ようこそ、お入りを・・・。

2019/12/24

「陰翳礼讃」  座右の書

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「陰翳礼讃」
文:谷崎潤一郎
写真:大川裕弘


表紙の写真に目を惹かれて
思わず手に取りました


明治から昭和を生きた文豪・谷崎潤一郎と
現代の写真家・大川氏との
いわば時代を超えたコラボレーション作品です


写真の美しさは言わずもがなですが
何といっても
谷崎潤一郎の一言一句に
心底共感して
思わず笑みがこぼれるほどでした

例をあげればキリが無いですが
例えば・・

「諸君はそう云う座敷へ這入った時に、
その部屋にただようている光線が
普通の光線とは違うような、
それが特に有難味のある
重々しいもののような
気持がしたことはないだろうか。」


もしそこに「谷崎先生」が立っていたら
「先生!私わかりますっ!」と
駆け寄りたいような気分になりました


そして子供の頃夜中に
お便所に行きたくなって起きたとき
暗いお座敷を通るのがこわくて
走り抜けたことなど
思い出しました


「闇」「暗がり」に対する
一種独特の怖さ。。。



そうか・・・
とあらためて気づきました



実は
小間のお茶室ができたら
ご近所の方などにも
見学していただこうと思っていたのに

いざ玄庵が完成したら
お茶事の時以外には
なぜか他の誰にも
見られたくなくなってしまったのです


先日のお茶事でも
水屋をお手伝いいただいた
社中の方々の誰一人
一畳台目の中までは
入っていただいてないのです


なぜだろう。。。と思いました


ある社中の方が
「それは先生の『聖域』だからじゃ
ないですか?」と
言って下さいました


そうかもしれないと思いました


それは今あらためて思うと
「玄庵」の持つ「暗がり」と「翳り」に対する
畏怖の念かもしれません


そしてそこは確かに
私にとって
とても大切で清らかであるだけでなく

何となく畏れ多くて
たとえ他に誰もいなくても
一礼せずには通ることのできない
聖なる場所なのです


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玄庵 水屋  photo by Kaoru Kuwajima




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「『玄庵』へのキセキ 」

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2019/12/7

「心理学者の茶道発見」  座右の書
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「心理学者の茶道発見」岡本浩一 淡交社

第一線の心理学者であり
茶人でもある著者が
茶の湯を「癒し」「情動」「自他」「普遍」
「練達」「成熟」の6つの視点から解析
(本の帯より)



読み終えて表紙を閉じた瞬間
思わず
「あ〜面白かった!」という言葉が
口をついて出てきました

茶道にどっぷりとつかりながら
心理学の専門家の目で
茶道を見つめる視点に
素直に共感できる点や
あらためて気づかされる点が多々ありました


特に個人的に印象に残った箇所を
抜粋しまとめておこうと思います


ご興味を持たれた方は
是非本を買って読んでみてください


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p13点前と癒し

点前は他の右脳の活動と競合する。
つまり、点前によって右脳を使い出すと
右脳は対人関係の不快感などの処理を打ち切って、
その処理容量を
点前の活動に明け渡さなければならなくなる。
これが、点前によって清涼的な心理効果が得られる
ひとつの理由だと考えられる。




p33侘びと主観的自由度

「花をのみ待つらむ人に山里の雪間の草の春を見せばや」
という利休の愛誦が
さりげない言葉でドキリとするほどの主体性を
謳っているのに気づきたい。
現代心理学者が発見した「主観的自由度」を
名付けることなく体現している。




p33癒しを生む佗び茶の概念性

侘びという思想は、
現実に囚われすぎる心を一度概念の世界に遊ばせ、
現実と概念の差異を
むしろ知的に楽しもうとする姿勢であったように思われる。




p59キーワードは「88センチ」

小間の茶は、
膝と膝が50センチほども離れていない近さのために
主客とも緊張の極みで行われる茶なのである。




p59不完全の受容

不首尾があったときに、それを正視し、自己受容をするのも
茶の湯が与えてくれる貴重な訓練ではないだろうか。




p112惜別のさまざま

茶事の最後のこの黙礼は、ささやかな追礼でありながら、
意味の重い出来事に思われてならない。
茶事だけでなく、
人生全般の出会いと別離というものを知り尽くした知恵だと
深く感じるのである。




p121日本文化と型

型があるからこそ、演出の工夫が活き、
参会者の印象にも長く残る。
型が個性の発揮を促進している。




p146茶道と権威主義

権威の受容と権威主義の克服の両立した人格が
茶道の目指す人間像である。





p165茶道具と自己概念

たとえば、まだ茶室のない人が銅鑼を求めたとする。・・・(中略)
その銅鑼は
この購買者の茶の湯への意気込みを蔭で支え続けることだろう。

(実は私も広間をつくる前に炉縁を買い、
小間を建てる前に銅鑼を買いました!)



p201兄事の陰徳

兄事の間柄こそ、真の淡交、君子の交わりの典型である。
兄事の間柄には独特の快適さがある。
それは、陰徳の間柄ゆえの純粋さと気楽さである。



13

2019/7/16

堀内宗心『私の茶の湯考』よりD  座右の書
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堀内宗心『私の茶の湯考』世界文化社
          
「第6章 私と茶ごころ」より抜粋

わび茶の原点に帰れ

(p225)
21世紀の茶の湯ということを考えるうえに
茶の湯、道具、稽古の一体化への努力ということが
必要であります。


(p226)
わび茶の本義は道具一種に徹することであると
私は申しておりますが
他の道具は多少軽いものであっても
寄せて茶事をするということは
その人の見識と力量によることであります。...

そのような道具では満足できないという人があれば
そういう人は客に呼ばなければよいだけのことであります。



懐石は一汁二菜が原則

(p227)
茶事の食事というのは、濃茶をいただくための
必要十分な食事を用意することで
いくらもてなしといっても
過剰の食事と不必要な時間の浪費は
慎むべきことであります。



真のわび茶

(p236)

わび茶といえば
今日ではどちらかと言えば草葺きの屋根の下で
さびかけた茶碗でもひねくっているような
いわゆるわびたる風態であることをわび茶と考え
考えさせる傾向がありますが
むしろこれは形の上のわびと考えるべきことで
私がかねてわび茶の原点として強調してまいりましたように
村田珠光の原点にかえって
精神的な意味において
わび茶のあり方を考えねばならないということであります

わび茶には
大いなる勇気が必要であるのであります。
利休が草庵の茶室を推進し
楽茶碗を登用したということにも
非常な勇気が必要であったはずであります。

この点が
わび茶といわれる点なのであります。

後生の茶人が
その形だけをまねてわび茶と称するのは
死んだわび茶というべきであると
私は考えます。



※この最後の一文は
とても厳しい一言に感じます。

肝に銘じて・・・と言いたいところですが
わび茶の幼稚園児としましては

まずは
先人を真似ることから
始めるしか進路は見つかりません。

エセ侘び茶人の非を認めつつ
いつか真の侘びに近づけることを願い
令和元年の秋
橋を渡り
小さな船を漕ぎ出して参りたいと思います。


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2019/7/15

堀内宗心『私の茶の湯考』よりC  座右の書
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堀内宗心『私の茶の湯考』世界文化社
          

「第4章 茶の湯と禅」より抜粋

(p166)
私は若い頃、自然科学の学徒でありましたので、
自分なりに真理の本質、物質の極限を見極めようと
四苦八苦しているあいだに、いつのまにか
「空」に近いもの、「無」に近いものを意識していました。

素粒子というのは...この未解明の実体にはタッチしないという
前提で出発するのが、波動力学であり、量子力学でもあります。...

私はこの得体の知れないものを胸に抱えたまま、
禅学を学ぶことになりました。...

「空」とか「無」というのは何か、という問題に戻ります。...

絶対に動かないものは何か、と考えてみるとき
これが「空」であり「無」であるのであります。
この絶対に動かないものに帰一することが
仏法の本質にある教えなのであります。

この絶対に動かないものに移行しうることが
「安心」(あんじん)ということであり
これが解脱であります。

解脱は移行であって、つねにまた自分に戻るのであります。

仏教、特に禅においては、智恵も煩悩も
すべて身に具備したままで
自由に「色」と「空」との間を移行しうるという境涯を
身につけるのが禅の立場であり
釈迦はこれを「微妙の法門」と言っておられるのであります。



(p173)
茶の湯は、
つねにその時代の人とともに生きているのであります。

我々が心すべきことは、
たんに先人の跡を踏襲するのではなくて、
さらに百尺竿頭一歩を進めるということであります。
これが利休にならうということであると
私は考えています。




「第5章 茶の科学」より抜粋

(p184)

一見、自然科学と禅はまったくかけ離れた
互いに結びつかないもののように
考えられがちでありますが
自然科学は明らかに宇宙の根源、真理の本体を
見極めようと努力している学問であり

禅学もまた窮極、真理の本体に迫り
その認識のなかから自己を見ようとする学問であります。

これらはまったく同じ目標に向かって進む
学問といえます。


*私事で恐縮ですが、私自身もお茶から長く離れていた一時期
この世の「本当のこと」が知りたいと渇望していた中で
科学と宗教の行き着く先が同じ場所であることを
おぼろげながら知って驚きました。
また、この世の真理はどこか遙か彼方や難解な世界にあるのではなく、
ごくごく身近な日常の中にあふれていることに気づかされるという体験をし、
その時点での気づきを「聖なる日常」という本にまとめました。
その出版直後に茶道と再び出会うこととなり
茶道はまさにその真理を深め体現する、実践の世界であることを知りました。



(p188)
茶室に一輪の花を見るとき
まさにこれは色の極致であり
宇宙の根源に根ざした
空の実体でもあるのであります
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2019/7/15

堀内宗心『私の茶の湯考』よりB  座右の書
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「第3章 わび茶の原点」より抜粋

(p114)

一、道具一種の茶の湯

わび茶の湯というのは
使用する道具が唐物であるとか、和物であるとか
天目であるとか楽茶碗であるというところにあるのではなく
むしろ、茶事の仕様そのものにあるのであって
これが珠光以来の伝統であります。
時代が下って、茶室が草庵化し、
道具もわび道具になっても
道具一種の原則を貫くことこそが、わび茶の湯と言い得る
条件なのであります


(p116)
一、礼儀の厚きを本とすること

「只礼ノ厚きを本トス」とは
わび茶の湯として、礼儀を重んずるということを
現代まで厳格に伝えてきた事実と対照して
わび茶の湯の重要な一要素と見ることができる


(p116)
一、茶人は茶人としてあるべき自覚が必要である

わび茶というのは単なる遊楽の世界ではなく、
村田珠光の当初から常にみずからを戒め
他を戒めてきた事実があります。...


我慢(我執)に陥ることを戒め
道具については唐物と和物を調和混用すること
未熟な茶人が土ものの水指やさび道具を使って
見かけのわび茶人になりすましたりすることを戒め
つねに長上を敬い
後輩をいつくしむという茶人の心得を説き
しかも茶人は常にわが心の師となり
心を師としてはならぬと戒めています




茶事の場面が紹介されているカラー頁の中に
こんな写真が載っていました

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右上の写真に
思わず「おやっ...!?」


右下の花入れを見て
「あらっ...」

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2009年5月27日の記事より


なんだか似ているとは思いません。。。?

こちらは2009年に行われた
「千家十職×みんぱく」のミュージアムショップで売っていた
フィリピン製の籠ですが...







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