1998年12月のある日、新宿末広亭の楽屋で働いているとき、「お前ベース持ってるんだってな。今度新しくハワイアンバンドやることになったからちょっと手伝ってくれよ」と声をかけられた。
聴いたことのないハワイアン2曲の譜面を渡され、年末の芸協納めの会で発表した。
ごく薄い焼酎の水割りをぐびぐびやるのが好きだった。
イカの一夜干しは必ず注文した。
ポテトサラダ、ハムカツ、ウインナーなど、昭和のお子様メニューが大好きで、赤いタコさんウインナーがあると大喜びしていた。
喫煙していた頃は「おい、タバコ買ってきてくれ。お前の分もな」と言って必ず千円渡してくれた。
前座のころお宅に泊めていただいたことがある。
朝食はスクランブルエッグにハムだったかソーセージだったか、それにサラダとパンがついていて、家庭で食べたことのなかったメニューに感激した。
寝巻きで借りたTシャツをそのままいただいてきて、その後ずいぶん着させてもらった。
まだあるかもしれない。
二ツ目の頃、神楽坂のボロアパートに泊まってもらったことがある。
一人暮らしをしたことのない師匠は面白がってデジカメでバシャバシャ写真を撮り、家に帰ってからテレビに接続して家族で鑑賞、皆で大笑いしたそうだ。
実にいろいろな方を紹介していただいた。
自分の客はあまり紹介しない業界なのだが、必ず「こいつ勉強会やってるから行ってやって」と言ってくれた。
さくら水産ができたときは大喜びだった。
森山良子がカレッジフォークでアイドルだった頃、高校生のブルーグラスバンドで参加していたそうだ。
担当楽器はもちろんバンジョー。
とにかく楽器が大好きで、触ったことのないスチールギターもとても熱心に練習してあっという間に弾けるようになっていた。
前座の頃、お祭りのカラオケ大会の司会の仕事をいただいた。
はじめての司会で、様々なアドバイスを頂いた。
その後ずいぶんと役に立っている。
前座時代から二人きりでもよく飲みに連れていっていただいた。
芸の話はもちろん、まったく知らなかったカントリーやブルーグラスの話などもよく聞かせていただいた。
音楽の話をする師匠はとても楽しそうだった。
二ツ目になってからのある日、アロハマンダラーズの練習中に「鯉之助はまだまだ下っ端だけど、音楽は詳しいからこいつの話は聞いてやったください」と言ってくれた。
あの一言でどれだけ助かったか知れない。
数あるムチャぶりの中でも、にゅうおいらんずのベース(芸協の余興)、ドラム(浅草演芸ホール)の代演は最たるもの。
どちらも前座時代で、とても大変だったが、今ではいい思い出だ。
池袋演芸場の真打昇進披露では十日間口上の司会を勤めていただいた。
毎日楽しい司会で客席を沸かせてくれた。
去年の4月に胃がんが発覚し、5月に胃を全摘。
病後、猛暑の中、浅草のにゅうおいらんず、新宿のアロハマンダラーズの興行計二十日間を勤め上げたときにはほっとした。
十月上席後半、浅草演芸ホールでトリを勤める。
この芝居では、休憩後の"くいつき"という重要なポジションに出させていただいた。
五日間の興行中、師匠の芝居らしく、毎日大勢のお客様が楽屋見舞いにいらした。
楽屋で俺の顔を見ると「おい、酒あるから飲めよ」と。
もちろん毎日美味しくいただきました。
「ババァん家」、もう一度聴きてえなぁ。 合掌

(2001年頃)

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