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2005/4/11

guitarra  日記

 猫さんたちが大暴れの季節です。家の近所では今日も明け方5時ごろまで大騒ぎしていました、何かが破壊された音もしていました
 家の近所の半野良猫たちは私のことを匂いで憶えているようで、通りかかっても逃げません。逃げるのは仔猫か新参者です。夏にはまた仔猫ちゃんが増えるんでしょうね。

 作詞にあたり辞書とお友達状態。今日は広辞苑さん登場。使っていない言葉がこんなにあるんだなーと実感。ぱらぱらめくってみているのもおもしろいです。野田秀樹さんの戯曲集もおすすめ。言葉遊びワールドで、韻の嵐が心地いい。読んでいるとなんだか言葉に自由になれる気がしてきます。
 
 今日大きな発見がありました、「ファドに詞をつける段階で、ポルトガルギターの合いの手の存在を忘れてはならない」ということ。Esquina do Somの月本さんと出来上がりの歌詞を吟味していてわかったことでした。歌い手の立場だけでは気づけませんでした。ギターとのやりとりは次の段階といえば確かにそうなのですが、歌詞が字余りになるとポルトガルギターの合いの手を殺してしまうというのが彼の意見。「おおーっ!」と頭に電気がつきました、自分で書いてみて初めてわかったことでした。今まで歌ってきた曲でも合いの手を意識していましたが、もっと歌とポルトガルギターとギターの伴奏にいいやり取りが生まれればと探求中だったので、初歩的ですが嬉しい発見でした。これがわかると、もっと伴奏とからめる!
 確かにいいファドは合いの手との合相がいい。なんでかなと思っていました。アーティストたちの技術・人間関係や感性の領域がすべてといばそうなのですが、何かあるはずと思っていました。
 実際に意訳から作った自分の歌詞の字余りを思い切って削除して簡潔にまとめると、その削った部分がポルトガルギターの合いの手で埋められていく関係が成立するんです。行間を読むという作業が音楽的にここで発生しているんですね。自分で書いているから余計にその大事さを感じます。私以外の新しい感覚がより一層入ってくるわけです。ファドに楽譜がなくてもかまわないのはこういうところなんでしょうね。アドリブでそれが成立しているからおもしろい。ジャズなんかもそうなんでしょうね。
 当たり前でしょう、と思われた方も多いと思いますが、私には「知っているつもり」→「確信」の大変化だったので今日は小躍りです。

 以前、Esquina do Somのお二人との練習中に、こんなことがありました。ある曲に「ロザリオ」の歌詞がでてきて、すぐあとにギターの合いの手が入ります。水谷さんの奏でた音がロザリオが鳴った音のようで、鳥肌がたちました。それ以来必ずいれてもらっています。毎回入っていてもライブのたびに表情がちがっているので、歌うたびにどんなものがくるか楽しみでした。同時に、歌がひどければいい音は聞こえてこないのでスリル満点でもあります。月本さんのポルトガルギターにしても同じで、三者が呼応するように鳴り合う瞬間をもとめてきました。今回の発見で、こういったことがもっと深まっていくといいなと思います。ポルトガルでもそのあたり探ってきます。

 おお、今日は長い長い。



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