今まで謎とされていた圓寂坊の
活動状況・思想・妄想・幻想…
そして告知事項などを書き綴るブログ
2007/7/22
佛教界では「千の風になって」という歌の
歌詞について危惧を抱いている人がかなり
多いみたいである…。
この歌、素直に歌詞を読んでみれば、人も
死んだ後、大自然のエネルギーの循環サイ
クルに取り込まれ、自然と一体となり、大
生命体としての環境に、同化するのである
から、いつまでも悲しむ必要はないという
意味だと解釈できる。
物理的なエネルギーの見地からいえば、
それはまったくその通りであろう。だが、
それでは肉体が滅びた後、人の意識が
一体どうなっていくのかという疑問が
残ってくるだろう。その疑問に答える
ために古来からいろいろな宗教がそれ
ぞれの立場で答えを出しているはず
である。
仏教のこの問題に関する答えは、かなり複
雑で基礎知識を必要とするうえに、私は日
本人の伝統的霊魂観との齟齬を埋めるほど
の確実な知識を有していないので、ここでは
それに触れないことにし、日本の先祖祭祀
や霊魂観に直接影響を与えたと思われる
古代中国の霊魂観を紹介してみたい。
(諸法無我を主張する仏教では霊魂という
我の主体を認めない。それを説明するには
唯識学のような煩瑣な学問を研究する必要
があるのであるが、私の唯識学の知識は
微々たるものであるから。(;^_^A)
さて、日本のように家では仏壇に位牌を
祀り、屋外では墓を造って遺骸や遺骨を
供養するという方式は、どこから来たの
であろうか?私はおそらくそれは古代中国
から伝来したものではないかと推測して
いる。
古代中国では、人が死ぬと死体から魂が
抜け出すと考えたようである。その霊魂は
「魂魄」と呼ばれる。字の通り「魂」と
「魄」の要素に分けることが出来る。その
魂魄の割合は魂が3分で魄が7分である
ということだ。
陰陽思想の中国のことであるから、魂魄
にも陰陽がある。魂が陽で魄が陰である。
陰陽思想では、陽は軽く、陰は重い。し
たがって、魂は軽いので天に昇り、雲と
なる。(その証拠に雲の下の部分は魂の
左の部分と同じである。)また、魄は重い
ので地上にたむろし、屍のそばに留まる
と考えられた。
さて、魂と魄は祀る方式も違う。位牌と
いうものは、陽気である「魂」を人宅にて
祀るものであり、墓というものは、屍体や
遺骨を収めて陰気である「魄」を祀ると
いう風に分かれるわけだ。
また、古代中国の思想によると、魂は地
上の子孫においてなんら悪影響を及ぼさ
ないが、魄は「鬼(幽霊)」として祭祀
を受け、供養や饗応を受けることを喜び、
それを怠ると祟りを為すと考えられた。
そしてその陰気である「魄」は供養や
饗応を受けるうちにだんだんと浄化され、
その陰気は散じていくと考えられたよう
である。だから、古代中国では墓参りは
重要行事であるし、先祖の位牌に手を
合わせて加護や幸福を祈るのは自然な
ことであったろう。
位牌や墓の供養という方式を残している
という観点から、日本古来の伝統的な先祖
祭祀の思想や方法論は、おそらく中国から
受け継いだものであろうと思われる。
また、日本の仏教の葬送儀礼や先祖祭祀は、
この霊魂観や伝統にのっとって、方便とし
て行われているものであるから、仏教者は
堂々と先祖供養や墓参を勧めてよいと思う
し、なんらこの歌に影響される必要はない
と考えるものである。
ルーツを解っていれば、それほど危惧しなく
ても良いような気もする。
…ただの歌じゃん。(;^_^A

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