高校生のとき、初めて買ったLPレコードは、サイモン&ガーファンクルだった。くりかえし聴いては、曲に自分勝手な詩をつくって歌ったりしていた。ポール・サイモンのギター・テクニックに触発され、試しに友達から借りたギターにトライしたものの、ミュージシャンとしての才能はまったくないことを悟って断念。ひたすらレコードを聴くだけのファンとなった。
サイモン&ガーファンクルは1960年代に矢継ぎ早にヒット曲を飛ばし、1970年に活動を休止したあともたびたび再結成し、全米・世界ツァーを行っている。来日公演は3度。デュオとは別に、ポール・サイモン(Paul Simon)、アート・ガーファンクル(Art Garfunkel)個々に来日公演もしている。
ガーファンクルは11月17日まで、全国6都市(7公演)で3年ぶりのジャパン・ツアーの最中。この間、8日には盛岡市都南文化会館(キャラホール)でコンサートが催された。
当初、この公演を知ったときには、にわかには信じられなかった。名前が似ただけのそっくりさんではないの、などと疑ってかかったほどである。本物だ、とわかったときには、胸が騒いだ。憧れの歌手が盛岡にやってくる。
ガーファンクルは今月5日に76歳になった。来日公演はこれからもあるかもしれないが、盛岡では最初で最後のコンサートであろう。このような千載一遇の機会を逃す手はない。7月のチケット発売早々にネットで座席を確保。運よく3列15番の席だった。それでも、公演当日まで、体調不良などで中止になったりはしないだろうか、などと心配していた。
開場は午後6時30分、開演は午後7時。午後6時到着をめざして家をでた。盛岡西バイパスを経てキャラホールへ向かったが、近づくにつれ道路の渋滞がひどくなり、午後6時過ぎに着いたときには、すでに第一駐車場は満杯、かろうじて第二駐車場に滑りこむように駐車したが、すぐにそこも一杯になった。キャラホールに入るのは初めてである。大ホールの客席数は固定席1042席、車いす席4席、親子席10席の計1056席というが、ほぼ満杯だった。
開演時間を15分ほど過ぎて、男性のギター奏者とピアノ奏者に続いて、黒っぽいシャツとパンツ(ズボン)姿のアート・ガーファンクルが登場。会場は拍手と歓声に包まれる。ありがたいことに、ステージでの顔の表情まではっきりわかる。「ボクサー」「スカボロー・フェア」などおなじみの曲を歌い終わるたびに、歓声と拍手に応えるように「ありがとう」と日本語で言った。高椅子にちょこんと腰をかけて歌うスタイルだが、曲によっては立ちあがって歌いあげたり、ステージの端から端まで歩きながら歌ったりと、老いを感じさせない。
詩の朗読もあった。休憩を挟み、尊敬するジェームス・テイラーたちの曲を交え、自分自身の子供時代の体験、ポール・サイモンや曲にまつわるエピソードなどのトークを織り込みながら、「サウンド・オブ・サイレンス」「キャシーの歌」などの代表曲を次々と披露。2時間近くのコンサートの締めくくりは「明日に架ける橋」。大歓声と拍手に応えて短いアンコール曲を歌いあげ、手を振ってステージをあとにした。
ガーファンクルは2010年から2年間ほど声帯麻痺を患っている。さすがに往年のような声量とはいかないが、76歳とは思われないほど伸びやかな歌声で円熟したパフォーマンスをくりひろげてくれた。
過去のツアーの映像を見ると、どこかクールな印象さえ受けるが、当夜は終始気さくで、好々爺(こうこうや)という言葉さえ連想した。一曲一曲を自分自身が一番楽しんで歌っている。そのように映った。優しさが会場を包みこんでいた。このように温かく、人間味を感じさせる老い方ができたらどんなにかいいだろう、とそのようなことを思った。
ところで、ガーファンクルはルーマニア系ユダヤ人。うまく聞き取れたかどうかわからないが、5歳のときに啓示のようなものを受けた体験を語ってくれた。シナゴーグ(ユダヤ教の会堂)で聖歌隊の一人としてガーファンクルが歌うと、祈りのために集まった人たちがみんな涙を流した。ガーファンクルの声は「天使の声」と呼ばれるが、彼自身が神から授かった声であることを意識し、人のために歌うことを誓ったという。
国内外問わず70代以上で活躍しているミュージシャンは少なくない。今年4月、来日ツアーを行ったポール・マッカートニーも75歳。去年9月、盛岡で弾き語りライブをした「フォークの神様」こと岡林信康も71歳。芸能界では吉永小百合やタモリなど70代のタレントは珍しくない。80代でも黒柳徹子、加山雄三、北島三郎など目白押し。生き方は異なっても、彼らの前向きなパフォーマンスは世代を超えて訴えるものがある。