この一年から来年を考える。
私たちの生活が崩れる弱いものの上にあることを学んだ今年。
それでもまだその上にしがみつきシステムが動き続ける
のを肌で感じる今。
このシステムでの生活の裏側に多くの犠牲を強いながらも
その犠牲を感じさせまいと麻痺させるような
生存ための防御装置のようなものすらきっと働いてしまっている。
そんな社会の巨大な流れに、それでも諦めずに
やわらかく抵抗し新たな流れを作っていく方向も
私たちは確かに模索している。
この世界に生きる理不尽さや矛盾を超える意志を持ちながら、
他の生き物よりも知恵を使い便利に駆使する社会にいることを
諦観することは可能でしょうか。
恐れずに、今感じていることを流さずに、
感じていることを人と共有できるよう、
違うけれど似たような周囲の存在を認め高めながら
自分の意思表示をすること。
頑なにならずに、場を広げてみること。
ひとつの小さくともエネルギーを持つ粒子となり
その粒子が何らかの形で大きな形やエネルギーになるのを待つこと。
「ゴドーを待ちながら」という有名な戯曲がある。
待つという行為が、何かあるようででも変わらない
さまざまな日々として描かれている。
準備が大切とよく言われるけれど
この待つという準備の営まれる日々に
一体何が行われているだろう。
このひとつに、
小さな一つの生命として生き生きと周囲と共に在る
ことがあると思う。
周囲の共感できるもの・ことを出来るだけ見い出し共感する
あるいは何か働きかけることも出来るかもしれない。
そんな、自分ではない、場を盛り上げる余裕を持ってみたい。
そこには思っている以上のエネルギーがきっと生まれる。
ドラマが生まれるのかもしれない。
その時、きっと自分のエネルギーも知らずに高まっている。
周囲の価値観・存在を認め盛り上げることが出来れば
たとえ小さな粒子でも大きなエネルギーを生み出す一つにきっとなる。
その時、深呼吸し心身をリラックスすると、共感したい他者・周囲を
自分のことのようにより感じ考えられるかもしれない。
そうすれば、自分というものが塵のようなものになりながらも
大きな所にあり自分の居る場全体のエネルギーが一緒に盛り上がり、
全体で理想の方向に進んで行けるのかもしれない。
そう思いながら、次なる時に臨んでみることができれば。
臨んでみたいです。。。