人生にはさまざまなステージがある。
生きるということにおいては、やり方がまずかったとか、
運よくうまく行ったとかはあるが、成功とか失敗とかは
無い!と考える方が気楽だ。
あのお釈迦様でさえ、外道の人たちから誹謗中傷を受け
て耐え忍ばれたこともある。弟子たちから迫害や誹謗中傷に
ついて相談され、その時におっしゃった言葉が「人の噂も
七十五日」という成句として残っている。
成功や失敗は人がそれぞれの都合で勝手に決めたもので、
本来それに左右されて生きる必要は無い。とはいうものの、
有為の世界に生きている我々は、どうしてもそれにとらわ
れがちとなる。
実は、そういう考え方は物事を比較することを原因と
して起こり、人を縛る。だから、比較することをやめ
ることさえできれば、失敗や成功にまつわる悩みは無く
なるはずだ。他人は他人、自分は自分である。無為の
世界に生きたいものである。
さて、この記事の表題「発達之前、一定有刑」という句は
銭老師がよく言っていた言葉で、中国語である。「一定有」
というのは「必ず有る」という意味で、「刑」は刑罰など
ではなく、占い用語であり、簡単に言うと「いじめさいな
まれる」というほど意味である。
【占いを学習した人は十二支の刑を思い浮かべていただくと
よい。「恩なき刑」「無礼の刑」「勢をたのむ刑」などがあ
る。これらはどれも周囲からひどい目に合わされる状況をあ
らわす。あと「自刑」というのがあるが、これは自ら墓穴を
掘ったり、自分で自分を苛めるのであろうか。】
この句、全体の意味としては「《人は》その発達(成功した
人が享受する豊かな生活)の前に、必ず苦労したり、苛められ
たりして苦しむ期間がある。」というほどのものである。
これはまさに真理であり、世間一般に成功者ともくされ
ている人は、おそらくみなこれに当てはまる。嘘だと
思うなら、成功者と思われるその人々に聞いてみるとよい。
必ず「刑」を経験しているはずだ。それは、過酷ないじめ
であったり、経済的な孤立無援であったり、死ぬほどの大
病であったり、身体の一部を失うような事故であったり、
また文字通り刑務所暮らしであったり、さまざまな形で
あらわれる。銭老師に言わせると、このように「刑」の
期間を経験してこそ、次に甘美で豊かな生活を享受できる
というわけなのだ。
彼自身、徴兵された2年間の軍隊生活がまさに「刑」の
期間であったらしく、本当に酷い目にあったとこぼして
いた。が、そのあと、約20年ほどはとても楽に豊かに
暮らせたとも述懐していた。
(…その後、私が帰国後また「刑」の期間があったよう
であるが。(;^_^A 今はいい暮らしをしているだろう、
…たぶん。)
じゃあ、生まれながらに豊かな環境で生活できる人はどう
なんだという疑問がでてくるだろうが、それは前世で苦労
したのだろうと考えるしかないか…。(;^_^A
つまり、人は「刑」という過酷に錬磨される期間なくしては
発達できないということである。その期間が長ければ長いほど
その後にくる豊かな環境・生活は長く大きくなるし、逆に
短いと享受できる環境は短く小さくなるようである。
またこの「刑」の期間に、目的をあきらめず、なげださず、
努力を続けた人の方が、次の期間に享受できる物が大きい
だろう。
今現在苦境にあり、妙に他人から苛められるなぁと感じる
人は、「刑」の期間を過ごしていると認識するべきである。
その期間が長ければ長いほど、次のステージで享受できる
ものは素敵になるのだ。…耐え忍びましょう。甘美な未来は
きっときます。

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