2010年2月19日 金曜日
盛り上がらないオリンピック、ナショナリズムの発揚でもある国際大会、最高のシチュエーションはメダルをどんどん取ること、ですが、日本はムリですね。
久しぶりに、僅かなこと、でも重要なこと、を茶化して一般化する文章に出会いました。
〜〜日経ビジネス小田隆氏引用〜〜
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20100212/212742/
「裾出し腰パン」を「皿仕上げ」でおいしくいただきましょう
バンクーバーの空港に降り立った国母和宏(21歳、東海大)選手の服装は、あれはたしかに問題だった。いや、問題だったのは「服装」ではない。「着こなし」だ。
服装自体について言うなら、彼はJOC支給のスーツを着ていた。その意味では、規則違反を犯していたわけではない。が、結果は単純な規則違反よりもシリアスなものになった。マズかったのは、そのJOC謹製の背広上下を、「裾出し」、「ゆるネクタイ」、「腰パン」のカタチで着崩していたことだ。
「服装」よりも、「着こなし」が逸脱していたということは、「ファッション感覚」よりも「スタイル」が道を外れていたということで、このことはすなわち「ファッション」という外見的ないしは趣味的な要素よりも、より深く人格の根本に直結する「生き方のスタイル」が、規則破りであったことを意味している。
と、これは、由々しき事態になる。公式スーツが象徴する「スタイル」をコケにしたわけだから。
というわけで、その国母選手の「腰パングラサンずるずる歩き映像」に対しては、各方面から苦情が殺到することになり、結果、彼は、橋本聖子選手団長の叱責を受けて、選手村入村式への出席を自粛する次第となった。
その出席自粛を発表する記者会見での弁明風景がまたヤバかった。今回ヤバかったのは「態度」だ。致命的だ。
態度がヤバいということは、「服装」が不適切であることよりも、「着こなし」がマズいことよりも、さらに数層倍事後がよろしくない。
というのも、公式記者会見における不遜な態度は、世間に対する「挑戦」を意味しているからだ。あるいは「社会」「友だちの輪」および「空気」ないしは「良識」に類する諸々の集団的な秩序に向けた破壊工作。これは決して許されない。
「われわれのカネで派遣されている五輪代表選手でありながら……」
と、早速、タックスペイヤーの皆さんの叱責がはじまる。21世紀は、納税者意識の時代だ。
平成の民衆は、昭和の庶民とは違う。ただの国民ではない。各種の公的な補助を支える納税者、スポンサーとなっている企業の顧客、などなど、「有権者」の立場でものを言うことを覚えて、一段階偉くなっている。だから、五輪選手に対しても、「ファン」や「観客」としてではなくて、「納税者」の立場から叱責をする。
「キミらは、われわれの血税を使って現地に赴いているのじゃないのか?」
と、上からものを言う。「国母選手は、国民のカネで支給されたスーツをぞんざいに着こなしたのみならず、公共のメディアを集めた記者会見においてあのような……」
絶体絶命だ。
が、その、あらゆる意味で八方ふさがりな記者会見の場で、国母君は、ありていに言って、あんまり反省しているようには見えなかった。傍らに座る監督に促されるカタチで
「反省してまーす」
とは言ったものの、この言葉を言ったのちに周囲を見回す様子には、ほとんどまったく恐縮した様子がなかった。「あんたらが聞きたかったのはこのセリフだろ?」という感じ。
「ったく、何を騒いじゃってるんだか」
うん。ある意味あっぱれな態度ではあったが。私個人は、実は、今回、この話題を取り上げることをちょっと面倒くさく感じている。だって、どう書いても必ず荒れるからだ。そう。間違いなく荒れる。わかりきったことだ。
一方には、国母選手の態度にムッとしている人たちがいる。で、もう一方には、若い者のちょっとした逸脱をヒステリックにとりあげる報道にうんざりしている人々がいる。オレは両方だな、という人たちもたぶん少なくない。どっちにしても、人々はアタマに来ている。
私自身は、国母選手の態度を見て、ちょっと感情を害した。で、その彼の態度への世間の反応の仕方にも、やはりイヤな感じを抱いた。
さらに、ここまで突っ張っておいて再度(← 一度目の会見の不評を受けて臨んだ記者会見において橋本聖子議員とともに)謝ってしまった国母選手の腰くだけぶりには、正直、がっかりさせられたし、「開会式への出席停止&五輪日程終了後の正式処分」という世間の顔色をうかがうみたいな処分でお茶を濁しにかかった選手団長の判断にも失望した。
要するに、このお話は、全方位的にうんざりする話なのだね。発端から展開から結末に至るまでの、いちいちが。
最初の記者会見で、「わかったよ。腰パン程度のことで、五輪選手にふさわしくないだとか、そういう七面倒くさいことを言われるんだったらオレはオリさせて貰うよ。だって、オレは五輪代表である前に、何よりもまずオレ自身なわけだからさ」ぐらいのことを言って席を蹴るテもあった。国母選手がそれをしてくれたのなら、私は応援していたはずだ。
「いいぞ。ひっかきまわしてやれ」「そうだ。行けコクボ。いい人ごっこの教訓話がまかり通る五輪メダル物語に水をぶっかけてやれ」と。
実際、鼻ピアスにドレッドロックで現地入りした以上、彼は、その程度の境地には踏み込むべきだったのだ。逆に言えば、謝罪会見を蹴飛ばす覚悟が無いのなら、最初から腰パンで歩くみたいなおイタはすべきじゃなかった。
ヒップホップは、音訳すれば「筆法」、和訳すれば「スタイル」だ。単なるファッションではない。大げさに言えば、ひとつの「生き方」だ。とすれば、それは、叱られたぐらいなことで、簡単にひっこめられるはずのものではない。
そもそも、腰パンは、囚人の着こなしをまねたもので、その意味では、まさにこの世を監獄として批評(囚人の位置から)するための筆法であり、だとすれば、なおのこと非難されたからといって改めて良いものではない。下げて穿いた以上、絶対に貫徹しなければならない。足がもつれて倒れても、だ。
私自身、反抗的な態度をとっておきながら、叱られるとすぐに謝ってしまうタイプの高校生でなかったとは言わない。っていうか、そのものだった。だから、あまり強く言える立場の者ではない。でも、国母君も、もう高校生ではない。聞けば21歳だ。オリンピックも2回目。あれこれわかっていて良いはずの年頃だ。
とすれば、反抗を貫くのか、はじめから無駄な反抗はしないのか、どちらかを選ぶことぐらいはできたはずだ。18歳の石川遼君が、あんなに見事に取材陣のトラップをはぐらかしているんだから。
さて、当然のことながら、国母選手の鼻ピアス謝罪会見映像は、メディアにとってまたとないエサになった。朝青龍バッシングに飽きてきた頃合いでもあるし、スタジオの祭壇はそろそろ新しい羊を探していた矢先だったわけだから。
ところが、会見のVTRが明けてみると、コメンテーター諸氏は、あまり多くを語らない。ニヤニヤするばかり。
「渋谷あたりを歩いているんなら、このファッションも個性的でいい……ということになるんだろうけど……」「TPOが……」 ぐらいな感想は述べるものの、真正面から叱責する勇者は出てこない。
「まあ、若いしね(笑)」と、フォローするゲストも現れる始末。
ん? 開幕直前だし、五輪商売に水をぶっかけるタイプの報道は手控えようではないかという判断なのだろうか? あるいは、とりあえず閉幕まではネガティブ報道禁止ぐらいなお達しがどこかから出ているとか?
いや、彼らは、単に偏狭な人間だと思われたくないだけだ。おそらく。
テレビ画面の中で暮らす人間には、独特の虚栄心が芽生える。彼らは、「古い」「体制側の」「旧弊な」「アタマのカタい」人間であると思われることを極度に嫌う。で、誰もが「自由」で「柔軟」で、「感性の豊かな」「若々しい」「シャレのわかる」人間であると思われたがる。老いも若きも。
だから、地球温暖化や税金の無駄遣いに対しては直截な怒りを表明する一方で、若い者の悪ふざけや不謹慎に対してはびっくりするほど及び腰になる。うーん、ボク自身は特に目くじらを立てるつもりは無いんだけど、こういうのは世間が許さないかもしれないね、てな感じ。
だって、国母君みたいな対象に向けて、マトモに怒るのは、前近代オヤジそのものだから。といって、もちろん擁護もしない。これも、腰砕けの年長者っぽく見えて具合がよろしくないから。
あのテの「絵」は、放置するに限る。そう。放置だ。
テレビの中の人々が国母選手の無礼を真正面から批判しなかったもうひとつの理由は、非難や叱責が実効性を持たないことを、彼らがよくわかっていたからだ。
国母会見映像のような誰の目にも見えるわかりやすい逸脱は、むしろ、論評抜きで、単に再生して見せるだけの方が良い。その方が、視聴者の怒りを煽る上では、ずっと効果的なのだ。
そんなわけで、あの「反省してまーす」映像は、朝のワイドショーから夜のニュースショーまで、何度も何度も、それこそすり切れるまで執拗にリピートされ続けた。ちなみに申せば、これは@2ちゃんねるにおいて「晒し上げ」と呼ばれている処理手法だ。人目に触れる場所に何度も晒すことをもって処刑とするカタチ。いわば「衆目刑」だ。
晒し上げに非難は無用。そういう決まりになっている。見ればわかるから。「一目瞭然の恥」は、黙って晒す。いちいち突っ込まない。なまあたたかく笑いながらみんなで眺め回す。「やめてやれよ(笑)」とか言いながら。
かくして「晒し上げ」は「皿仕上げ」というひとつのメニューに昇格する。その心は、「最高においしいネタは、あえて調理せず、素材のまま皿に載せることをもって仕上げとする」といったあたり。さすがは@2ちゃんねらー。他人の恥の専門家たち。見事な見識だ。
かくして、国母選手の会見映像をスタジオで見る人たちは、特にコメントを付加することなく、曖昧に笑っていた。
「ほら、皆さん。ごらんの通りですよ」[あーあ(笑)やっちゃったね」[たはははは」「まあ、なんというのか(笑)」「いやまったく(苦笑)」「おやおや(笑)」
と、文字にすれば、こういう感じ。実に底意地の悪いニヤニヤ感だ。ゆるやかな公開処刑。むごい。自業自得ではあるものの。
今回は、この度、電波上で公開処刑に付された「個性」について考えてみたい。国母選手自身の個人的な逸脱については、これ以上触れない。私が問題にしたいのは、より一般的な、日本人全般の個性についてだ。個性と社会。才能と逸脱。マナーとオキテ、その他モロモロ、国母マターを通じて明らかになった、われわれの正体について、だ。
当欄では、ここ数回の原稿の中で、マナーについて触れる機会が続いた。
マナーについてのお話は荒れる。「最近の若者はマナーがなっていない」と考える人々と、「爺さんの懐旧談と現状非難にはうんざりだぜ」というふうに感じている人たちの、両方を刺激することになるからだ。
私自身の見解を簡単に述べておく。
私は、日本人のマナーが、最近になって悪化したというふうには考えていない。むしろ、多くの場面において、日本人の公共マナーは向上している。特に、清潔面(唾、痰、立ち小便、タバコの吸い方、ゴミの分別)において、21世紀の日本人のクリーンさは、昭和の連中とは別格の域に達していると思う。
一方、たとえば人前でいちゃつく男女は増えた。電車で化粧をする女性も。とはいえ、それがマナー違反であるのかどうかは、議論の分かれるところでもある。
つまり、何をもってマナー違反とするのかということについては、世代差や地方差があり、この問題は簡単には断定できない。だから荒れるわけだが。
当稿では、「マナー」と「個性」のかかわりについて、少し触れることになると思うが、マナーそのものは主題ではない。つまり、「個性的であることがマナー違反とみなされる場所がある」というお話として、マナーが登場するだけで、私はマナー全般の話をしたいわけではないのだ。そこのところをぜひご理解いただきたい。
さて、「個性」と呼ばれるものについて、人々は色々な考えを持っている。辞書を引くと、「個性」は、「他の人と違った、その人特有の性質・性格」(岩波国語辞典)ということになっている。なるほど。わかりやすい言葉だ。
でも、世間で言われている「個性」は、辞書で説明されている意味とは少しニュアンスが違う。しかも、使う人によって、「個性」という言葉にカブせているイメージが少しずつ違っている。ここに問題がある。
私の見るに、教育現場で「個性」と呼ばれているものは、実は「才能」を指している場合が多い。彼らが「個性を伸ばす」という場合、「望ましい個性」を「望ましい方向に伸ばす」ことを意味していて、その実体的な意味は、「ピアノが上手」であったり「絵が得意」であったり「英語が達者」であったりするみたいな、持って生まれた「優れた才能」を、コンクールで優勝できる水準の技能に訓練することだったりする。だから、個性は、親にとって、甘い夢みたいな言葉として想起される。
「このコには、ほかの子に無い個性がある」
と、午後4時の夢想の中でママがそう考える時、「個性」は、「才能」それ自体と区別がつかない。
一方、個性を辞書に載っている通りの意味で解釈するなら、それは、典型からのバラつきの由で、つまり、偏りであり、はみ出し部分それ自体だ。ということは、社会的に見て、個性は、多くの場合、ろくでもない逸脱とみなされる。言い換えれば性格的偏向。たとえば、遅刻が多いとか、傲慢だとか、引っ込み思案であるとか、粗暴であるとか吝嗇だとか。そういう偏りがすなわち、個性のありのままの姿なのである。善し悪しは別にして。
おそらく、「子供には一人一人違った個性がありますよ」という前提が、教育現場の中で、耳に心地よい言い回しとしてソフィスティケートされるうちに、別の意味を持つに至ったわけで、もう少し意地の悪い見方をするなら、教育産業におけるセールストークとしては、「個性」を「可能性」ないしは「才能」と読み替えた方が都合が良かったということだ。
「当学園では、お子様一人一人の個性を最大限に尊重し、それぞれに合った教育を施し、以てお子様の将来に輝かしい……」「個性は宝物です」「ひとつひとつの花が違っているように、すべての子供には固有の美しさと独特さが」「当塾では、カタにハメることなく、生徒の適正を見極めた上で、最も効率的な教授法を」
そもそも、「個性主義」は、戦前の軍事教練式の画一化教育への反省から生じた思想だった。
やっぱり、戦争中みたいな一糸乱れぬ集団主義はヤバいぞ、と。その意味では、「個性」は、文字通り、「バラつき」で、「個性教育」は、教師が遭遇する「バラつき」への取り組み方の違いとして表現されるはずのものだった。
が、いつの頃からか「個性を伸ばす」という言い回しが登場する段階になると、「個性」の意味は、単なる「バラつき」ではなくなってきた。
「個性」は拡大解釈され、さらに「良いもの」「世間的に認められる才能」「受験対策上有効な特性」だけを「個性」として認定する、みたいな行動がはじまった。
今回の事件でも「国母選手は、自分で個性的なつもりでいるかもしれないが、あれは本当の個性ではない」という立論で彼を批判する意見が目立ったが、なるほど、この意見を言う人たちは、「良くない性質」を、「個性」と認めていない。彼らの想定する「個性」は、単なる「バラつき」ではない。もっとうっとりするような、他人の目から見てもエレガントに見える人間性のうちの美しい何かなのだ。
たしかに、国母選手の服装および身のこなしおよび言葉つきならびに目の配り方は、いかにも「典型的な逸脱」であり、その意味で、「個性」としては虚弱であった。
が、それはそれとして、好き嫌いはともかく、あれは「個性」ではある。
つまり、彼には、スノーボーダーとしての優れた才能があり、それとは別にイヤな個性があると、そういうふうに考えなければならない。そういうことだ。
「個性」を伸ばす、という言い方は、そもそもおかしい。
というのも、「個性」は、そもそも生まれつき他人と違っている性質の由で、とすれば、教育課程が特に別格扱いにしてさしあげる筋合いのものではないからだ。
でなくても、ひとつの個性を貫徹することは、本人にとっても、周囲の者にとっても、非常に厄介で、忍耐のいる、面倒くさい過程だ。結果も、必ずしもハッピーな方向に落着するとは限らない。単に軋轢を招いて、全員が疲れるだけだったりする。
個性主義というのは、それでもなお、個々人のバラつきに対して寛大である社会を維持しようとする一種の合意であって、決して個性を万能とする思想ではない。
個性を許す社会を実現するためには、忍耐が必要だ。なぜというに、一人一人が他人の個性を我慢しないと、社会が維持できないからだ。一方、個性を許さない社会も、それはそれで別の意味での忍耐を要する。つまり、誰もが自らが持つ「逸脱」を我慢せねばならないわけだから。
「才能を伸ばす」というのなら話はわかる。音楽の才能を持った子には早い時期から楽器を与え、俊敏で活発な子供には、最も向いた競技をみつけてあげる。それが才能を伸ばすということであるのだろう。
が、個性ということになると、話は少し違う。むしろ、社会的な存在としては、個性は圧迫され、排除される方向で処理されるケースが多い。というのも、教育は、一面では、プレス工程でもあるものだからだ。
人は社会化しなければならない。軍隊の分列行進やエグザイルの踊りみたいに、一糸乱れぬところまで持って行く必要はない。でも、カドを取るぐらいのことはしないと、人は社会的な存在として適応することができない。
逆に言えば、教育機関由来の矯正や、職場の圧力に晒されながらそれでもなお消えずに残っている性質こそが、「本物の個性」ということになる。だからこそ、個性は厄介なものなのだ。善し悪しは別にして。
それにしても、今回の経緯を見るに、われわれの社会は、他人の個性(繰り返して言うが、他人の才能ではない、他人の偏向だ)に対しての受忍限度があまりにも低い。それだけ同一性が高いということなのかもしれない。
人格版QC思想。もしかしてこれは、わが国の産業界が「歩留まり」を追求し続けたことの副作用なのであろうか。
いや、そんなに大げさに考える必要はない。人と人が密着して暮らす場所や、集団化傾向の高い社会では、他人の個性に対しての寛大さが失われる傾向がある、と、そういう話なのだと思う。
満員電車を思い浮かべれば良い。あの殺人的な空間の住人として過ごす数十分の間、われわれは、人間性を放棄している。というよりも、満員電車の人口密度は、人が人であるための社会的な距離を逸脱しており、それ以前に、生物学的な受忍限度をも超えている。
ゴキブリのような生き物でさえ、ある限界を超えた密度で飼育すると、異常行動をとることが知られている。ザリガニでも金魚でも同じだ。過密飼育をすると共食いやいじめ(←群れを作る生き物を閉鎖環境に置くとほぼ必ず特定の一匹を攻撃するようになる)を始め、時にはオス同士で交尾を試みるようになる。つまり、「狂う」わけだ。
満員電車の中のわれわれは、狂わずにいるために、一人一人が自らにあるフィクションを課している。つまり、われわれは、「オレらは人間じゃない」という前提で、あの苦行に耐えているのだ。
「私は荷物だ」「ボクはひとつの砂袋だ」「オレは運ばれている。オレは何も感じないし何も思わない。なぜならオレは産業戦士だから」
つまりわれら乗客は、心頭を滅却して、自らを一個の荷物ないしは砂袋と化すことによって、ようやくあの過酷な状況に耐えているのである。それゆえ、満員電車のマナーは、一種独特な水準に到達する。
どういうことなのかというと、あそこでは「人間らしくあること」が、マナー違反になるのだ。たとえば、ヘッドフォンの音漏れが敵視されるのは、あれはうるさいからではない。音量について言うなら、電車の走行音と比べてみればわかる通り、ごく些細なノイズに過ぎない。問題は、音楽を聴いている人間が「ゴキゲン」である点にある。みんなが我慢しているのに、一人だけノリノリであることが許せない、と、そういうことなのだ。
通勤は、ひとつの「行」だ。とすれば、満員電車という共通の閉鎖空間に居合わせた全員が心をひとつにして試練に耐えるのでなければ、「行」は貫徹されない。
脱落者が出ると、結界が破れてしまう。たとえば、子供とかおばさんとかご老人とか、普段満員電車に乗らない人間が紛れ込むと、満員電車の結界はたちまち無効化する。
というのも、乗り慣れていない人間は、自らを全体の一部に同化する海藻のマナーを備えていないからだ。そう。オレたちは昆布だ。昆布みたいにあらゆる揺れと圧力を受け流して、抵抗を分散し、そうすることで車両をひとつの脱・力学的な空間たらしめている。
が、結界を破る異分子が混入すると、車両の平衡は乱れる。通勤初心者は無駄に踏ん張ったり、悲鳴を上げたり、見当違いな被害者意識を表明したりするからだ。違うんだよおばさん。オレたちは昆布なんだ。誰もカラダを押しつけているのではない。わかってくれ。そして耐えてくれ。
新聞も小さく折りたたんで読む限りはギリギリオッケー。文庫本も、だ。が、コラムを読んで笑うのはNG。「なんだこいつ? なにを笑ってやがるんだ?」と周囲の白眼視を浴びることになる。なぜなら、笑うということは、禁欲的たるべき車両内に、人間的な破れ目を作ることになるからだ。
五輪の選手村には、強烈な圧力がかかっている。その意味で、満員電車に似ている。
人が人でいられなくなる圧力。
で、われわれは、五輪戦士に対して禁欲的なマナーを期待する。な、二週間の辛抱じゃないか。せめてその二週間の間は、ガチガチに緊張しててくれよ、と。オレらが満員電車に乗っている時みたいな調子で。
メダルを目指す人間には、メダルのこと以外考えてほしくない。
彼らが恋をしたり、パーティーをしたり、音楽を聴いてリラックスしたり、喜怒哀楽を率直に表明したりすることに対して、われわれは寛大になれない。自分なりのファッションを表現したり、個性を謳歌したり、チェケラウな歩き方をすることも含めて、だ。
できれば、満員電車に乗っている時の自分たちのように、感情を捨て去り、自己を滅却し、個性を超越したひとつのバーサーカー(←闘いの神に取り憑かれたトランス状態の戦士)として戦場に臨んでほしい。それがわれわれの願いだ。
1960年のローマ五輪で金メダルを獲得したカシアス・クレイは、地元に凱旋した折り、メダルを首からかけていたにもかかわらず、白人専用レストランへの入店を拒否された。この時、金メダルが、黒人という立場には何の変化ももたらさないことを思い知らされた彼は、そのメダルをオハイオ川に投げ捨てたと言われている。そのクレイが、後にモハメド・アリと改名してから後の活躍は、よく知られているところだ。
金メダルの話は、現在では、作り話だとも言われている。本当のところはわからない。が、いずれにしても、何かに抗議するにあたって、金メダルほど強烈な説得力を発揮するブツは無いことは確かだ。国母選手には、ぜひ金メダルを取ってもらいたい。そのブツをどこに捨てるのか、じっくり考えるのだよ。楽しいぞ。
〜〜引用終わり〜〜
わたしの、この事件への違和感は個性とか、才能とか、という高度のものではないのです。単純にわたしの気持ちが良くないからにすぎません。
誰でもそうですが、他人の言葉には人を引き付ける魅力のある話もあるし、逆に人を遠ざける話もあるのです。
「立て板に水」のような話し方をする人と、朴訥としていても自分の言葉で説明をしようと真剣な人、どちらを信用するでしょうか(?)
わたしは間違いなく自分の言葉で説明し、理解をしてもらおうと努力している態度を信用します。
話のうまさには台本があります。落語、舞台、映画その他諸々、それは切り取られた表現であり、考え抜かれた言葉なのです。普通に話をしていて、舞台や映画にに使えるような表現は通常はあまりありません。
意図して表現する言葉を探す、だから舞台や映画という小さな世界で、見る者を感動させることができます。
それはファッションであっても同じこと、いや言葉にしないだけ困難なことなのです。わたしは抽象画を理解する力がありませんが、そのような人は多いと思っています。それと同じように自分のファッションを自分の思想や価値観として表現するものだと位置付ければ、そのような言葉を発することができるものです。
そのような意図が国母選手にあるのでしょうか。
そのようには、とはとても思えません。単なるファッションの物マネ、サル真似なのです。その証拠があの記者会見の
「チッ、うっせぇなぁ」であり、橋本聖子監督に促されて発言した「反省してまぁ〜す」の言葉です。
だから、上記引用のようなふうにはとても考えられないのです。
しかも金メダルどころか、メダルさえ獲れなかった哀れな道化師のようなものです。
因果関係は「あんな恰好でメダルなど取れるわけがない」のか「メダルが取れなかったからあの格好が避難される」のか、わかりません。
わたしは因果関係はどうでもいいのです、あのような崩れた格好で取材を受け、そして釈明の記者会見であのような態度しか取れなかった、ことが気持ちよくない、ということです。
多くの国民もそうなのではないか、と思っています。ただ他方ではサルにも劣る知能しかない、と評価する論者もいる事実は紹介しておきます。
最後までお読みいただきありがとうございます。

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