう何度も行きましたね。君の住む美し都♪』
口ずさみながら、東京に住む親友と家で待つ女房のことを想っていた。
いつしか心地よい眠りに付いていた。
正しいものの見方、考え方から生まれたもの
それが真のカイロプラクティック
今からでも遅くない
長い間、痛みで苦しんでいる人も
すぐ目の前に必ず希望が見えてくる
根本原因を正す
快方の森カイロプラクティック院

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