日曜日午後10時から、NHK教育「ETV特集」で、「チャップリンの秘書は日本人だった」と題し、チャールズ・チャップリンの秘書を務めた高野虎市(こうの・とらいち)の生涯をとりあげていた。
高野は広島県出身の移民である。10代のときに渡米したあと、ロサンゼルスで運転手として働いていた。1916年、チャップリンの運転手となり、のちに誠実な人柄などが認められて秘書となった。たった一度、「冒険」という映画に、運転手役でワンカットだけ出ている。高野はすでに結婚していたが、チャップリンは彼の子どもたちの名付け親になっている。
1932(昭和7)年5月、チャップリン、義兄シドニーとともに世界一周の旅に随行、日本に立ち寄ったとき、広島に里帰りしている。チャップリンは日本に着いた翌日、「五・一五事件」(犬養毅首相が官邸で青年将校らに襲撃され、病院で死去した事件)に遭遇している。
その後、チャップリンは「モダン・タイムス」で共演したポーレット・ゴダードと結婚(3人目の妻)するのだが、高野はポーレットのわがままに手を焼き、そのことがもとで秘書をやめてしまう。(チャップリンはポーレットとの新婚旅行で日本を再訪している)。
高野はロサンゼルスのリトル・トーキョーで、チャップリンの映画を日本に配給する仕事をしていたが、うまくいかなかった。
日米関係が悪化していた1941(昭和16)年6月17日、FBIにより、スパイ容疑で逮捕されてしまう。そのときは釈放されたが、日米開戦後、再び逮捕され、モンタナ州の収容所で取り調べを受ける。太平洋戦争が終わったあとも収容所生活が続き、1948(昭和23)年8月25日になって、やっと解放された。すでに63歳になっていた。
高野は、市民権を剥奪されていた日系人の市民権回復運動にとりくみ、72歳になってから生まれ故郷の広島へもどる。
チャップリンは1961(昭和36)年に来日するが、2人は再会することはなかった。このとき高野は76歳になっていた。当時の模様を、高野が86歳で亡くなるまでの10年間をともに暮らした東嶋トシエさんが、リポーター(兼高野役)の俳優、中村獅童さんに切々と語っていた。
高野は遺言通り、カリフォルニアの墓地に眠っている。
高野のことは、チャップリンの自伝を読んで知ってはいたが、うかつにも戦時中ばかりか戦後数年間も、収容所で暮らしていたとは知らなかった。番組を見ていて、いろいろと考えさせられた。
なお、映画評論家の故・淀川長治さんは、ロサンゼルスと広島で高野と会っている。
ついでながら、拙著『チャップリン謀殺計画』(原書房)は、チャップリンの来日にまつわるミステリー小説である。小説にも高野が登場している。