石老山に登った2月13日は旧暦の大晦日。ということは翌日の2月14日は旧暦の正月である。正月と言えば初詣だが、思うところがあって、秩父34ヵ所観音霊場に初詣に出かけた。
霊場巡りについては、おいおい書いていきたいが、昨年少しだけ回った四国88ヵ所の他にも日本全国に沢山のコースがある。秩父33ヵ所は、西国33ヵ所・坂東33ヵ所にならって室町時代に成立した。13番慈眼寺には、この霊場を定めたとされる13人の権者(閻魔大王、善光寺如来、霊場巡りを始めた奈良時代の徳道上人、これを再興した平安時代の花山法皇、円教寺性空上人等)の像が安置されている。秩父33ヵ所霊場は、江戸近郊から秩父に至る道中には関所がなく、また総延長90キロ、大体4泊5日の行程で比較的容易に廻ることが出来たので、大いに賑わった。
観音霊場巡りは16世紀後半には全国的となり、西国・坂東・秩父観音霊場を併せて巡礼するようになった。観音霊場の合計を100ヵ所とするため、現在の2番札所真福寺を加え、秩父観音霊場は34ヶ所と改められた。その殆どは禅宗系の寺である。
石老山から引き続いて参加の3人と共に、車で1番札所、誦経山四萬部寺へ。朱塗りの美しい寺である。
御朱印帳を購入して、2番札所大棚山真福寺へ。この寺は山の中にあり、小さいながら独特の風格を備えている。本堂の中を覗いて見ると、普通の寺とは違った光景が。詳しくは書かない方がよいと思うので、興味を持たれた方は実際にお詣りすることをお薦めするが、私には、秩父地方独特の文化と観音信仰の入り交じった子供の遊び場の様に思えた。
3番札所岩本山常泉寺の薬師堂。正面の龍の彫り物がとても見事である。
昼食を食べて、4番札所高谷山金昌寺へ。どのお寺もそれぞれに特徴を備えているのだが、今回回った中で一番圧倒されたのがこのお寺。ここには1319体の石仏群がある。
金昌寺の石仏群の由来は1789(寛政元)年、時の住職が寺門の興隆と天災、大火、飢饉等による犠牲者を供養するため、「石造千躰地蔵尊建立」を発願したのが始まりと言われる。1000体の目標は、それから7年後に達せられ、「金昌寺千躰仏開眼供養会」が行われた。その後も奉納が続き、寄進された石仏は3800体に上ったとも伝えられている。境内の至る所に石仏が立ち並ぶ姿は、まさに曼荼羅か。この寺にはどこか修験道を感じさせる奥の院がある。この奥の院も素晴らしい場所なので、実際にお詣りされることをお薦めする。
この日の最後は5番札所小川山語歌堂。一風変わった名前の由来は次のようなもの。
この堂を建てたのは本間孫八という和歌の道に親しむ風流人だった。ある日、堂に籠もって歌想を練っていると1人の僧が訪ねて来て、話が大いにはずみ、2人は夜を徹して和歌の奥義について論じ合った。翌朝孫八が目を覚ました時、旅の僧の姿は既に無く、のちにこの僧こそ聖徳太子の化身であったことが分かり、この堂の名を語歌堂としたという。
ここの本尊は秩父34ヵ所では唯一の准胝観音(じゅんていかんのん)。元はヒンドゥー教の女神であるドゥルガーが仏教に観音として取り入れられた姿である。准胝観音は密教で特に重視され、単独での仏像作例は極めて少ないらしい。語歌堂は臨済宗南禅寺派で、どういう経緯で本尊とされたのかはよく分からないが、色々な意味で珍しいようである。
人が訪れるお寺は活気を帯びてきて、訪れる人の思いを受けて成長していくのではないだろうかと思った。霊場巡りが形骸化しているかどうか、また霊場に指定されているお寺と僧でないお寺との格差など、突っ込んでいくと色々な問題も露呈してきそうだが、まずはお寺というのは、人の脳裏に浮かぶ様々なもやもやを時を越えて引き受けてきた場所だというのを実感した。今回一緒に回った友人達も、お寺を回っている間は互いに無口で、終わってから堰を切ったように喋り合った。それぞれ思うところがあったのだろう。

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