この週末は、連れ合いと長野県は善光寺と戸隠神社参詣に出掛けた。善光寺は一昨年夏に一度詣で、戸隠には2001年に行われた野外音楽イベントで訪れたことがある。連れ合いは両方とも訪れたことがないという。
朝、藤野を出発し、丁度お昼頃には善光寺に到着。相変わらず物凄い人出で、東日本最大の木造建築という本堂は、いつ見ても立派である。
きんさんぎんさんも訪れたという門前の蕎麦屋、尾張屋でお昼を頂き、一路戸隠へ。善光寺からは戸隠バードライン経由で30分位か。本日の宿は宝光社すぐ傍の越志(おし)旅館。神仏習合時代の旧坊名は円光坊、旧院名は広善院。築250年の見事な茅葺の宿である。
戸隠神社は戸隠山麓にある奥社・中社・宝光社・九頭龍社・火之御子社の五社からなる神社である。日本神話でも知られる「天の岩戸」がこの地に飛来し、山になったと言われる戸隠山を中心に発達したので、祭神は「天の岩戸開きの神事」に功績のあった神々を祀っている。
縁起によれば、学問行者が発見した奥社の地で最初に修験を始めたのが849(嘉祥2)年とされている。平安時代末は修験道の道場として都にまで知られた霊場となり、神仏混淆の頃は戸隠山顕光寺と称して、比叡山、高野山と共に「三千坊三山」と言われるほどに栄える。
戸隠山に向かって奥社参道左手が真言宗の、右手が天台宗の領域であったとされている。両宗派間にはいさかいが絶えなかったが、結果としては真言宗が戸隠の地を追われ、以降、天台宗の寺院としての性格を強める。江戸時代には徳川家康の手厚い保護を受け、一千石の朱印状を賜り、上野の東叡山寛永寺の末寺となり、農業、水の神としての性格も強まり、山中は門前町として整備され、奥社参道に現在もその威厳を伝える杉並木も植えられ、広く信仰を集めた。
明治になって戸隠は神仏分離の対象になり、寺は切り離され、宗僧は還俗して神官となり、戸隠神社と名前を変えて現在に至っている。
まず最初に宝光社にお参り。現在残る戸隠神社社殿の中では最も古く、1861(文久元)年に建てられた。神仏習合時代の面影を伝える権現造りで、拝殿周りの彫り物も見事である。


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