2018/1/2
○松田十刻(まつだ・じゅっこく)
プロフィール 昭和30年(1955)盛岡市生まれ。映画館勤務、新聞記者、団体職員、「地方公論」編集人、フリーランス(編集・コピーライター)などを経て創作活動を続ける。日本推理作家協会会員。ペンネームの名付け親は、作家の島田荘司氏。
※著作物については、著作一覧を参照
・昭和30年(1955)2月19日、盛岡市に生まれる。本名は高橋文彦。
・昭和45年(1970)3月、盛岡市立繋中学校卒業。4月、岩手県立盛岡第四高等学校入学。
・昭和46年7月30日、全日空機雫石事故で墜落する旅客機を目撃、衝撃を受ける。
・昭和48年(1973)3月、盛岡四高卒業。新聞奨学生制度を利用し、東京の予備校に通う。
・昭和49年(1974)4月、立教大学文学部キリスト教学科入学。
・昭和53年(1978)3月、立教大学卒業。社会(と宗教)の教員免状を取得。家庭の事情で実家に帰る。盛岡市内の映画館で映写技師の助手として映写機を回す。10月、盛岡タイムスに記者として入社。
・昭和56年(1981)11月、盛岡タイムス退社。都南村商工会職員。
・昭和57年6月、都南村商工会退職。岩手日日新聞社盛岡支社(本社・一関市)入社。県政、県警記者クラブに所属。5年後の憲法記念日に朝日新聞阪神支局で凶弾に倒れる小尻知博記者も在籍(享年29)。短い記者生活だったが、ハードかつ濃密な日々を過ごす。
・昭和59年(1984)2月、岩手日日新聞社を退社。3月、地方公論社で再刊「地方公論」37号から40号までを編集。印刷の手伝いなどで連日深夜帰宅。
・昭和60年(1985)3月、地方公論社を退社。フリーランスとして独立。
※これ以降、タウン誌「フェザン」、産経新聞盛岡支局レポーター、就職情報誌、市町村要覧、各種パンフレット、記念誌などの取材、編集に追われる。バブル期と重なったせいか仕事が多く、連日、徹夜状態でフル稼働。
・平成2年(1990)35歳。5月、本町通りの仕事場を解約し、大沢川原のマンションを仕事場とし、自宅から通う。8月1日産経新聞岩手版に「岩手宰相物語」の原敬連載開始。これ以降、斎藤實(実)、米内光政、東条英機と5年間連載。
・平成4年(1992)37歳。11月、『颯爽と清廉に 原敬』上下巻が発刊される。
※このころから講演の依頼あり。下手だが、1年に数回の割合で引き受ける。
・平成5年38歳。4月30日、盛岡市・一ノ蔵邸で「クローズアップ岩手」NHK盛岡放送局収録。5月1日午後7時30分放送(再放送は5月2日、6月2日)。
・平成9年(1997)42歳。第2回新潮ミステリー倶楽部賞最終候補作(5編)に「チャップリン謀殺指令」。
※これ以降、松田十刻として著作活動。いろいろあるが、省略。
・平成22年(2010)55歳。11月末。両親の在宅介護のため、20年間仕事場として借りていたマンションを引き払う。それ以降、外泊なし。行動範囲の狭い生活を送る。
・平成23年(2011)56歳。3月11日、東日本大震災。しばらく思考停止状態が続く。
・平成30年(2018)63歳。
渡航先 旧ソ連邦: ハバロフスク、ウズベキスタン共和国のタシケント、ブハラ、サマルカンド、モスクワ、サンクト・ペテルブルク(当時はレニングラード)。ギリシャ、エジプト、フィリピン(7回)、イスラエル(ほぼ全域を周遊)・パレスチナ自治区、イギリス(ロンドン)、中国(大連、旅順)、韓国(ソウル)、タイ(バンコク、アユタヤ)、サイパン、テニアン。
池袋駅西口前のビルでビル管理(朝は1階・銀行フロアの清掃、毎週日曜日は9階建てのビル全体の清掃)しながら、大学へ通う
昭和61年(1986)1月11日、ホテル東日本。高橋克彦さんと
昭和62年12月9日、前沢町にて。三好京三さんと
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