真言密教の法には四つの種類がある。
息災法(そくさいほう)・増益法(そうやくほう)
・調伏法(ちょうぶくほう)・敬愛法(けいあいほう)
の四つである。他に、鉤召法というのもあるが、
これは一応敬愛法の中に含まれるとされるので、
やはり四つである。(でも、鉤召法ってどの法でも
使うんですけどね。(;^_^A)
息災法とは、罪障や悪業を取り除き、災害や厄難
から解脱することを目的とした修法である。次の
増益法とは、能力や知恵、寿命などを増長したり、
福徳を円満することを目的とした修法である。
また、調伏法とは、怨敵の悪心を制御したり、
さらには怨敵そのものを滅ぼしたりすることを目
的とする修法である。最後の敬愛法とは、和合・
親睦を祈る法であり、衆生を仏法に引入・教導
することを目的とした修法である。
一般に、息災法は四種法に通じると言われる。その
心は息災法の中には四つの法のエッセンスが含まれ
ているということであり、息災法を修練することに
より、他の三種にも通じることができると解釈して
もよかろう。
さて、「上求菩提・下化衆生」という言葉がある。
意味としては「上には菩提【悟り】を求め、下には
一切衆生を救済しよう」というような感じだが、
要するに、内に向かう修行という観点においては
悟りを求め、外に向かう修行という観点においては
方便を以って衆生を救済することを目指すという
意味だと私は解釈している。
【因みに、金剛界曼荼羅は「上求菩提」を、
胎蔵法曼荼羅は「下化衆生」を表す。】
で、この四種法は本来「下化衆生」の方便として
用いられるように一般的に解釈されている。だが、
実は内なる修行、つまり「上求菩提」の修行にお
いてこそ、大変重要な意味を持つものなのである。
内なる修行、つまり自身の修行という観点から、
ひとつひとつ見てみよう。まず、息災法は自身の
罪障や悪業を消滅させていくという法であり、
自己の意識やカルマを浄化させていく修行である。
基本の「き」であろう。(…まぁ、基本こそ秘伝
であるという武術の真髄につながるような気も
するが。)
次の増益法は、福徳や知恵、精神能力・身体能力
を増長する為の法である。実は私は昔、この増益
法の存在する意味というのがよく分からなかった。
なぜなら、上記の息災法によってカルマが徹底的
に浄化され、意識や心境が清まったならば、禅で
言う所の「本来の面目」のようなものが現前して、
自然と福智円満となるはずだと思っていたから
である。
だが私は、ある修行をきっかけに、やはり増益
法は大変重要であり、必要なものであると感じる
ようになった。それは、自己の能力の限界という
ものを痛感したときに解る。人間や生き物は、存
在としては平等だが、能力や環境においては大き
な差別があるのだ。
限定された自己の現在の能力をさらに越えて、
釈尊やその十大弟子、阿羅漢たち、竜樹菩薩や
歴代の祖師がたのように、肉体・精神において
天才的な素質を発揮できるようにならなければ、
悟りを開くなど夢のまた夢であることを痛感した。
つまり、息災法だけでは壁に突き当たるのである。
もちろん、長い時間をかければ本来の面目の現前
というような状況が訪れるだろうが、それには
多大な努力と辛苦が予想される。増益法があれば、
能力をUPしてからの息災法の世界が展開される
ということもあろう。真言密教はスピードが命である。
だからこそ、四種法の中に増益法が組み入れられ
ているのだ。先人の叡智に敬服する。
さて、次は調伏法である。これは一般的に人を呪い
殺す方法だと誤解されている。まぁ、そういう
使い方が出来ないこともないだろうし、この法に
通達すればそれは可能であろう。(内宇宙と外宇宙
の相応という観点からそれは頷くことができる。)
では本来の調伏とは、いったい何を調伏するのか
というと、その最も巨大な怨敵は、仏典で大自在
天に仮託される「自我意識」である。不動尊の
慈救呪の意味はただ「殺せ!」である。何を殺す
のか?剛強難化で、何でも思い通りになると考え
ている自心の自我を「殺せ!」と言っているので
ある。だから、この調伏法というものは、本来
みずからの心に向けられるべきものなのである。
その他、大自在天の眷属である、大力の諸天に
表象される業・煩悩障をも調伏し、根絶やしに
しなけらばならない。これは私の予測なのだが、
息災や増益の修行をつづけて、まさに悟りを
開こうとする時、阿頼耶識に薫習した微細な
業・煩悩障を一気に除滅しなければならない。
その時に必要なのが調伏法なのであろう。
(不動尊のやり方は、斬り滅ぼし焼き尽くし
跡形も残さない…。)
最後の敬愛法というのは、一応悟りを開いたあと、
一切衆生を仏教に引入し、教導するために修され
るものであろう。が、私がおぼろげに見えると
いうか、予測できる境地は、残念ながら調伏までで
ある。内に向かう修行としての敬愛法の境地は、
私などでは未だうかがい知ることさえ出来ない。
もしかすると、一切の衆生に慈悲の甲冑を被ら
せるという護身法の極意と通じるものがあるの
かもしれないが。密教は奥深い…。

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