渋谷の宮下公園を、あのNIKE/ナイキによって整備しようとする計画が渋谷区の方で出ているそうだ。これを宮下公園ナイキ化計画というらしい。
山手線の線路沿いのあの公園は、線路から見ると緑豊かな印象を与え、周辺に住む人には憩える場所でもある。が近くの都の児童館隣にある美竹公園や歩ける距離にあるあの広い広い代々木公園に比べたら、住民だって多少なりとも、外からの一般人には尚の事、足の向きずらい所だとは思う。まだ端っこにあるかもしれないブルーシートの家を少し疎ましく思うこともあるかもしれないし。
誰もが何を目的にするでもなく、何となく歩いたりゆっくり憩える場所、そういう場所を都市は所々に必要としている。
ただ今この東京という都市で人の生活は様々だ。皆それぞれに豊かな時を過ごしたいと思っているけれど、お洒落を考えて生きている人もいるし、仕事で頭がいっぱいの人もいるし、子育てをしている人もいるし、仕事がなくて困っている人もいる。だからこそ公園はそんな全てを受け入れるだけの包容力として何にでも変容できるスペースとしての役割が大切なのではないか。
そうでないと、公共の場は本当の意味でその公共の意味を果たさないし、私達市民は同じ社会で共に在り生きている様々な人を受け入れる機会を失い、いつもこの市場主義の経済のいい所だけを見て、都合の悪いことは切り捨てるような感覚を持つことになるのだろう。そして、ある日突然切り捨てられる当事者になっていたりもするだ。
だから、本当の意味での公共性をもつ公園は、今の全てを包括できるような場所であり、全ての人がそこにいていい、誰でもいつでもそこにいられる安心な場であることが重要なことなのだ。
今、どんなにいろいろな人がいるか、そうしたことを受け容れずらい社会になっていると思う。自分の必要な人だけでほとんどのことは出来るし、人に会わないで今の生活をしようと思えばそれも可能だし、やりたくないような嫌な仕事やかつては生活するためにしなければならなかった仕事はやらないでも済ませられるし、嫌なことはどこか見えないところで処理し消してしまうような感覚がある。それでもなお、やはり人を人として扱わないような労働もまた新しく出てそれに従事せざるを得ない人もいる。
ホームレスを殺してしまう中学生がいたりするのはなぜだろうか、
働いても報われず、誰でもいいから人を殺したい、と思って事件を起こすのはどうしてだろうか、。
せめて人と人との関係においてから、そうした排除や消してしまう感覚がこれ以上侵蝕しないように、公共のスペースはどのような場であったらいいか考える必要があるだろう。
企業が作ることで出来る綺麗でカッコいいご都合主義のモノ造りやお金を払わなければたのしめない場所では、もうこの社会は間に合わない。
本当の意味での人間性を求める動きとして、公園を考える時だと思う。
宮下公園ナイキ化への緊急サウンドデモ
今日あるそうです。
12月5日(金)18時半〜20時
宮下公園中央階段上
私は行けないのですが、興味ある方…。