今まで謎とされていた圓寂坊の
活動状況・思想・妄想・幻想…
そして告知事項などを書き綴るブログ
2007/10/10
人間という生物は、日常生活において、自動的に
生きている場合が多いように思われる。ここでいう
【自動的】とは、意識的に物事を捉えて判断し、
意思決定し、行動するということの正反対を言っ
ている。それは過去の経験や習慣、それより得ら
れた認識に基づき、習慣化された行動様式を創り
だしたものであり、それを持続していると、多く
の場合無意識的に行われるようになっていく。
既にパターン化され、無意識的となった行動様式
や判断基準は、便利な機能を持つように見え、
習慣に従ってさえいれば、ある程度の状況を簡単
に処理できるので、有効なものではある。
だが、
このような無意識的に行われる、習慣的な判断
や行動様式は、ともすれば固定的になりがちで
あり、流転変化する無常なる森羅万象に対応し
なければならない我々にとって、ある時は有効
であっても、いつもいつもそうであるとは限ら
ないのである。それどころか、油断していると
次々に起こってくる事象に対して対応できず、
致命的な境遇に陥ってしまうこともあるだろう。
また、固定的となっているが故に、本来取れる
べき行動の自由が制限される。つまり、行動の
選択の余地が限られてくるのである。しきたり
や常識などといったものに縛られるのもそれに
類する。
このような状況は、コップに泥水を入れ、攪拌
したのち、しばらく放置すると、泥が沈殿し、
澄んだ水が出現するのと似ている。水が澄んで
いるので、汚れていることに気づかないので
ある。本当は、泥水を全部捨ててしまい、新
しい清浄な水を入れれば良いのだが、それは
まだまだ先の段階であり、まずはこの泥水が
汚れているということに気づかなければなら
ない。汚れていることに気づけば、泥水を捨て
なければならないとの自覚も出て来るはずである。
では、泥水に気づく為にはどうしたらよいか?
…そう、もう一度攪拌すれば良いのである。
観の瞑想によって、自らの心や環境を観察する
ことは、上記の比喩の泥水を攪拌するのと同じ
ことである。固定化された見方や行動パターン
に気づくことができる。気づけば状況を理解
することができるだろう。理解が進めば、知恵
と選択の自由が生じる。そうなれば、本来自身が
持っている知識や能力をさらに豊富に生かす道
が見つかるはずである。
観に作為はいらない。ただ観察するだけでよい。
何も変えようとする必要はない。常に沈殿して
固定化しようとする心を見つめているだけで
よいのである。観によって沈殿に気づけば、
その時点で既に攪拌されているのであるから。

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