今まで謎とされていた圓寂坊の
活動状況・思想・妄想・幻想…
そして告知事項などを書き綴るブログ
2007/10/22
先日、施餓鬼法を修していて、ふとこんな話を
思い出した。(それは以前、映画「クリスマス
キャロル」の中で牧師さんが語っていたお話で
あったと記憶する。)
ある男が死んで、あの世に行った時のことである。
あの世の門番に「おまえはまだここに来る時じゃ
ないから帰ってもらおうと思うが、まぁ、せっ
かく来たのだから、ちょっと地獄と天国の様子
をのぞいていってみろ。」というので、まず
地獄へ連れて行ってもらった。
地獄に着いたとき、ちょうど地獄は食事時であり、
亡者は皆、丸いテーブルを囲んで席についていた。
食卓の上には地獄とは思えないほど豊富でおいし
そうな料理が並んでいたのだが、亡者たちは席に
縛り付けられ、手だけを動かすことが出来るよう
であった。
そして、それぞれの亡者のところには柄の長さが
1メートル以上はあるフォークとスプーンが設置
されていた。そこで、亡者たちはうまそうな料理
を食べようと、そのフォークやスプーンを使うの
だが、いかんせん、柄が長すぎて自らの口に運ぶ
ことができない。だから、料理を食べて空腹を満
たすことは不可能であった。
空腹を抱えて、食事が出来ないという状況で、亡者
たちはイライラし、ある者は怒り、ある者は悩み
苦しみ、ある者は失望し、またお互いに罵りあうが、
その状況はいかんともしがたい。永久に空腹が満た
されることはないのだ。
それを見た男は「地獄という所はなんというひど
い所だ!くわばらくわばら、こんな所へ絶対来たく
ないな。」と案内人である門番に告げた。すると、
門番は「そうかい。じゃあ、次は天国へ行ってみ
よう。」と、天国へ案内してくれた。
天国に着くと、なんと、そこもちょうど食事時で
あった。だが、その様子や雰囲気はさっきの地獄
とは打って変わり、和気藹々、お互い、にこやか
に談笑して食事を楽しんでいる。それを見て男は
「あぁ、やっぱりね。天国は最高だね。」と門番
に告げたら、「そうだな。でも、彼らが使って
いるフォークやスプーンをよく見てご覧。彼らの
座っている状態もね。」と答えた。
そこで男がよく見てみると、なんと、天国の住人
たちも地獄同様、丸いテーブルを囲んで席に着き、
食卓の上には同じようなおいしそうな料理が並ん
でいたが、やはり動けない様に席に縛られていた。
その上、使っている道具も地獄と同じような柄の
長いフォークとスプーンであったのである。
ただひとつ、地獄と違っていたのは、彼らはその
柄の長いスプーンやフォークで、料理を周囲の人々
の口に運んであげていたことである。そう、柄の
長い道具では、自分の口には入れることは出来な
いが、他人の口に食物を運ぶことは可能なのだ。
そういう状況なので、お互いに思いやり、言葉を
交わし、にこやかに食事を楽しんでいたという
わけである。
「…なるほど、そうだったのか。地獄や天国は
場所や環境じゃない。人の心の中にこそある。」
と男はつぶやいた。

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2007/10/15
「神の御心のままに」という言葉がある。私は
この言葉が好きである。これは「仏さまの御心
のままに」と読み替えてもよいと思う。ここで
いう仏さまとは、もちろん亡くなった方を指す
「ホトケ」とは違い、法身大日如来のような宇宙・
自然を代表する尊格を言っている。この言葉は
仏教で言う「無我」ともあい通じるものがある
と思う。
さて、最近、ある人と会話していて感じたので
あるが、無我という言葉を誤解して、何をされ
ても、どんな状況にも耐え、それを受け入れて、
他人や環境から為すがままにされる、一種のバカ
になることが無我だと勘違いしている方が、
案外いらっしゃるかもしれない。
無我であっても自身の理想や信念を捨てる必要は
ない。また、何でも人の言うことを聞いて、それを
唯々諾々と受け入れるのでは、悪人にやすやすと
利用され、ひどい目にあうこともある。嫌なことは
嫌と言ってよい。そうでなければ、人や環境の奴隷
となろう。無我は人に独立不羈・自由闊達の境地を
与えるものであると私は信じる。
じゃあ、バカにならないで、一体どこが無我なの
か?というと、為すべきこと(為したいことでは
ない!)をしっかりと認識し、それを行いつつ、
目標に向かって努力する。が、その結果はどうで
あろうとも受け入れる、というより、結果に期待
しないというのが無我の正しい態度だと思うのだ。
これをカルマヨーガという。そしてこれが「神の
御心のままに」の正しい実践ではないかと愚考
する次第である。
インドの大聖ラーマクリシュナのお説教に以下
のような話がある。無我の独立不羈を示唆して
面白い。
…昔、ある草原に猛悪な毒蛇が住んでいた。その
毒蛇はその草原を通りかかる旅人や村人にしばし
ば害を与えていた。が、強力な毒蛇であるが故に、
誰にもどうすることもできなかったのである。
ある日、一人のみすぼらしい修行僧がその草原を
通り抜けようとしていたのを見て、村人たちが
「お坊さん、この草原には悪い毒蛇がいて、こ
こを通る人や動物に害を為すのです。どうか
この場所を迂回して行ってください。」と忠告
した。
ところが、この修行僧は「ははっ、心配ないよ。
私には毒蛇を避けるマントラがあるのだ。」と
言ってずんずん草むらに入って行った。すると、
案の定、毒蛇が出てきて修行僧を噛もうとして
襲い掛かってきた。
しかし、修行僧がマントラ(真言)を唱えると
毒蛇は呪縛され、あっという間に調伏されてし
まった。そして、修行僧は毒蛇に説教し、彼を
改心させ、なんと弟子にしてしまったのである。
「いいか、これからはもう誰も傷つけてはいけ
ないよ。非暴力の教えを守るのだぞ。」と言い
つけて、その地を後にしたのであった。
修行僧が去ったあと、毒蛇はすっかり心を入れ
替えておとなしくなり、師匠の教えを守り、
誰も傷つけることはなくなった。そして、慈悲
心が生じて、それまで食べていた小動物や虫な
どを食べることもやめ、草や木の実、朽ちた
木切れなどを食べて暮らしたので、痩せてヒョロ
ヒョロになってしまった。
そして、村人たちに何をされても、抵抗すらし
ようともしなかったので、村人たちは、これ幸
いと今までの恨みを晴らすべく、毒蛇を苛め抜
いたのであった。
ボロボロになりながらも、自らの悪行の報いで
あると思い、毒蛇は暴行を耐え忍び、息も絶え
絶えとなり、動けなくなった。そこで、村人達は
毒蛇がもう死んだものと思い、ようやく引きあ
げたのであった。
その後、命をとりとめた毒蛇は、驚くべき事に
修行僧の教えにより、すっかり善良な性質に変
わっていたので、村人達に暴行された事実も完
全に忘れてしまい、草原の片隅に隠れ、ほそぼ
そと暮らしていた。
何年か過ぎ、件の修行僧がまたこの草原を通り
かかった。修行僧が「毒蛇よ!いるか!」と
声をかけると、彼はすぐに現れて「お師匠様、
お久しぶりです。」と挨拶をした。
僧が「本当に久しぶりだね。元気でやっていた
かい?なんかずいぶん痩せてしまったようだが。」
というと、「お蔭様で、あれからずっとお師匠様
の教えを守り、暮らしております。心は非常に
平安になりました。ありがとうございます。」と
答えた。
すると、僧が「村人に聞いたら、お前はもう
死んだというから、心配したのだ。生きていて
良かった。」と言葉をかけたので、毒蛇は村人
達に瀕死のめに遭わされた事を想い出し、「あぁ、
そういえば、以前私が為した悪行のせいで、
村人から暴行を受けたのでした。でもまぁ、
自業自得ですから、しょうがないですよ。あの
人たちは私がすっかり心を入れ替えたと知ら
ないんですから。」と答えた。
それを聞いた修行僧は毒蛇を叱って言った。
「ちっ、バカだなぁお前は。私は誰も傷つけ
てはいかんと言ったが、身を守ってはいけ
ないとは一言も言ってないぞ!なんで、
シューとかヒューとかいって、村人を脅し
てやらなかったんだ!」

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2007/10/10
人間という生物は、日常生活において、自動的に
生きている場合が多いように思われる。ここでいう
【自動的】とは、意識的に物事を捉えて判断し、
意思決定し、行動するということの正反対を言っ
ている。それは過去の経験や習慣、それより得ら
れた認識に基づき、習慣化された行動様式を創り
だしたものであり、それを持続していると、多く
の場合無意識的に行われるようになっていく。
既にパターン化され、無意識的となった行動様式
や判断基準は、便利な機能を持つように見え、
習慣に従ってさえいれば、ある程度の状況を簡単
に処理できるので、有効なものではある。
だが、
このような無意識的に行われる、習慣的な判断
や行動様式は、ともすれば固定的になりがちで
あり、流転変化する無常なる森羅万象に対応し
なければならない我々にとって、ある時は有効
であっても、いつもいつもそうであるとは限ら
ないのである。それどころか、油断していると
次々に起こってくる事象に対して対応できず、
致命的な境遇に陥ってしまうこともあるだろう。
また、固定的となっているが故に、本来取れる
べき行動の自由が制限される。つまり、行動の
選択の余地が限られてくるのである。しきたり
や常識などといったものに縛られるのもそれに
類する。
このような状況は、コップに泥水を入れ、攪拌
したのち、しばらく放置すると、泥が沈殿し、
澄んだ水が出現するのと似ている。水が澄んで
いるので、汚れていることに気づかないので
ある。本当は、泥水を全部捨ててしまい、新
しい清浄な水を入れれば良いのだが、それは
まだまだ先の段階であり、まずはこの泥水が
汚れているということに気づかなければなら
ない。汚れていることに気づけば、泥水を捨て
なければならないとの自覚も出て来るはずである。
では、泥水に気づく為にはどうしたらよいか?
…そう、もう一度攪拌すれば良いのである。
観の瞑想によって、自らの心や環境を観察する
ことは、上記の比喩の泥水を攪拌するのと同じ
ことである。固定化された見方や行動パターン
に気づくことができる。気づけば状況を理解
することができるだろう。理解が進めば、知恵
と選択の自由が生じる。そうなれば、本来自身が
持っている知識や能力をさらに豊富に生かす道
が見つかるはずである。
観に作為はいらない。ただ観察するだけでよい。
何も変えようとする必要はない。常に沈殿して
固定化しようとする心を見つめているだけで
よいのである。観によって沈殿に気づけば、
その時点で既に攪拌されているのであるから。

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