2013年10月26日 土曜日
台風27号の影響はいかがでしたか(?)東海地方は大した風も雨もありませんでした。でも、丁度秋のイベント時期ですから開催するか中止するかで悩んだ方も多かったことと思います。私のスケジュールにあったイベントは中止となりました。
そして未明、3.11の余震がありました。
〜〜河北新報10月26日引用〜〜
http://www.kahoku.co.jp/news/2013/10/20131026t73051.htm
宮城など未明に震度4の地震 石巻で津波30センチ観測
26日午前2時10分ごろ、宮城、福島、茨城、栃木の4県で震度4を観測する地震があった。気象庁は岩手、宮城、福島、茨城各県と千葉県九十九里・外房に津波注意報を出した。東北の太平洋沿岸の各地で津波を観測し、最大は久慈港と相馬市の40センチだった。
気象庁によると、震源は福島県沖で、震源の深さは約10キロ、マグニチュード(M)は7.1と推定される。(以下略)
〜〜引用終わり〜〜
地球のなりたちから現在までの歴史でみれば3.11から2年半経ってからの余震、今も活動は続いていることなのだと改めて思わされます。区切りをつけたり、終わりにしたいのは人間だけなのかも知れません。
区切りをつける、それは人間の生命に限りがある以上必要なことなのでしょう。だから歴史の体験も忘れます。
東京では上映が始まった映画「ハンナ・アーレント」、名古屋では1ヶ月遅れの11月下旬からの上映ですが、チェックをしておきたい作品です。
http://www.cetera.co.jp/h_arendt/
〜〜現代ビジネス/川口マーン惠美「シュトゥットガルト通信」引用〜〜
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/37273
民族としてのアイデンティティーとは、いったい何なのか---映画『ハンナ・アーレント』が内包する普遍的なテーマを考える
『ハンナ・アーレント』という映画を、今年の初めにシュトゥットガルトで見た。アーレントは、高名なユダヤ人哲学者だ。ただ、本人は哲学者と呼ばれることを嫌い、政治思想家であるとしていた。
1906年、ドイツのハノーヴァーに生まれるが、ナチの迫害を逃れて、チェコ、スイス、フランスを経て、41年、アメリカに亡命する。それ以前、マールブルク大学での学生時代は、そこで教鞭を執っていたハイデッガーの愛人でもあった。ハイデッガーは、17歳も年下のアーレントと関係を持っていた4年の間に、彼の一番有名な著書『存在と時間』を書いた。
その後、フライブルク大学でフッサールに、ハイデルベルク大学でヤスパースにそれぞれ師事。結婚は2回だが、恋多き女性でもあったようだ。
戦後のアメリカではジャーナリストとして、あるいは、大学で教えながら、政治思想を研究し、多くの著作を残した。1975年、2度目の心筋梗塞のため、マンハッタンの仕事場で亡くなっている。
アイヒマン裁判に関する論文で一躍有名に
アーレントが1951年に発表した論文『全体主義の起原』は、ヨーロッパの政治が、反ユダヤ思想→帝国主義(ナショナリズム)→全体主義(ヒトラーとスターリンの台頭)という段階で発展していったとして、その道程を徹底的に分析している。
おそらく、これが学術的には彼女の代表作となるのだろうが、しかし、彼女の名を世界中に知らしめたのは、ナチの大物、アイヒマンの裁判についての論文だった。
アドルフ・アイヒマンはナチの親衛隊(SS)の隊員で、ユダヤ人を強制収容所に移送するにあたって、指導的な役割を果たした。もちろん戦後は第一級の戦犯の1人だったが、うまく潜伏し、1950年にはバチカン市国発行のビザを使い、イタリア経由でアルゼンチンに逃亡した。
ブエノスアイレスで暮らしていた彼を、イスラエルの秘密警察モサドが捕まえたのが1960年のこと。しかもイスラエルはそれを、アルゼンチンの政府や警察には知らせずに極秘のうちに遂行した。何故か?
イスラエルは、アイヒマンをどうしても本国に移送して法廷に引き出したかったのだ。しかし当時、イスラエルとアルゼンチンには犯罪者の引き渡しについての協定が存在せず、合法的に連れ出す方法はなかった。そこでイスラエルは、最初から非合法で連れ出すことを計画し、自分たちの活動をアルゼンチン当局に知らせることはなかった。
その結果、拘束、あるいは誘拐されたアイヒマンは、その11日後、極秘のうちにイスラエル機で連れ去られた。いわゆる拉致である。出国の際にはイスラエルのエル・アル航空の制服を着せられ、薬で寝かされたまま、「酒に酔って寝込んだ非番の客室乗務員」として、アルゼンチンの税関職員の目を誤魔化したという。ここら辺の事情は、CIAやドイツの連邦情報局の資料が徐々に公開され始めて、だんだん明らかになってきた。下手なスパイ小説よりもずっと面白い。
その後、アイヒマンはエルサレムで裁判にかけられる。「アイヒマン裁判」として世界中が注目した。
世界中のユダヤ人から十字砲火を浴びた
映画『ハンナ・アーレント』は、この裁判にアーレントがジャーナリストとして立ち会った時のことを描いている。彼女の波乱に満ちた一生の中から、この裁判前後の一時期だけを捉えた、スナップショットのような作りの映画だ。地味だが、中身は深い。
アーレントがこの裁判で、ガラスの檻の中のアイヒマンを見て何を感じたか。そして、それをどういうふうに分析し、どういう理論を構築し、どういう結論に導くか。そういった全行程が描かれていて、哲学のやり方を見るようで、それも大変興味深い。
結果だけを言うと、この裁判のあとで彼女が『ザ・ニューヨーカー』誌に発表した論文(のちに『イエルサレムのアイヒマン‐悪の陳腐さについての報告』としてまとめられた)が、ユダヤ人世界に信じられないほどの憤怒を巻き起こす。
そして、アーレントは、世界中のほとんどのユダヤ人から非難され、罵倒され、あるいは脅迫されと、まさに十字砲火を浴びることになるのだが、彼女は死ぬまでその意見を変えない。
彼女の意見というのは、一言でいえば、「アイヒマンは反ユダヤの大犯罪人ではない。思考を放棄し、上からの命令に忠実に従う、ただの凡庸な人間である。つまり、本当の悪は、本当の悪人によってなされるものではない。凡庸な一般人によって引き起こされるのだ」というものだ。
アーレントは、ナチによって引き起こされた事実を、生き残ったユダヤ人が冷静に判断することを期待した。ユダヤ人が感情的になり、復讐心を満足させようとすることを嫌った。ヒトラー以後の世界では、ナチを絶対悪と見て、ユダヤ人を絶対的な善と見ることが正しい見方とされており、そこにアーレントはブレーキを掛けようとしたのだ。そして、まさにその試みがユダヤ人を怒らせた。
特に、「ユダヤ人自治組織の指導者も、ユダヤ人の強制収容所移送に手を貸した」という指摘を、ユダヤ人は認めようとはしなかった。古くからの友人、苦しい時に助け合った友人たちが、次々と離れていった。それは彼女にとってまったく想定外の出来事であったはずで、苦しみは大きかったと思う。
結局、その後の心の支えは、夫、秘書などわずかな人々と、彼女の大学での講義に拍手で応えた学生たちだけになった。
「私はある国を愛したことは一度もない」
古くからの友人が危篤になり、アーレントがイスラエルまで駆けつけるシーンがある。戦前からの友人で、国際、およびドイツ・シオニスト連盟の代表を務めた人物だが、やはり、アーレントの論文以後、交信は途絶えていた。
その年老いた友人が、ベッドに横になったまま、最後の望みを託したように問いかける。
「ハンナ、君はイスラエルを愛していないのか?」
それに対してアーレントが答える。
「私はある国を愛したことは一度もない。私が愛するのは私の友人たちよ」
友人は無念の表情で、ゆっくりと大儀そうに寝返りを打ち、彼女に背を向けた。おそらく永遠に。静かな、しかし明確な決別だ。何も言わないアーレント。しかし、その表情を見ていると、悲痛の気持ちとともに、「それでも私の考えは正しい!」という彼女の叫びが聞こえてくる。
ただ私には、彼女の考えが本当に正しいかどうかがわからない。もし愛する国が無かったら、人間はどこに帰属すればいいのだろう。孤児のように天涯孤独で、家族と寄り添い、友人とだけ手を取り合って生きていく?
あるいは、この天涯孤独の感覚はユダヤ人独特のものなのか? 今でこそイスラエルという国があるが、それまで何千年もの間、ユダヤ人はあらゆる国に属しながら、実はどこの国にも属していなかった。どこの国をも愛することはなくても、しかし、それでも民族はアイデンティティーを持ち続けることができるのか? 民族としてのアイデンティティーとは、いったい何なのだろう?
映画『ハンナ・アーレント』、日本では今年の10月26日から、まず東京で公開されるそうだ。ユダヤ問題を、過去にも現在にも抱えていない日本ではあるが、それにもかかわらず、日本人が考え込む材料をたくさん内包した映画である。
〜〜引用終わり〜〜
私の見ておきたい映画リストに入っている作品です。人間の狂気も、人間の理性も、せいぜい数百人の政治家の手に委ねるというのが民主主義です。それはナチス・ドイツでも変わりません。ナチスは選挙によってドイツ人から選ばれた政権です。
とすれば、あの狂気のユダヤ人虐殺だって(ガス室はなかったという意見もありますが虐殺は否定していません)、委ねた政治家による命令であって、ナチス党員が全員狂気に支配されていたわけではない、という意見も成り立ちます。
ミッションを強く自覚し、組織に忠実であろうとすればするほど、組織からの命令は実行しなければなりません。それは狂気でしょうか、それとも命令に忠実なだけなのでしょうか。
連合赤軍事件では、森恒夫や永田洋子の命令で仲間をリンチし殺していくのですが、それは平然と仲間をリンチし殺す狂気というより、自分の死への恐怖から命令に従う人間の弱さだったかも知れません。
極限の状態になれば何でもする人間はいます。それを拒否して泰然と死んでいくことのできる人間は多くありません。
わたしは、ナチス・ドイツ及びユダヤ人、特にシオニズム・イスラエルについてはよくわかりません。ただ、なんとなくアメリカにあるユダヤ人ロビイスト団体である「サイモン・ウィーゼンタール・センター」には胡散臭さを感じます。
日本の部落解放同盟が行う「差別糾弾」によってカネを稼ぐ構造と同じで、ユダヤ人差別をカネにする組織だと思っています。
ハンナ・アーレンの意図がどのようなものであったとしても「アイヒマン裁判」はシオニズムのイデオロギーを語る舞台としての役割を担い、イスラエル国家では、その後ホロコーストを殉教者と描き、その悲劇を乗り越えてイスラエルを建国した英雄とその子孫である自分たち、というイスラエル国民にアイデンティティーを与えた事件であったようです。
私たちの隣にいる人たちだって、「個人としてはいい人」なのだけれど「組織の人となると悪いことを平気でする人たち」がたくさんいます。
狂気なのか、それとも命令なのか、何か人間にとって根源的なことを考えさせられるハンナ・アーレントの人生です。
最後までお読みいただきありがとうございます。

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