今まで謎とされていた圓寂坊の
活動状況・思想・妄想・幻想…
そして告知事項などを書き綴るブログ
2007/7/29
「天円地方」という言葉がある。これはもちろん
〜地方というような地名を表した言葉ではない。
天は円形であり、地は方形であるという意味で
ある。古代中国の思想らしいが、天と地を図形の
象徴で表現した言葉である。
陰陽思想では、天は陽、地は陰である。また逆に、
天は陽を代表し、地は陰を代表すると考えられ
ないこともない。
陽は軽く、澄み、流動し、しかも剛である。陰は
重く、濁り、停滞し、しかも柔である。円形と方
形は、単純な図形にこのような思想を包括してい
るのかもしれない。太極のマークは陰と陽の活動
をあらわす。陰のみや陽のみでは交流や展開が
起こらない。陰陽がそろってはじめて事象が活発に
動き始める。この活発な働きを「霊活」という。
だから陰陽を具備したものは「霊物」といえる。
さて、上述のように方と円は陰陽を代表するもの
とも考えられるので、方と円を備えた物も霊物と
考えてよいと思われる。(頭が円形で胴体が四角
である人間ももちろん天地の霊物であろう。)
この観点から、古代中国などの占術に用いられる
占具を見てみると、興味深いものがある。大概、
その物体の中に方と円が含まれている。筮竹しかり、
五行易などの擲銭法に使う銭にしてもそうであるし、
風水に使う羅盤や六壬の式盤もそうである。他にも
捜せばけっこう見つかるかもしれない。
(擲銭法の銭は穴が四角である古銭を用いた方が
良いのではないだろうか。)
…霊物を作成するときには方と円をその中に含め
るべきであろう。
他にも、方と円は結界を創出するときにも重要な
要素となる。だが、これは密教に属することで
あるので、ここでは書けない。ただ、洋の東西を
問わず、結界は円=サークルを用いてつくるのが
常套手段のようではある。

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2007/7/23
ときどき「六壬占断口訣」の注文をいただく。
ありがたいことである。今日もある方から
お振込みをいただき、メール添付でお届けした。
今日はそのあと、「六壬占断口訣天の巻」の
内容をちょっと読み返してみて、ふと銭老師の
言われていた口伝を思い出した。
(一般のブログ閲覧者の方には何のことか
訳がわからないと思いますが、御寛恕
くださいませ。m(_ _)m)
さて、六壬神課の課式は天地盤を定め、日干と
日支をもとに四課三伝を出すのであるが、銭
老師に言わせると「この課式を人にたとえると、
三伝は顔の目鼻のようなものであり、四課は
四肢のようなもの、そして、天地盤はその内臓
のようなものである。」ということだ。
つまり四課三伝というのは日辰に注目して
スポットを当ててその日の占機を取り出した
ものであり、もっとも目立つ部分なのである。
…その他の隠れた目立たぬ動きは内臓である
天地盤に網羅されているというわけだ。
これは医者が患者を診断し、その内臓の病を
把握するのと似ている。…また内臓を直接
調べることも出来ますな。
…秘すべし、秘すべし。

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2007/7/22
佛教界では「千の風になって」という歌の
歌詞について危惧を抱いている人がかなり
多いみたいである…。
この歌、素直に歌詞を読んでみれば、人も
死んだ後、大自然のエネルギーの循環サイ
クルに取り込まれ、自然と一体となり、大
生命体としての環境に、同化するのである
から、いつまでも悲しむ必要はないという
意味だと解釈できる。
物理的なエネルギーの見地からいえば、
それはまったくその通りであろう。だが、
それでは肉体が滅びた後、人の意識が
一体どうなっていくのかという疑問が
残ってくるだろう。その疑問に答える
ために古来からいろいろな宗教がそれ
ぞれの立場で答えを出しているはず
である。
仏教のこの問題に関する答えは、かなり複
雑で基礎知識を必要とするうえに、私は日
本人の伝統的霊魂観との齟齬を埋めるほど
の確実な知識を有していないので、ここでは
それに触れないことにし、日本の先祖祭祀
や霊魂観に直接影響を与えたと思われる
古代中国の霊魂観を紹介してみたい。
(諸法無我を主張する仏教では霊魂という
我の主体を認めない。それを説明するには
唯識学のような煩瑣な学問を研究する必要
があるのであるが、私の唯識学の知識は
微々たるものであるから。(;^_^A)
さて、日本のように家では仏壇に位牌を
祀り、屋外では墓を造って遺骸や遺骨を
供養するという方式は、どこから来たの
であろうか?私はおそらくそれは古代中国
から伝来したものではないかと推測して
いる。
古代中国では、人が死ぬと死体から魂が
抜け出すと考えたようである。その霊魂は
「魂魄」と呼ばれる。字の通り「魂」と
「魄」の要素に分けることが出来る。その
魂魄の割合は魂が3分で魄が7分である
ということだ。
陰陽思想の中国のことであるから、魂魄
にも陰陽がある。魂が陽で魄が陰である。
陰陽思想では、陽は軽く、陰は重い。し
たがって、魂は軽いので天に昇り、雲と
なる。(その証拠に雲の下の部分は魂の
左の部分と同じである。)また、魄は重い
ので地上にたむろし、屍のそばに留まる
と考えられた。
さて、魂と魄は祀る方式も違う。位牌と
いうものは、陽気である「魂」を人宅にて
祀るものであり、墓というものは、屍体や
遺骨を収めて陰気である「魄」を祀ると
いう風に分かれるわけだ。
また、古代中国の思想によると、魂は地
上の子孫においてなんら悪影響を及ぼさ
ないが、魄は「鬼(幽霊)」として祭祀
を受け、供養や饗応を受けることを喜び、
それを怠ると祟りを為すと考えられた。
そしてその陰気である「魄」は供養や
饗応を受けるうちにだんだんと浄化され、
その陰気は散じていくと考えられたよう
である。だから、古代中国では墓参りは
重要行事であるし、先祖の位牌に手を
合わせて加護や幸福を祈るのは自然な
ことであったろう。
位牌や墓の供養という方式を残している
という観点から、日本古来の伝統的な先祖
祭祀の思想や方法論は、おそらく中国から
受け継いだものであろうと思われる。
また、日本の仏教の葬送儀礼や先祖祭祀は、
この霊魂観や伝統にのっとって、方便とし
て行われているものであるから、仏教者は
堂々と先祖供養や墓参を勧めてよいと思う
し、なんらこの歌に影響される必要はない
と考えるものである。
ルーツを解っていれば、それほど危惧しなく
ても良いような気もする。
…ただの歌じゃん。(;^_^A

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