真言宗の修法の中に施餓鬼法というものがある。読んで
字の如く、餓鬼を供養する法なのであるが、真言行者は
毎日これを修することになっている。まぁ、時間にして
5分ほどしかかからない簡単な法ではあるが、この法を
修行する功徳は計り知れないものがあるという。
実は真言宗内の伝承によると、寺門繁栄や福徳増長の為に
は「護摩と施餓鬼」がもっとも重要であるということだ。
つまり、どんな貧乏寺でも毎日施餓鬼をし、護摩を焚いて
いるとだんだんと繁栄してくるらしい。
仏教にはあらゆる生き物は輪廻転生するという思想が
あり、これを六道輪廻という。地獄・餓鬼・畜生・修羅
人・天の六つである。以前は、私も教えられたとおり
六道輪廻の説をとっていたのであるが、最近は阿修羅
界は天界と同等と考えているので五趣と認識している。
もともと初期の仏教では五趣と言い、輪廻転生する世界
は五つだけだったのが、いつの間にか阿修羅を悪魔的に
見る思想が出現して六趣となったらしいのだ。(阿修羅
は光り輝く大いなる福徳を有する存在であり、決して
悪魔的なものではないのである。…余談ではあるが。)
その餓鬼というのはその餓鬼界に生まれて苦しみを
受けている存在をさす。餓鬼は大変醜い姿をしており、
針のように細い喉と、痩せ細った体を持ちながら、何
故か腹だけは大きい姿をしている。また、血膿や汚物
がご馳走に見えたり、食物を食べようとすると食物が
燃えて食べられなかったりする上、針のように細い喉
を食物が通ることがないのである。そう、だから彼ら
は常にひもじさを感じ苦しんでいるのである。
この餓鬼界は、地獄・餓鬼・畜生という三悪趣のひと
つなのであるが、ここに生まれる原因は「慳貪(けん
どん)」の業による。慳貪の業とは吝嗇、つまり「けち」
「物惜しみ」が甚だしいという業なのである。
(…皆さん、けちはよくないみたいです。(;^_^A)
施餓鬼法というのはまさにそういう餓鬼達を真言密教の
威神力によって救うための法なのである。おもに夕刻、
ひそやかに行うのであるが、どんなことをするかというと、
まず三宝と観世音菩薩に帰依して、印と真言の力で餓鬼
を呼び集め、喉を開き、食物を加持して与え、五智如来の
威神力により、餓鬼界から解脱させ、菩提心をおこさせ、
三昧耶戒を授け、光明真言によって転識得智させ、般若
心経を読誦して法楽を与えて供養を終わるという流れに
なる。
以上が眼に見えぬ餓鬼という存在を想定して修する法の
アウトラインである。
さて、ここのお寺には施餓鬼壇がしつらえてあり、毎朝
の勤行の後、施餓鬼法をやっているのであるが、最近
ふとひらめいたことがある。(まぁ、やってるのは夜じゃ
ないんですけどね…。(;^_^A)
それは、実は餓鬼という存在は外界にも存在するかも
しれないが、本当は自らの心の中にある「慳貪の心」
そのものを言うのではないかということに気づいた。
だから、施餓鬼法というのは、自分の心中の慳貪心に
供養するものではないかと思うようになったのである。
つまり、心王である我が、心のたくさんの要素のうちの
慳貪心達を呼び集め、喉を開き、満足させ、五智如来の
威神力により、慳貪の業から解脱させ、菩提心をおこさせ、
三昧耶戒を授け、光明真言によって転識得智させ、般若
心経を読誦して法楽を与えるという構図が心中で行われる
というわけだ。
慳貪の心とは、足らないとか、もっと欲しいという念が
根本にあり、その為に人に施しをせず何でも自分のものに
してしまうということであるから、それが成仏するという
ことは、満ち足りるということであろう。つまり「知足」
という状態である。言うなれば、満ち足りて欲しいものが
なくなってしまう訳であるから、これこそがもっとも勝れ
た福徳を得たと言えるのではないだろうか。
施餓鬼法を修することによって福徳を得るという意味が
少し理解できたような気がする今日この頃である。

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