仏教の瞑想は大きく「止」と「観」に分けられる。
止とは、心の活動を停止させることと理解できるが、
実際に、心は常に生成され活動しているだろうから、
完全に静止するということはありえない。だから、同じ
生成パターンを保って停止しているように見える状態
というのがおそらく正しいであろう。回転するコマが
停まっている様に見える状態を想像していただければ
よいだろう。
止には繋縁の止、制心の止、体真の止というやり方が
ある。繋縁の止とは、心を体の内外のある対象や、活動・
概念などに集中させて止を実現するやり方であり、制心
の止とは、五感から入ってくる情報を遮断して、強制
的に意念を止息させるやり方である。
最後の体真の止とは、諸行無常・諸法無我などを諦観
して、すべては畢竟空であると悟り、外に向かう心を
寂滅させるというやり方である。これが最も優れた
やり方であるが、実はこれが最も難しい…。
とはいうものの、仏教徒はこの体真の止を目指さなけ
ればならない。その、最も簡便なテキスト(と言っても
その奥意はとてつもなく深い…)が般若心経である。
以前、何か行動を起こすときには、般若心経をお唱え
してからすると良いというようなことを書いた記憶が
あるが、それはつまり、1〜3巻の般若心経読誦に
よって、スーッと心の様相が止滅できれば、その人は
宇宙・自然と一体となるため、あらゆる障害を超越
できるはずだからなのである。
次に観だが、これは本当に有難い問題解決法であり、
人生に処する方法である。そのやり方は「己の身体や
環境、心の状態をただ観察するだけ」というものである。
ただし、観察するにあたっては第三者的な立場を維持
するのを忘れてはならない。つまり、当事者になって
しまってはならないのである。易経にも「観」という
卦が出てくるが、これは一段高い場所から見ることを
意味する。同じレベルになっての観察は「観」では
ない。
観音経はこの「観」の道を説いたお経であり、観音経偈は
そのエッセンスを詩の形にして、記憶したり、唱えやす
くしたりしたものである。また、非常にビジュアルな
イメージを喚起できるようになっているので、経文に
したがってイメージをトレーニングすることも出来る。
ただし、重要なのは「観察・観照」のみ行って、自ら
や、環境を変えようと努力する必要はないということだ。
…作為すると、そこで因果の世界に堕ちることになろう。
般若心経と観音経偈を学べば、止と観を学ぶことになり、
これらを実践すれば、苦しみを少なくし、人生の達人
となることも可能であろう。

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