夏になってあんだけ警戒していた草が、また畑一面を覆ってしまった。
手立てとして行っている刈り草を畝上や畝間に敷くという行為も、
たどたどしく抗う私の動きと、
心の籠った気遣いで手を貸していただく方々の思いにも、
それを覆い尽くしてしまう草の勢いが厳然としてここにある。
また私は茫然と立ち尽くしてしまう。
やっぱり自然の力は凄い。
パワーもスピードも、
私一人の力なんて本当にちっぽけなものでしかない。
また今年も、ひとつその確認をしてしまった。
でも悲嘆に暮れているかと言えばそうではない。
目の前の現実は、自分がこうしようと考えたことに対しての自然からの回答だ。
私の行いが足らない分、土は必死に草を生やそうとしているのだ。
「草からは何も生まれない。」
信じてもらえないかもしれないが、
この言葉は、農業をされている方からいただいた言葉だ。
刈っては伏せて、刈っては伏せてする私のやり方で、手に追われて、先を見失うぐらいなら、草を生やさないようにさせればいいじゃないか。お前のやっていることはただの自己満足だと。
「私の畑は草一本も生えてない。ご近所さんもあんたとこは綺麗にしとってやと言うてもらえるんや。それにしてもあんたとこは・・・」
これは散歩する御婆さんの言葉。
「いやあすんません。私のだらしなさがでてしもうて・・」
これには、私は返す言葉が無い。
ちょっと思い出したので書いてしまったが。
でも私の心の中はいつも、静かに熱いマグマが泡を浮かべて動いている。
この動きがなくなって、
心が冷えてカタマルマデ、
私はいつまでも向かうべき先に歩み続けるのだ。
さて、取り留めもなく書いてしまったが、
最近なんか安心したものを心に得たのです。
野菜作りをしていて、
普段はできた野菜が少なすぎてお客様に今は少ないのでご迷惑をおかけしますなんて言っているのに、
たくさん採れ出したら採れ出したで、その日に野菜を送る量を超える作物を収穫しなければならない時も出てきてしまう。野菜ボックスにその日たくさん採れたものはたくさん入れてしまって、消費にご協力くださいみたいなことになっています。ご迷惑でない限りはこれは続けていきたいと思っています。
でも売れ残ったり、野菜ボックスに入りそこなった作物は、もちろん家で食べます。できそこないの作物も家で食べます。なんといっても自分で作ったものだしまだ美味しいからです。
それでもそれでも野菜が余ると畑にあるコンポストに入れたり、畝の上に放置したりしています。
これを、以前からなにかそこに、罪悪感ややるせない気持ちがあったんだけれども、
いずれは土に還るわけだから問題ないのだけども、そこに虚しさがあったのです。
しかし作物から種を採ろうとするようになってから、
その虚しさはす〜っと消えてしまった様な気がするのです。
なんだ早い話、作物が不作だったり、余過剰分が出たときに種代が無駄になっていた分を私は苦しんでいたのか、、、。という事に気が付いたのです。
換金出来るものを下手をこいてみすみす土に還すことは、一般的に農家さんからも笑われてしまうことなのでしょうけれど、
種を自分で採っていれば、この自然の中でちっぽけな存在の私が、過剰分の作物を土に還す、というより私の経済活動に必要な分だけ収穫させてもらえば、後はまた土に還すということができていれば、誰も何も損をしているわけではない。そして作付けすればするほど土が肥えていくという私の理想に近づいているのかもしれない。
ひとつの苦しみからの解放がここにあったわけです。
人間の苦しみは、己の考え方、観念ひとつから始まっているのだなあと実感したお話でした。
さて、雷雨が厳しいですが、今日の収獲に行ってきましょうかね。