昨日はワタシの誕生日だった。
いろいろなことがあった。いや、いろいろなことがあったのは、あえて自分でやったことだった。楽しんだはずだし、望んだことも達成した。
でも、そういうことをメールでやりとりして、すごい違和感を感じた。何か理解が足りないと思って、またメールをした。そんな自分が嫌になって、ココロに冷たい黄砂を含んだ季節風が吹いた。
さて、誕生日のついでだから書くけど、
いい年をした男に誕生祝の言葉なんて、ちゃんちゃらオカシイ。ワタシは掲示板などで、そんなことをしているのを見ると「フン、〇〇じゃないの?」と思ってしまう。そんなことをして何になるんだ? 大切なことは、そんなことじゃない。言わずとも、言われなくても意識することだ、己自身を。
夜、娘から、こっそりと誕生祝いのメールが届いた。それはそれで嬉しいことだ。だって何より大切な家族なんだもの。嘘、偽り、飾りのないホンモノの愛がそこにある。
ところで、フライフィッシングは奥深いと言われる。難しいと言われる。だから、どんどんと深みにハマッテ行く。道具にも、魚や水生昆虫の生態にもフライ作りにもキャスティングにも。技術の向上に余念がない。
でも、そこにも見落としがちな大切なことが隠されている。魚は自然の中で自然に生きているということだ。人が考えるほど、魚は難しいことを考えているはずもなく、生きて行く為に餌を食べているだけだ。
フライはその餌となる虫を、あえて毛鉤という擬似餌で釣るものだから、ああでもない、こうでもないと思考錯誤を繰り返す。その思考錯誤こそがフライフィッシングの真骨頂と言える。わざわざ、釣り人は難しくしているのだ。だからこそ、フライフィッシングは高度になれば哲学とも言える。
川の流れがどんなに複雑であろうが、何を食べているのか判らない状況であろうが、風が強かろうが、魚は生きるために餌を食べている。厳しい状況であればある程、技術に頼って釣ろうとしても釣れないものだ。人の技術なんて絶えず動いている大自然の前では、たかが知れているのだ。
じゃあ、どうすれば良いのか? 諦めるのか? いや、それでもフライフィッシャーは誰一人諦めはしないのだ。(笑)
答えはただ1つ。
自分の学習してきた技術や経験をフリーにして自然の一部になりきることだ。風になり流れになり、虫になり魚になる。今までに習ったインストラクターの教えや、専門書になんだかんだ書かれているそれらしい教えを1度捨てて、自分で真実を見つけ自分流を身につけることだ。
釣ろうと思うから釣れない。自然条件はそんなに甘くない。今、自分が立ち向かっているものに成り切ることだ。自然愛を感じることだ。魚の気持ちに成り切ることだ。
「釣ろうと思うな。感じることだ!」
で、その心境になれば、フライなんて、まあ、そこそこで良いし(経験豊富の中でそこそこね)、道具だって自分が気に入ったモノに馴染めば良いし(道具を使いこなす)、美しいだけのキャステイングでは釣れないことも知ってくる。基本をベースにして、その時の自然状況に適応したキャステイング、釣れるキャステイングをする必要がある。
難しい状況、釣れない状況で釣ることは、ある意味簡単なことです。
わずかな意識の変化だけ。 考えて無理なら感じなさいってこと。
で、これを読んで、「ふ〜ん、上手いんだ」なんて思ったり、鼻持ちならんと思う人もいるでしょうけど、ワタシは決して上手いなんて思っておりません。キャステイングの上手い人、フライを巻くのが上手い人、高級な道具を沢山揃えている人、いくらでもいます。
ワタシが上手いのは、フライフィッシングの楽しみ方なのです。

0