私が就職で実家を離れる数年前に、
食い扶持が1人減る余裕からなのか、
母が自分が欲しい犬を飼い始めた。
ベドリントンテリアの仔犬を知人から買い付けてきた。
仔犬の時は真っ黒だったけど、
成犬になるにつれ、
グレーへと毛色が変化してました。
クルックルの巻き毛。
インスタントラーメンを思い出す毛並みでした。
名前はキャンディ。
妹が『キャンディキャンディ』が好きだったので、
そう名付けたそうです。
(うろ覚えですが)キャンディが2歳の時、
母はキャンディを交配に出しました。

(無料ではなかったと思いますが)1匹だけ残し、
他の仔犬は貰われて行きました。
その、時に残った仔犬はアニーと名付けられてました。
キャンディは大人しかったのですが、
アニーはヤンチャで、
私の部屋のゴミ箱を漁るのが好きでした。
何度「ダメ!」と言っても止めなかったので、
ある夜私はゴミ箱に重たい本を数冊重ね寝ました。
翌朝異臭で目覚めると、
私の枕元にアニーがウンコをしてました。
細やかな仕返しをされたので、
私は部屋からゴミ箱を撤去する事にしました。
この後、私は実家を離れました。
ある年のGWか盆か正月だったか覚えてませんが、
2度目の交配から帰って来てから、
様子がおかしくなったキャンディを見ました。
交配の際に子種ではなく、菌をつけられてしまった様で、その菌は既に全身に回り、私が見たその日は、
その夜が峠だと一目で判りました。
その夜、母の腕の中で大きく息を吐いたと思ったら、そのまま逝ってしまったそうです。
その翌年に私は転職を機に実家に戻りました。
テツとアニーしか居ない実家。
私もたった数年家を出ただけなのに、
既に自分の部屋って感じも薄れ、
不思議な居心地の悪さを感じていました。
既に妹も弟も実家を離れてたのも関係していたのかも知れません。
1995年
阪神淡路大震災に遭いました。
幸い家も友人も知人も大きな被害には遭いませんでした。
1996年春
当時勤めていた保障のない有限会社を辞め、建設業の株式会社へ転職し、その勢いで結婚しました。
震災復興で多忙にはなりましたが…。
同年冬
父方の祖母が他界しました。
祖母の時は不思議と涙は出ませんでした。
祖母は父を溺愛してました。
それ故母とは馬が合わず、
共に暮らし始めてからは衝突ばかりしてました。
当時母は何度も妹だけを連れ、
家を出ようとしてたのを今も覚えています。
母の我慢が限界にきた頃、
私の枕元に亡き祖父が現れ、
「2年以内に連れて行くから、もう少し辛抱してくれへんかぁ」と言いにきました。
それを母に伝え母は踏み止まりました。
落ち着きたい家が嫁姑問題で落ち着けなかった思春期。
それ故祖母の時は涙が出なかったのだと思います。
祖母が亡くなった2年後の1998年
私は丁度空家になっていた実家の隣に引っ越しました。
その年の春
キャンディの娘のアニーが2度目のお産をしました。
仔犬の内1匹は舌が奇形していました。
自力でお乳を吸えず、日々弱っていってました。
私は可能な限りその子にお乳を与える為に、
時間が空けばその子を家に連れ帰り、
ペット用の哺乳瓶やスポイトで仔犬用ミルクをあげました。
でも、その子を助ける事は出来ませんでした。
両手の中で納まる程の小さな命。
その仔犬の事も関係したのか、
産後の肥立ちが悪かったのか、
アニーも仔犬の後を追う様に急に逝ってしまいました。
仔犬が亡くなってから、アニーはその仔犬を捜し回ってたそうです。
母を連れ、動物霊園へ行き、
アニーと一緒にその仔犬も焼いて戴きました。
残った仔犬を人工授乳で育て、
離乳した頃に内1匹が貰われて行きました。
実家に残ったのが
アニー(2代目)とボスでした。

ベドリントンテリアの歴史はそこそこあるようですが、
人為交配な気がした私は、
母に「もうお産させない方がいい。」
そう言いました。
♂♀の兄弟を残したので、
近親交配も懸念して、
母は避妊・去勢手術に踏み切りました。
話はもう少し続きます。

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