「言葉にできない」は、オフコース〜ソロという小田さんのキャリアを通じて、もっとも広く長く歌われている曲と言っていいだろう。その分、この曲を聴いて思い浮かべる光景は、人によってずいぶん異なるだろうと思うのである。
オフコース時代からのファンは、1982年の武道館公演を思い浮かべるだろう。ひまわりの映像をバックに涙を流しながら歌う小田さんの姿は、あまりに絵になる光景だった。
後日、テレビ番組のインタビュー(97年「トップランナー」)で、小田さんはこの時の事を話している。「このライブを最後にヤス(鈴木康博)が抜ける事が決まっていて、俺はヤス抜きで音楽を続けていくイメージは無かったから、俺にとってこれが最後のライブになるんだなと思っていた。それまで、他の曲でぐっと「きそう」になるのをこらえていたんだけど、まさかこの曲で「くる」なんて思わなかったから、どうしていいか分からなくなっちゃった。客席から「がんばれー」なんて声も飛んで来るんだけど、がんばれったって、止めようと思って止められるもんじゃないし、ねぇ…」
ソロになってから、「言葉にできない」はなかなか演奏されずにいた。初めてこの曲を聴いたのは、97年のツアーだったと記憶する。「小田さんも、いろいろ吹っ切れたのかな、と思った。
それから「言葉にできない」は、CMやドラマに多用されて、より多くの人に知られるようになった。新たにこの曲を知った人達にとって、この曲のイメージは、そういったCMやドラマに規定されているのかな、とも思う。そういったCMやドラマは一切見ていないので、どんなものなのかは知らないけど。
しかし、私にとって、特に最近のイメージは、03年のイベントでの出来事によって決まっている。特に「Voice of Heart」では、スタレビの根本要さんが「言葉にできない」の曲紹介をしたのだけど、その途中でギャグをかましたものだから、小田さんが爆笑して歌えなくなってしまった。ピアノに突っ伏したまま肩を震わせること数分、何度か気を取り直して弾き直そうとするのだけど、その度吹き出して笑い出してしまう。もちろん、客席はずっと爆笑しっぱなしである。
つまり、ライブでみんながシーンと聴き入っている間、私はあの爆笑シーンを思い出して、心の中でニヤリと笑っていたのであった。
なんで今頃こんな話をしたかというと、先週のドラマで「言葉にできない」が主題歌として使われたから、であった。
もっとも、ドラマは結局観なかった。観る勇気が無かった。毎朝、福知山線の快速で通勤している父親に、なかなか電話が繋がらなくて焦った記憶が甦ってくる。以前、実家にいた頃、バスで阪急の駅まで出ていた。人波の半分は阪急へ、もう半分はJRの駅へ流れていた。バスで乗り合わせていた人の中にも、あの朝の快速に乗った人もいるのかなぁ、と思う事がある。
あの事故の被害者やその家族の方々にとって、「言葉にできない」はどんな位置づけになるんだろうか。


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