今まで謎とされていた圓寂坊の
活動状況・思想・妄想・幻想…
そして告知事項などを書き綴るブログ
2007/10/3
洋の東西を問わず、各種の宗教や法術門には
護身法という儀式が存在する。これは恐らく
自身の守りを固めるという意味だけではなく、
霊的な世界へ踏み出す以前に行う、心身を
調えるための準備的行為ともなっているため、
その重要性は大変おおきいといえるだろう。
(そのうち、洋の東西の護身法のエッセンス
的なものの研究成果を「護身法集成」として
圓寂坊書籍部にて公開したいと思っている。)
だから、私が真言密教の世界に足を踏み入れて
最初に習った法もやはり護身法である。一般に、
密教徒の行う護身法は、浄三業・佛部三昧耶・
蓮華部三昧耶・金剛部三昧耶・被甲護身の5つ
の印と真言を用いるパートからなる法を用いる
のであるが、この他にも、わずか一印一明のみ
を用いるもの(求聞持法など)や、上記の護身
法とはまったく違う印や真言を用いるものも
ある。そう、密教の法門の中でも、護身法と
名づけることが出来る法は探せば各種発見でき
ることだろう。
ただ、わが国においては、密教・修験道などの
行者が修法の最初に行う護身法は、ほとんど先
の浄三業・佛部三昧耶・蓮華部三昧耶・金剛部
三昧耶・被甲護身という法を用いており、この
業界?では非常にポピュラーなものとなっている。
その為、「あぁ、護身法ね。知ってるよ。いつ
もやってるし、基本だよ。」などと思っている
行者さんなどはけっこうたくさんいると思われ
るし、最初に習う法であり、誰でも知っている
為、価値的にもそれほど重要視されていない
傾向があるように思われるのである。
だが、これは大きな大間違いである。この、
浄三業・佛部三昧耶・蓮華部三昧耶・金剛部
三昧耶・被甲護身の5つのパートからなる法
は、超ハイレベルである。「護身法は究極で
あり、この一法のみで悟りを開くことも可能
である」とおっしゃった先達も居られたと聞
く。私も同感であるし、往昔の先徳などは、
この一法に半日ぐらいの時間をかけて修され
たとも聞く。現在の我々はこの法に5分も
かけないで、軽く流してやっていることが多
いのではないだろうか。
単に、護身のための儀式として行うなら、
他にもっと簡単な護身法はたくさんある。
実は私は、上記の護身法があまりにもハイ
レベルなので、一日一回(早朝など)少々
時間をかけて修行し、その他の場合は別の
簡便な護身法を行っている。その理由として
は「日常茶飯の落ち着かない時空において
この法はあまりに難しいから…」と逃げて
おこう。
正純密教において、なぜこの浄三業・佛部
三昧耶・蓮華部三昧耶・金剛部三昧耶・被
甲護身による護身法が修法のはじめに用い
られなければならないかということに着目し、
その内容や意義を精察してみると、いろい
ろなことが見えて来る。
最初の浄三業だけでも一道清浄の悟りに至り、
法界を浄化することが出来る程の可能性を秘
めているし、次の佛部三昧耶・蓮華部三昧耶・
金剛部三昧耶に至っては、諸仏如来や観世音
菩薩を上首とする蓮華部の聖衆、金剛蔵菩薩
を上首とする金剛部の聖衆を虚空において出
生させて、この世を浄土に変える。(つまり、
印を結び、真言を唱えることによって佛国土
を発生させるだけの力量が必要となるわけだ。)
最後の被甲護身に至っては、自身が護身する
のみではなく、一切の衆生に慈悲心の甲冑を
着せ、自利利他を成就してしまう…というよう
な感じである。
と、今ここに書いたのはうわべを軽くひと撫で
したぐらいの理解であり、恐らくはさらに深い
意味が隠されている。これが真言密教で修法の
はじめに普通に行われている護身法なのである。
あまり軽々しく行わないでほしいものである。

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