お次は、熊野三山編。熊野三山とは、熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の3つの神社を指すが、三山という名前からも分かるとおり、仏教的要素が濃い。というより、神と仏の入り交じった熊野独特の宗教(熊野修験道)の中心地となっている。
最初に行ったのは、熊野速玉大社。明治16年(1883)に打ち上げ花火が原因で社殿が全焼し、昭和42年(1967)に社殿を再建したので、現在は鉄筋コンクリート製である。
境内には、平重盛が手植えしたとされる梛(なぎ)の大木があるが、日本最大だとか。
熊野詣をした時には、熊野牛王符(くまのごおうふ)という特殊な神札を頂く。デザインには多くの烏が用いられる。熊野三山の各大社ごとにデザインは異なる。烏文字は烏の配列で文字を表すもので、本宮大社と速玉大社では「熊野山宝印」、那智大社では「那智瀧宝印」と記される。これは速玉大社の牛王符。
こちらは朝焼けの那智大社。朝6時だが、参詣者は思ったより来ている。
速玉大社と那智大社の印象は、朱塗りの普通の神社(失礼)。しかし、本宮はさすがに雰囲気が全く違った。美しい熊野造の社殿と、烏の色から取ったのか、普通は余り使われないだろう黒色を境内のそこかしこで見かける。一般的な神社とは雰囲気は違い、熊野修験道を今に伝える場所だという印象を受けた。
現在の社地は山の上にあるが、明治22年(1889)の大洪水で流されるまで、社地は熊野川の中州にあった。社地は創建以来その中州にあったと思われ、明治の洪水までは社殿が流されることはなかったが、明治以後、山林の伐採が急激に行われたため、山林の保水力が失われ、大規模な洪水を引き起こしたと考えられている。日本の急速な近代化が引き起こした人災であり、熊野の衰退を象徴する非常に象徴的な事件だと思えた。
現在、旧社地の中州は「大斎原」(おおゆのはら)と呼ばれ、日本一大きな鳥居が立っている。さらに奥へ行くと、杉並木の奥に草原が広がっているのだが、その一角にはなんと一遍上人真筆の「南無阿弥陀仏」の碑が。その1でも書いたように一遍上人は熊野本宮大社で神託を受けて各地遊行を始めたとされている。こんな碑がさらりとあるところが熊野の懐の深さを示している。
ちなみに、これを見た連れ合いは「こんな自由奔放な字、見たことない!」と。旅をして、踊り念仏によって民衆を浄土の高みに導いた一遍上人らしい、ユーモアにあふれた、それでいて筋がはっきり通った、誰にも真似できない字であると思う。


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