富士山にまつわる話題である。
私の両親は山梨県富士吉田市にルーツがあり、富士山北麓には馴染みを覚えるのだが、南麓の方はとんと未知の世界だった。ふとしたことから、静岡県富士宮市に村山浅間神社という、かつて村山修験の中心地とされた場所があることを知り、訪れてみようと思い立った。
富士登山は、かつては信仰登山であった。富士山信仰の歴史を紐解いてみると、古来からの山岳信仰に平安時代に日本に伝えられた密教が融合して山岳修験としての形が出来てくる。平安時代末期に末代という修験僧が数百回も富士登山を繰り返し、山頂に大日寺を作った後、即身仏となり、村山にあった浅間社に大棟梁権現として祀られる。こうして、大棟梁権現、大日如来を祀る大日堂、浅間神社を併せた富士山興法寺が富士山の修験道の拠点となり、多くの修行者が村山口登山道を通って富士山で修行をした。
しかし、江戸時代に入り、富士講が広まると、富士登山は修行から参詣という形に変わっていき、その中で村山修験は徐々に活動の範囲を狭めていく。
追い討ちをかけるように、明治政府の神仏分離政策で、富士山からも仏教色は完全に取り除かれていく。興法寺が管理してきた山頂の大日堂は浅間大社に移って、現在の浅間大社奥宮となり、山頂に奉納されていた仏像は里に降ろされたり首をそがれたり、火口に投げ込まれたものもあったという。1906(明治39)年には、村山を通らない新しい登山道が作られ、村山口登山道も失われた。
これが村山浅間神社の正面。現在は神主は存在せず、地元の氏子衆で管理しているという。
拝殿。比較的新しく作られた物のようであり、アルミサッシになっているのが村の社っぽい。
「富士山興法寺」と新しい額の掲げられた大日堂。これも周りがトタンで囲まれている。
簡素な大日堂内部。大日如来(金剛界、胎臓界)、役行者、不動明王が祀られている。
護摩壇。興法寺は京都・聖護院の直系寺とされ、今でも、山開きの7月1日には聖護院から山伏が来て問答を行ない、護摩を焚き登山の安全を祈願するという。
水垢離場。かつて村山から登る富士行者は、7日間水垢離を行なって身を清めてから登山することとされた。しかし、時代が下ると、水垢離を行なっただけで富士登山をしたのと同じことになるとされたため、遠方の行者は村山浅間神社ではなく在地で水垢離をするようになってしまい、それも村山修験衰退の一因とされている。
末代を祀る氏神社。高嶺総鎮守と称される。これも、10年位前に建てられたもののようである。
村山浅間神社の脇から登る村山口登山道の一部。近年になって整備されたもの。
村山口登山道復活の動きは何度かあり、2000年代に入ってからは有志が道標など整備しているようだが、実際には、それが本来の登山道であったかどうか確証が掴めない部分も多いという。富士山を世界文化遺産に登録しようと言う動きが活発化しているので、村山口登山道の復活も、その一環と言える部分もあるだろう。
御師を中心としていた富士講の流れについてはある程度知識もあったが、村山修験のような全く別の流れが存在していたことは初めて知った。私も3度富士山頂を踏んでいるが、道も整備されて装備も良くなった現在でも、なかなか大変であった。ご来光や山頂からの景色はとても素晴らしく、宗教的体験というのは現状では大げさかもしれないが、非日常的な体験であることは間違いない。多くの登山者が富士山頂を目指すのも、信仰の登山という意識はないが、大きく見ればそのようなカテゴリーに入る行為なのかもしれない。まさに、「日本的な宗教のあり方」と言ったら拡大解釈であろうか。
ともあれ、富士山をより深く知るためには是非とも訪れておきたい場所である。

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