―先日、ある法事でのこと―
読経が終わり、いつものように、仏教にからめた
法話をした。
その時の話の主題は、先日このブログの記事でも
書いた、仏教の経典でさえ情報伝達においては
削除や一般化、歪曲の禍害を免れてないから、真言
宗徒の我々は梵語から翻訳されていない、仏の
真実語である真言を重点的に受持・読誦するのが
よろしかろうという私の愚説を紹介した。
で、その導入として、「捏造された聖書」という
本があり、その中で、キリスト教の聖書が、その
成立から翻訳、書写においてかなりの改ざんを
経てきているという話をたたき台にしたのである。
ところがなんと、その法事の親戚の中に牧師さんが
おられたのである。(しかも、ヘブライ語など聖書
の原典研究などがその専門らしい…法事家当主の談。)
法話が終わった時、門外漢である私の話に、彼も
けっこうむっとしていたようであったが、冷静に
私はキリスト教徒であるが、あなたのおっしゃる
この点とこの点は訂正させていただきたいと言われ
て、少々解説をされた。
時間もなかったことであり、(法事が終わった後、
法事の当家は段取りがあり忙しい。^_^;)立ち入った
議論はしなかったが、その時、指摘されたのは、共観
福音書はマタイ・マルコ・ルカの3つであり、ヨハネは
含まれないということ(私はその4つすべてが共観福音
書であると誤解していた。)と、一部の学者が読者の
興味を引くためにそのような書物を書いているが、それは
真実ではなく、書写・翻訳の段階でもとても厳密にされ
ていたはずなので、間違いや改ざんはほとんどないという
ふうにおっしゃった。
時間が無かったこともあるし、共観福音書については、
私が誤解していたと了解したのですぐに謝った。そして、
聖書の話はあくまでたたき台として話しただけであり、
キリスト教徒である彼の立場もかんがえて、それ以上
突っ込んだ話はしなかった。
(ただ、私が彼に「で、あなたはその【捏造された聖書】
という本を読みましたか?」と聞いたら、彼は読んで
いないが、それは一部の好事家の学者の説であるから
と、一笑に付す感じであった。そして、彼が調べたり
研究した限り、聖書の記述は厳密に翻訳・伝承され、
絶対間違いはないとの立場を崩されなかった。まぁキリ
スト教の牧師さんなのだから当然といえば当然か。(^^ゞ)
で、帰り際、車に乗った私に「1時間や2時間ならいつでも
議論に応じますよ。」とおっしゃっておられましたな…。
もちろん、めんどくさいし、彼の信仰や信念を私が変える
こともできないし、またその必要も認めないので、そう
いう機会は訪れないとは思うが…。
…っていうか、私の聖書に対する認識は微動だにしていない。
なぜならば、こんな例はいかが?
何か電化製品を買うとしよう。
A社の社員が説明して
「この製品は万全の管理体制のもと、組み立てられ、厳密な
検査を経て出荷されております。保証期間などは設定して
ございませんが、今までに故障や不具合などのクレームは
全くございませんので、ご安心してお買い求めくださいませ。」
B社の社員が説明して
「この製品は万全の管理体制のもと、組み立てられ、厳密な
検査を経て出荷されておりますが、もし万が一、保証期間中に
故障や不具合がございましたら、無償で修理・交換させて
いただきます。」
どちらの製品を買うか? …私ならB社の製品を買う。
「絶対間違わない」という信仰はどこから生まれるのだろう?

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