自力本願、他力本願という概念がある。
ミゲルの「四つの約束」と「愛の選択」を読んだら、
今まで抱いていたこれらの概念の観方が大きく変わ
った。
ミゲルはミゲル自身も、他人も、そして自分自身でさえも
信じるなという。なぜならば、彼によると、知識のほとん
どは虚偽だからである。真実や真理は、たとえ信じていな
くても、ちゃんと明らかになり、現成し、残っていくと
いうのだ。
信じることにより、その概念や主義主張、あらゆる見識や
認識は心の中に入り込み、自我を形成する。そしてその
心に入り込んだ情報が虚偽であったならば、自己と自我を
同一視するため、現実とのギャップに苦しむことになり、
人を責め、自分を責めるようになる。本来、自らの心に
存在していなかった情報・考えを受け入れ、それを自己と
見誤った結果、多くの苦しみが生じるのだ。
猜疑心というのがあるが、これは虚偽の自我から発する
ものである。自分が信じている情報や概念・主義主張と
現実が異なるがゆえにいろいろな疑いを起し、心配し
悩み苦しみ、自らの心を痛めつける。
なにものも信じないというのは、心に受け入れないと
いうことである。ただ、受け入れなくても理解はできる。
人の考え・理屈・主義主張・各種の情報は傾聴するのが
よい。だが、受け入れてはならないのである。観察して
確かめ、理解するだけでよい。
理解すれば、自らの次の行動を選択できる。もちろん
その選択を元にしての行動は自己責任を伴う。そう、
誰のせいでもない自分で選択したのである。現実の
結果は受容しなければならないのは当然だろう。
よく言われる、成功や失敗という概念は、虚偽である。
それはそういうものを認める人にだけある。もちろん、
やり方がまずかったとか、運よくうまくいったという
ことはある。でも、それは大したことではない。今回
やり方がまずかったならば、次回は改めればよいのだ。
障害なく事が進み、何も学べないよりはかえってよい
かもしれない。
人や状況は時と場合によって変わる。たとえ全幅の信
頼を置いている人や物でも、無常の世においては
常に変化する。
何も信じない…。これは究極の自力本願であろう。
では、他力本願はだめなのか。う〜ん、一般に認識
されるような他力依存や他力本願では虚偽にだまされ
やすいことは確かだろう。無条件で〜を信じよという
宗教や人には注意が必要だ。よく情報を確かめ、
理解してから選択するのがよい。もちろんその選択
には責任が伴うが。
さて、神の愛を信じること(バクティ)や阿弥陀仏を
信じることは、他力本願であるといわれる。しかし
もし、自己責任においてそれをただ一つの真理として
受け入れ、他のもの(つまり虚偽の情報)を信じず、
受け入れなければ、この道も安楽の道となろう。
自らの内にある自己と、神の愛や阿弥陀仏を同一視して
それ以外を受け入れなければ
…究極の自力本願と同じことである。

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