以前「捏造された聖書」という本を読んで、他宗教の
ことなので「なんだ、こりゃひどい!じゃあキリスト
教の聖書って、翻訳者や書記の考えや思想でかなり
原点とは相当かけ離れたものになってるんだなぁ。」
と、不謹慎ながら多少は面白がっていた。
ところが最近「いや、まてよ。これは仏教においても
同様であって、笑いごとではないぞ。」と、考える
ようになった。
だいたい、紀元前5世紀ごろ一生をおくられた釈尊は、
キリスト同様、書物を残すということはなかったし、
その教説は、釈尊ご涅槃後に、数度の弟子の結集に
より、記憶力抜群で、生前の釈尊の従者をよく務めた
阿難尊者が誦出し、それを諸弟子たちが承認すると
いう合議制の形で決定され、経典として残されたと
聞く。
その時点で、釈尊の教説は、当然ご本人の承諾を得て
残されたわけでもないし、釈尊がそれを是とされたか
どうかも分らない。
だがまぁ、ここまでは、直弟子であり阿羅漢の聖者たち
であるので、OKということにしよう。
問題はこの後である。釈尊の教説は、だいたい対機説法で
あったと言われる。つまり各人各様に、その人に合った
比喩や因縁を用いて自由に説法しておられたわけである。
ならば、人によっては180度違う言い方や解釈を性格や
傾向に応じて解かれた場合もあったろう。
というわけで、仏教という大きな流れの範疇を出ないとは
いえ、その中でいろいろと百家争鳴、自分の説こそ釈尊
直伝であるとし、正統派を自認する者たちが出てくることに
なる。部派仏教の登場である。
彼らはみな、経・律・論の三蔵を有し、仏教であるから、
ある程度大まかな点では一致するが、細かい点では他派を
批評し、自派を讃嘆するというようになる。ここから、
情報の削除・一般化・歪曲が始まる。
続いて、部派仏教から大乗仏教が登場し、さらに釈尊が
実際にはお説きにならなかった経典や論説などが登場
してくるのである。また、そこにも、情報の削除・一般化・
歪曲が当然つきまとうことになる。
時間的な流れだけではなく、空間的には、仏教はインドから
周辺諸国へと伝わり、日本へは中国や朝鮮を経由して入って
くることになる。その翻訳時には、聖書の翻訳者・書記者
などが犯したような間違いや改ざんが、たくさん出現した
はずである。皆が皆、鳩摩羅什師のような天才ではなかっ
たろうし…。「まさか、仏教は大丈夫だろう」などと、脳
天気なことを言ってはいられない。翻訳者が皆、悟りを
開いているとはかぎらないのだ。
中国などは、翻訳し終わった梵語のお経は、用済みとして
すべて焼却したそうである。だから、原点との照らし合わ
せを、後世の人が行おうとしても無理であり、その翻訳が
間違っていたとしても、誰も指摘できないのである。
そういう経典が、日本に伝わってきたわけである…。
まぁ、日本の仏教は大乗仏教であるから、釈尊の直伝の教説
とは、かなり形を変えているのであるが、その時その時の、
悟りを開いた?インドの聖者がお造りになったものであろう
から、それはそれなりに、サンスクリット原典が存在する
ものは、正式な経典として認める。だが、原典の見つから
ないものは中国成立の偽経であるとするのが、日本の仏教学
会の立場である。
真言密教などは、大乗仏教が成立し、発展した最後期に登場
したものであるから、釈尊の仏教とはかなり違ったものに
なっているというのが、一般的な見方であろう。
(真言密教の修行法や瞑想法は、釈尊直伝、もしくは
さらに古伝の仏教を受け継いでいる可能性がある。それは
宮坂先生の一連の著作群を読んでいただければある程度
想像されるのであるが、ここでは示唆するにとどめる。)
時間的・空間的な教義の変遷は、人手を経て行われる。
仏教とて論外ではない。特に翻訳時、これが起こる。
私はいつしか、漢文の経典よりも、真言を用いて諸仏を
供養する方が優れている、という想いに支配されてきて
いる。まぁ、漢文の経典による勤行の習慣は続けてはいる。
ただ、あまり重要視しなくなった。
真言は、翻訳されない古代インドの言葉であり、諸仏の
真実の語らいの言葉とされる。(ここに改ざんはない。)
また、その音韻は神秘的な呪力の源泉である。
私はこれ(真言・陀羅尼)を信じ、これを誦す。
真言宗は真言を唱える宗旨なのだ。

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