情報にしかならない事。
魅力的に思うことを見つけ出し情報が発信される。
その為のコミュニケーションツールが今やいくつもある。
しかし時に情報は上澄みで。
情報の源となるものが何なのか、なかなか感じられないことがあったり、
情報になりきれないモノことが取り残されていることも在る。
というか、どこからそんな情報が出来るのか
思わず見てしまった人間関係マップは私自身の繋がりなのか
誰か別の人のような繋がりが描かれ紹介されてさえいる。
これを誰が作り誰が見るのだろう、不思議。
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人にも物事にもいろいろな側面があるけれど情報になるのはその一部。
それ以上は情報になりえず切り捨てられていく、
有る意味仕方のない必然なのかもしれない。
こうした情報はある存在物事を知るきっかけにはなるけれど、
それとそのまま応答し続け思考想像作業を行うことは、だから
想像以上に、そこに在る身体を置き去りにするのかもしれない…。
そうでなくても、人のことを理解するのは易しくないし、
言葉は誤解を生み出すばかりだけれど。
それでも、何とか人に何かを伝える為に、
様々な方法がその時々にそれぞれに合ったように使ればよいわけで、
全ての方法は肯定的にある。
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どうしようもないことさえも、時に素直に直接言うことで
この身の実態をつかむ。
こんな私という本音を、ぎりぎりでも何とか
分かってもらいたい(分かろう)とする。
この身体を持つ実際の
どうしようもないかっこわるさがそこにはある。
都合のいいことばかりでない、いろんな日々を過ごすには、
どうしてもそこの所にあるほんとのことを誰かに伝えたい
そして共にありたいという気持ちはきっと誰にでもある。
大勢でなくてもいい、シンプルで屈託ない、
素朴な日常的な人との関わりが
いま、一層魅力的に感じられてくる。

