今まで謎とされていた圓寂坊の
活動状況・思想・妄想・幻想…
そして告知事項などを書き綴るブログ
2006/2/28
前に苦行のやり方の中で、周利槃特(チューラ
パンタカ)尊者について少し触れたが、そのお話
は非常に密教の修行に通じるものがあるように
思われる。
どんな話かというと、昔、お釈迦様の弟子に周利
槃特という方がおられたが、この方は少々頭脳が
遅鈍であったようで、お経の文句はおろか、短い
偈文でさえ覚えられず、修行に障りが生じて悩ん
でいた。
そういう体たらくで、同じ仲間の僧侶からは馬鹿に
され、実の兄(この人は聡明)からも、「お前は
坊主に向いてないから、やめて帰れ」などと言わ
れる始末であった。
で、まぁいじめに遭ったりしたのだろう。悲しくて
泣いていると、釈尊が通りかかられ、「お前は何で
泣いているのだ?」と問われた。そこで、周利槃特
尊者は「私は仏道を信じ、修行して何とか悟りを
開きたいと思うのですが、生まれつきあまりにも
愚鈍で、経文はおろかたった一偈さえも憶持する
ことができないのです。」と答えた。
釈尊は「自らの事を愚かだと解っている者を愚か
とは言わないのだ。愚かなのに自分は賢いと思っ
ている者こそ、本当の愚か者なのだ。」と仰って、
かの周利槃特尊者を観察され「では、お前に修行
の方法を授けてやろう。お前は掃除は出来るかな?
これから毎日、僧衆の履物をきれいにする仕事を
修行として行いなさい。そして、その履物を掃除
する時、『塵を払わん、垢を除かん』と唱えなが
らやるのだよ。」と修行の方法を示して下さった
のである。
感激した周利槃特尊者は「ありがとうございます。
それぐらいなら、私にも出来ると思います。」と
喜んで毎日その修行を行った。だが、本当に愚鈍
であったため、ともすれば『塵を払わん、垢を
除かん』という言葉すら忘れそうになるのである。
しかし、言葉と行為とがリンクしているので、
一生懸命に仕事をこなしていると、何とかその一句
を覚えることができたのである。さらに、何ヶ月
か経つと、この偈文の意味を考えるようになった。
「そうか、この塵というのは私の煩悩、垢という
のはたまりたまった業障(カルマ)なのでは?」
と心にハッと悟る所があり、その意念でこの修行を
続け、遂に阿羅漢の悟りを開いたという。
さて、この周利槃特尊者の修行法は全く密教的で
ある。何故なら、この修行には身・口・意の三密
が揃っているからである。修行の本来の目的は
自己の煩悩や業障を取り除く事であるが、それを
身においては履物を掃除するという象徴的儀式
行為に置き換え、口においては『塵を払わん、垢
を除かん』という言葉で象徴させ、意念においては
一心に自己の意識浄化という目的で一致させて
いるのであるから。
(…密教って本来愚鈍な人向きかも?(;^_^A)
因みに真言はマントラという言葉から発生している
ようであるが、このマントラというのは、『物を
入れる器物』というのが本来の意味らしい。である
から、唱えるにあたっては、漠然と唱えるのでは
なく、器物としてのマントラに入れるべき意味と
いうものをちゃんと把握して、唱える必要がある
だろう。
さらに、最近見かけるニューエイジの本などには
真言を唱えるという事を、集中を助ける為の方便に
過ぎないとされているようである。もちろん、そう
いう部分は大きな面を占めるであろうが、それだけ
というのは、あまりにも幼稚な見方であると思う。
お大師様は「真言は不思議なり、観誦すれば無明を
除く」と仰っておられる。何が言いたいかというと、
誦するだけではないのである。観じなければならない
ということである。この『観』の一字は非常に重要
である。

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2006/2/26
高祖大師は高野山を修禅・隠棲の地として拝領
されたと聞く。今でこそ高野山は真言密教の本
拠地のように思われているが、昔はそれほど有
名ではなかったし、そういう認識もなかったよう
である。なにせ紀州の田舎というロケーション
の山でもあるし。f(^_^)
高祖大師が本来真言密教の根本道場として帝から
勅許され、開かれたのは京都の東寺(教王護国寺)
であった。そして、京都には東寺の他に仁和寺、
大覚寺、醍醐寺といった大きな本山がごろごろし
ている。つまり高祖大師にとって、京の都こそが
真言密教を広めるための重要な場所であったという
わけである。教えを広める場所には都会を選んだ
のである。どうも、こと布教に関しては、高祖
大師という方は都会派だったようである…。
さて、高祖大師は隠棲の地高野山の墓地群のなか
で入定されている。思うに、実はこれは誠に沙門
の鑑とするべきことである。何故なら原始仏教の
時代から、仏弟子の禅定修行はシダ林を最適の地
とするからである。
シダ林とは、墓地の事であり、古代インドでは屍
体が打ち捨てられたような場所こそ、無常を観じ
て執着を断ち切れる場所と考え、そこが修禅の最
適の地と定められていたのである。だから、墓場
での瞑想こそが正統派の仏教徒の修行ということ
になる。
つまり高祖大師は、容儀としては約1200年
ずっとそのシダ林にて禅定を修し続けられてお
られるというわけなのである。…凄い!(@o@)
また、三井英光大僧正の「入定留身」という書によ
れば、その高祖大師の禅定こそは、『三密加持の
秘法によってその三昧に止住する時は、意識の底の
生命の土台たる阿頼耶識において金剛界の種字を
植えることになり、その種字より微細金剛身として
現生するが故に、生死の世界に処しても、しかも
無染無着となり、広く衆生を利楽し、身を百億に
分って諸々の境界に応現する…』という衆生済度の
為の禅定であるということなのである。
…南無大師遍照金剛!

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2006/2/24
麻鞭は作っては見たものの、仕上がりがどうも
みすぼらしいので、実は、どうしたものかと、
ここ数日躊躇していたのだ。(;^_^A
が、マルセタロー氏が神戸すぴこんで試しに
売ってくれるというので、一応完成させてみた。
すぴこんで三本ほど売る予定。価格は本来三千円を
予定していたのだが、見栄えがあまり良くないので
二千円(予定価格)でわける事にした。
使用法のプリント2枚ほど付ける予定。

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