2014/10/19

Songcatcher とアパラチアの古謡  Non-genre

前回の記事でも少し触れていたアメリカ映画『Songcatcher -歌追い人-』(2000年)について書いておこうかな。

というのも、この映画がアメリカのアパラチア音楽とかトラッド・ミュージックに関心のある人にとっては、なかなか興味深い歴史を題材にしている物語だからなのだ。

この映画の主題としてポイントとなっているのが、アイルランドの古いバラッド歌『バーバラ・アレン』である。そうそう『バーバラ・アレン』は、前回のリビアン・ライブで よしだよしこさんが、星直樹(RINKA)さんのギターを伴奏に加え歌った歌だ。この日の共演を踏まえ、急きょプログラムに加えたそうなのだが、多分その経緯においても、この映画の題材となっているアパラチア地方山間部に暮らすアイリッシュ・アメリカンの人々の音楽に思いが込められていたからだと思うのだ。

今回は、この映画の内容を追って話を進めてみようと思う。だから、まだみてない方、これからDVDなどで見てみようと思う方は、この先はネタバレになる事をご了承の上で読んで欲しい。

クリックすると元のサイズで表示します

物語の舞台は20世紀初頭。音楽学者であるリリーは、東部の大学の教室で、イングランドからアメリカに伝わった古いバラッドを学生たちに教えていた。ピアノに向かい教えていたのは『バーバラ・アレン』だった。その伝統歌は『チャイルド・バラッド』などとなり、楽譜として残されているのだ。彼女は、この歌のようなバラッドの伝統性は大切に守られるべき価値を持っていると信じていた。

そんなリリーは、仕事には誠意を持って打ち込み、学内では誰にも負けない学識を身につけていると自負していた。そして次の主任教授のポストは、当然自分がなるのものと考えていた。そのために彼女は努力を惜しまずに生きて来たのだ。しかし、女性であるという理由だけで認めてもらえない当時の社会があった。その時代のアメリカ社会には女性の参政権すらなかったのだ。結局は、そのポストは外部から来た学者に与えられてしまい彼女の思いは儚く消えてしまった。

現実を見損ない絶望を感じたリリーは、心を癒すため旅に出る。ノースカロライナ州のアパラチア地方の山間の村で暮らす妹のことを訪ねることにしたのだ。そこはスコッツ・アイリッシュの人々が入殖する村で、妹のエレノアはそこで入植地学校の教師をしていたのだ。しかしその妹には、アメリカ社会の価値観、敬虔なプロテスタントの社会では決して許されない秘密があった。教会の強い支配のまだ及ばないこの村で、人目を忍びながら、ひっそりと愛する女性との生活を築いていたのだった。

そこで暮らす人々の生活は都会の文明からは大きく取り残された貧しいものだった。そして物事の考え方、宗教感にしたってまるで違う、全てが今までリリーが暮らしてきた都会の常識とかけ離れている生活だったのだ。。彼女は、そうした村の住人を野蛮と決めつけ偏見を抱いていた。自分自身が、男性社会からの偏見に絶望したにも違わず、下層階級の人々の現実や偏見に対しては目を向けてなかったし、当然同性愛について理解などできなかったのだ。

しかし、その村で日々を過ごすに連れ、彼女は人々の精神性の豊かさを見つめ、自身の生きる目的を見つけて行くのだった。村の少女ディレイディスがリリーのために歌った歌は衝撃的だった(実際にこの役を演じたエミィ・ロッサムの歌が素晴らしく良い)。彼女が大学の教室で教えていた『バーバラ・アレン』と同じ歌が村の歴史の中で歌い継がれ生きていたのだ。それこそ、これが原形と呼べる霊感の宿った歌だった。この人々の暮らしの中では、古くからの伝統のままに歌や音楽が数多く残されている。彼女の仕事が新たに始まり、この歌をフィールドワークによる録音として残すために力を尽くすようになっていった。録音機材を取り寄せ、運び込むにはとっても不可能と思われる険しい山道を進み録音を重ねていった。コンパクトなテープレコーダーなどまだない時代だ。エジソンの巨大なラッパのついた蝋管録音の蓄音機が、その機材だった。

だが困難はそれだけではなかった。村の人々は、歌を歌わせ録音する彼女の行為を警戒し、なかなか協力しようとはしてくれなかったのだ。それには貧しくも古い伝統を守りながら暮らしてきたこの村にも外からの侵蝕が始まっていたからで、強い警戒心があったからなのだった。炭鉱開発のため土地に安い値段をつけ奪い取ろうとする者が現れ、村の生活を支える数少ない収入源にかけられた高い税金と、それを押さえようとする徴収人がやってくる。そのことがアパラチア地方の伝統としての月の暗い闇に隠れたムーンシャイン(密造酒)作りの文化を生んで行った。アルコールに対する敵視は敬虔なプロテスタントの思想のもとで強力になっていった時代だ。さらに大覚醒の宗教行動主義は、貧しく暮らすことに疲れた人の心を揺さぶり、敬けんなプロテスタントの教派へと改宗を促してくる。改宗した者もいる。そうした人は、行きすぎた宗教心から伝統歌を歌うことや、踊りを踊ることを忘れていったのだ。だから都会から来たリリーは招かざる客の一人だったのである。

しかし、純真に音楽を愛する姿がお互いの誤解を取り除いて行くのだった。リリーは村の一人の男と恋に落ちる。はじめは、彼もリリーに心開かず自分の事を一切喋ろうとしなかった。夜になると森をかき分け闇の中に消えて行く不信な男でもある。しかし、その森に迷ったリリーを助けた時、互いに惹かれあっていた事に気付いたのであった。彼は得意な音楽で身を立てようと一度は都会で暮らしたことがあった。だが、その夢も遠い昔に破れ、村に舞い戻ったムーンシャイナー(密造酒の製造者)だったのだ。

この映画のラストシーンで、セシル・シャープらしき人物がリリーと入れ替わるようにしてフィールドワークのために山へ登って行く。リリーの蒐集した録音は、ある火災事件により灰となってしまっていた。そうして、恋人と、『バーバラ・アレン』をリリーに聴かせてくれた少女ディレイディスと共に、リリーは山を降りて行くのだった。アパラチアの心震わすマウンテン・ミュージックを都会の人に聴かせるために三人は新たな出発をするのだった。

この映画は、信仰復興の世情とファークロア・リバイバルのその背景にある思考との背中合わせの関係を一つのテーマとしていると僕は思っている(それと女性監督の作品ということに絡みフェミニズムからの視点が強く打ち出されているようにも思う。だからだと思うのだが、村の暮らしの密造酒造りだけは、決して肯定していないようであり、リリーの恋人トムは、あっさりその暮らしから逃れ、リリーと暮らす都会での暮らしに新たな夢を抱くのだった)のだが、しかし、それと同時に、勿論であるのだが、アパラチアンの伝統音楽の魅力を改めて気づかせてくれるものであった。純粋に音楽の良さを楽しめたし、サウンドトラックにしても、優れたコンセプトアルバムとして聴く事のできる素晴らしい出来なのだ。

クリックすると元のサイズで表示します
Songcatcher Soundtrack (2000)


このリリーには、実在したモデルがいる。

マサチューセッツ生まれのオリーブ・ダム・キャンベルがその人だ。1908年にケンタッキー州の学校を訪れた時に、子供達の歌う民謡に触発されたことから彼女の民謡蒐集は始まった。キャンベルはフィールドワークによる民謡蒐集家としての先駆者であり、のちにイングランドの民俗学者セシル・シャープをアメリカに呼び寄せるなどして民謡蒐集に没頭した人だった。その成果は、セシル・シャープとの共著『南部アパラチアの英国古謡(English Folk Songs From The Southern Appalachians)』という著書として結実しているのである。




1

2013/10/21

地元へ帰ろう  Non-genre

次の日曜日はThe Liviang Acoustic Live!!の日。 RINKAライヴである。
と言う事で、アイリッシュ音楽のことを何か書こうと思うのだが、今日はRINKAサウンドとはまた違ったジャンルのアイルランド音楽について、どうしても書きたくなってしまった。

と言うのは、この前聴きに行った千歳でのRINKAのライヴでの際に、ゲストとして参加された中原直彦さん(ストーヴのリーダー)が歌った『ワイルド・ローヴァ―』や『ウィスキー・イン・ザ・ジャー』などのドリンキング・ソング〈中原さんはパブ・ソングと呼んでいた)について、疑問ガ湧いたからである。

こうした歌は、元々は無伴奏で歌われていたアイルランドのトラッド・ソングである。

僕もこうしたアイルランドの歌は好きで、『アイリッシュ・ドリンキング・ソングス』とタイトルの付けられたバラッドなどトラッド・ソングばかりを集めたコンピュレーション・アルバムCDも一枚持っているのだが、今でもアイルランド国内のパブなんかでは、それなりに歌われているのだろうと思っていた。ところが、星直樹(RINKA)さんに聞いたところ「ブライアン(この日もRINKAと一緒にライヴに出演したセッション仲間のアイルランド人、ブライアン・コノリーさんのこと)の話では、こうした歌を本国のパブで聴いた事がないと言っていた」と言うのだ。じゃあ、パブで歌われてないのであれば、どこで歌われているのか?と思ったのだ。

星さんは続けて「こうした歌と言うのは、ちょっと昔の一時期だけ、パブで流行したのではないか」とも言っていた。それで、そこが知りたいとなった訳である。

そうして、その事について、なかなか手掛かりを見つけられずにいたのだが、最近、小松崎操(RINKA)さんから以前お借りした事のあった本が頭に浮かんだ。その中に、たしかこの事も書かれていた筈と思い出したのだ。ヌーラ・オコーナー=著 茂木健・大島豊=訳『アイリッシュ・ソウルを求めて』(大栄出版)という本だ。

さっそく、ネットで調べて中古本を注文。直ぐに届いた。

それでやっと、なるほどと、
アイルランドの伝統音楽の再興には、とても重要な出来事であったことが分かった訳だ。

では、この本を基に解説してみよう。

1950年代後期の事だ、アメリカに移民したアイルランド系の人々のみならず、本国においても、人々のトラッド離れは進んでいた状況があった。

その同時代、アメリカやブリテン〈英国)では、小規模ながら非常に活発なフォーク・ミュージック運動が展開されていた。アメリカではピート・シーガーを中心としたザ・ウィーヴァーズやウディー・ガスリー、アラン・ローマックスに発見されたレッドベリーらが、ブリテンではイワン・マッコールが都市に住む聴衆にとって身近な題材を扱ったフォーク・ソングを歌っていた。

そうしたムーヴメントに登場したのが、ザ・クランシー・ブラザース&トミー・メイカムと言うアイリッシュのトラッド・ソングを歌うコーラス・グループであった。




クランシー兄弟はアイルランドに生まれたが、不景気に追い立てられるように1947年には、パットとトムの兄弟二人がカナダに移り住み、そこで音楽活動を開始する。芝居にも興味のあった二人は、その後、アメリカに移り本格的なプロの道を歩み始めた。1951年、彼らはニューヨークに着くとグリニッチ・ヴィレッジのチェリー・レーン・シアターで芝居を始めた。しかし、1953年になると彼らは困難に直面した。芝居の興行に失敗し、劇場の賃貸料すら払う事が出来なくなってしまったのだ。そこで、彼らは深夜のコンサートを上演することにした。劇場の賃貸料を払うお金を作るためであった。そこでアイルランドのトラッド・ソングを歌い、そのコンサートは大成功を収め、その後もコンサートは続けられていった。

そこに、弟ライアムも加わり、さらにクランシー兄弟の活動に感銘を受けたトミー・メイカム(アメリカ生まれのアイルランド人で、それまでは、ポピュラー歌手として活動していた)が加わり、グループとしての本格的な活動は開始されたのだ。

1956年、クランシー兄弟の長男パットは、フォーク専門のレコード会社を興し、自らのグループのアイリッシュ・アルバムを発売して行った。このレーベルは、後の60年代フォーク・リヴァイヴァルの下地を作った事でも知られているのだが、パットは、アメリカン・フォークにも理解を示し、新人歌手の発掘にも力を入れて行ったのである。

ザ・クランシー・ブラザース&トミー・メイカムは、彼らに言わせると、ただアイリッシュ・ソングを歌っていただけだった。

ところが、フォーク・ソングの人気は、彼らが思う以上に大きな高まりを見せていったのだ。

この年に発売した最初のアルバムは『アイルランドの反抗の歌(Irish Songs of Rebellion)』と題され、その中にはアイルランドでは、よく知られた歌が収められていた。そして、その作品の後、すぐにドリンキング・ソングを集めた次のアルバム『僕たちとともにグラスを満たそう(Come Fill Your Glass With Us)が続いた。

アメリカのフォーク・シンガーやファンが聴いた事のない厖大な歌のレパートリーを彼らは持っていた。しかもそれは本やレコードで知ったものではなく、口伝えの伝統のなかで覚えたものだったのだ。



その後、「エド・サリヴァン・ショー」への出演を契機に、じわじわと人気を得て、1962年に凱旋ツアーを行い、アイルランド初のスーパースターとなる。以降クランシーズのスタイルはアイルランドでひとつの規範をなり、模倣者を多く生みだしたのであった。

そのスタイルと言うのは、アメリカの聴衆向けに手を加えたものであり、ギターとバンジョーによる伴奏を着け、コーラスとして聴かせるスタイルであった。そこには、ザ・ウィーヴァーズから受けた影響がありピート・シーガーから受けた影響があったのだ。

トミー・メイケムはピート・シーガーの影響からアパラチアン・スタイルの5弦バンジョーをアイリッシュ・フォーク・ミュージックに導入したのだ。(そこにもまたアイルランドとアメリカを繋ぐ物語が存在するが、それは、また別の機会に書く事にしよう)

クランシーズを本国に紹介したのは、キローン・マクマフ―ナとう人だ。
1962年、彼はアイルランド国営ラヂオ放送局の取材で、アメリカの小さなアイリッシュ・コミュニティを訪ねていた。そこで受け継がれているアイルランドの伝統音楽を録音するためだった。

クランシーズは、そうしたコミュニティとの交流をほとんど持っていなかったから、そこで出会う事は無かったのだが、キローンは街で見かけたクランシーズのレコード数枚を本国に持ち帰った。そして彼は、ラヂオでそのレコードをかけ放送した。すると思いもよらぬ反響が押し寄せて来たのである。彼らの元気いっぱいの歌いっぷり、口笛、歓声、その活況の凄さにアイルランドの聴衆は魅了されていったのだ。
60年代にアイルランドで育った子供であれば、誰もが少なくとも1曲はクランシー・ブラザースの歌を知っているのだそうだ。



そうして、キローンによってザ・クランシー・ブラザース&トミー・メイカムは本国に招かれる。

最初のアイルランド・ツアー、それ以降の各ツアーもすべてに完売し、行く先々でスーパースターとして迎えられたのである。

クランシー・スタイルは、あまねくコピーされた。アイルランドではバラッド・グループが続々登場し、自家製の模造クランシーを聴かせる”シンギング・パブ”として知られる現象が起こったのである。

しかし、そうした現象は長く続くことはなかった。結局こうしたグループやパブは、安っぽい物真似としか評価されず、次第にこうした演奏の機会は減って行ったのだった。そうして、アイルランド国内の伝統音楽における状況は次の段階へと向かって行ったのだ。

クランシーズに対する評価と言うのは、現在においては賛否両論で語られているようである。

「アイリッシュ・フォーク・ミュージックをぶち壊した」として語られる事もあれば、
「新世界アメリカで彼らが手に入れたエネルギーがアイルランドにはね返って来て、アイルランドの人々をも生き返らせてしまった」と語られる事もあるようだ。

どちらにしても、
クランシーズのアイルランド伝統音楽に対する将来への影響は、極めて重要な出来事であったと言えるだろう。



「いつだって、こう質問されるんだ。『あんたたちはアイリッシュ・フォーク・ミュージックをぶち壊しているのか?』。わたしたちが歌に対してやったことは、何世紀にもわたってやられて来たこと、つまり自分に合うように歌に手を加える事だ。農家や畑で歌を覚えたフォーク・シンガーたちは、自分に合うようにその歌を変えたのさ。わたしたちは、誰に対しても責めを負っていなかったし、実際わたしたちは大好きな事をやって生計をたてていただけなんだ。わたしたちに釈明する必要なんて全くなかったし、誰かに釈明することはこれからも絶対にないだろう」

『アイリッシュ・ソウルを求めて』の中の、彼らに触れた章の、最後の文面に書かれていたパット・クランシーの言葉が、全てを物語っているように僕には思えるのだ。






0

2013/9/22

魅惑のスタンダード・ナンバー  Non-genre

さーて、今晩はいよいよライブの日だ。
山本敏嗣トリオの演奏でジャズを楽しみます。

今回はスタンダードの曲を中心にプログラムされるようでとても楽しみである。

ところで、このスタンダードって、いつの頃の楽曲なのだろうか?とか、そもそもどうやって作られたの?「なんだっぺ」って疑問を持たれた事のある方が、いるんじゃないかと思うのだがどうだろう。ジャズファンの方であれば、そんなの常識的な事と言うのだろうけど。

まあ、今日はそんな事についての、音楽の歴史にまつわる話を久しぶりに書いてみようと思う。

さて、このジャズの演奏でよく聴くスタンダード・ナンバー、定番というのは、どのような音楽として誕生したものなのか?である。
それは1920年代〜40年代ごろに作られたアメリカン・ポピュラー・ソングが元になっているケースが多いようだ。その元々は、19世紀の終わり頃の大衆娯楽芸能の隆盛との深い結び付きから生まれている。

19世紀の終わり頃アメリカでは、ミンストレル・ショウやヴォードヴィル・ショウ、オペレッタやバーレスクなどの芸能が、ヨーロッパの諸芸能の要素に独自の要素を絡みあわせ、そこから個性の強い芸能へと育っていた。そんななか、特にニューヨークでは都市市民階級の増大とともに大衆娯楽芸能の隆盛をみるのだが、マンハッタン南部の下町の歓楽街バワリーなんかが、その中心地であった。そこには下層向けの如何わしい演芸がひしめき合っていたのだ。

アメリカン・ミュージカルの元祖とされるトニー・パスターは、1875年にそのバワリー街から抜け出し、ブロードウェイに新たな劇場を開いた。そこでオペラやオペレッタの様式を活用しながら、新たな大衆芸術を追い求めたのだ。パスターは一貫して上流、中産階級の健全な市民が、家族連れで楽しめるショウを考え、それが見事に成功を収めたのだった。それが、ブロードウェイ・ミュージカルの始めだとされているようだ。ただし、それはアメリカン・ミュージカルの真の完成ではなかった。つまりその時点ではアメリカ独自の国民文化としての個性には、まだ達してはいなかったのだ。

アメリカン・ミュージカルを真に完成させた作品はと言うと、それはジェローム・カーンの『ショウボート』であると言われている。人種問題など社会の現実を作品のテーマに盛り込み、黒人をはじめ移民の増大する異文化のぶつかり合う混沌とした社会の現実を問題として突きつける事で独自の芸術性を生みだしたのである。それは、この作品の中で使われた音楽にも顕著に表れている事であった。

そして、19世紀の終わり頃〜20世紀初頭にかけ、そのアメリカン・ミュージカルとともに成立したのが、アメリカン・ポピュラー・ソングなのである。そうしたショウの為に独自の楽曲が作られていったのだ。さらに言うと、そのポピュラー・ソングの源流は楽譜出版業と深く結びついていた。アメリカにおける音楽ビシネスはと言えば、19世紀の終わりごろにシートミュージック(楽譜)と云う商品を通じて市民権を得ていた商売であったのだ。その生産と販売は一貫した仕組みの中で発展を遂げるのだが、それは一般にティン・パン・アレーと呼ばれた。ニューヨークの西28番ストリートのブロードウェイから5番アベニューにかけての界隈の通称で、この狭く短い通りに出版社や作曲家たちの事務所が固まって居たから、それが地名というよりも出版業界そのものを指すようになり、音楽ビジネスの同義語として使われるようになって行ったのだ。

「アメリカ音楽の父」と呼ばれるスティーブン・フォスターを思い浮かべてほしい。彼の『おおスザンナ』『草競馬』『ケンタッキーの我が家』などの数々の作品は、今でも牧歌的なアメリカの昔を思い浮かばせる曲としてアメリカ国民に愛されているようだ。
それら彼の作品はシートミュージックとして売られ、そして多くの人々に歌い継がれて来た。それは、ポピュラーソングの先駆けであった。しかも彼はクリスティ・ミンストレルズというミンストレル一座のために多くの楽曲も提供している。これは、ミンストレルからミュージカルへと受け継がれて行くアメリカ伝統の舞台芸能とポピュラー・ソングの深い関係を示しているのである。

ミュージカルの時代になると、例えばジェローム・カーンにしても『ショウボート』というミュージカルを作るだけではなく、独立したポピュラー・ソングを多く書いた。それらがレコードとしてヒットして行った。(そんな中には、ミュージカルでは成功しなかったが、挿入歌として歌われたものが独立しヒットした場合もあった)

ジョージ・ガーシュイン、アーヴィング・バーリン、コール・ポーター、リチャード・ロジャースといった優れた作曲家たちが同時代を生き、同じくスタンダードとして世に知られる事となる優れた楽曲を数多く作り出したのである。彼らの多くは新興移民の家庭に育ったが、それぞれの民俗文化や風習といったものを乗り越え、異文化のぶつかり合う混沌の中での急速な社会変化を遂げるアメリカの真の文化としての音楽をを作り上げて行ったのだ。そうした事があり、ポピュラー・ソングとミュージカルが兄弟のような関係を持ちアメリカの音楽のメインストリームを支えて来たのだった。

そうした時代、1920年代というのは、ジャズ・エイジとも呼ばれる時代で、アメリカが豊かさを謳歌していた時代であり、狂騒の時代であり、また禁酒法の時代であった。

この時代にポピュラー・ミュージックは、ジャズの影響を強く受けていった。それまでのポピュラー音楽はというと、確かにフォスターの音楽により黒人音楽の感覚を取り込んでいたのだが、その主流は西洋の先進国のポピュラー音楽と同様に、多くの点でクラシックに準拠した美意識のもと作られていたのだった。しかし、もうこの時代になると、そんなクラシックの美意識だけでは、大衆を満足させる事が出来なくなって行ったのだ。

今年見た映画の中でも特に印象に残ったものは『華麗なるギャツビー』なのだが、この作品は、1920年代のこの時代のアメリカ文学を代表するF・スコット・フィッツジェラルドの小説を基に映画化したもので、1970年代に一度映画化され、それをさらにリメイクしたものであるが、この映画は、この時代の狂乱ぶりを見事に再現していた。

グリニッジ・ヴィレッジの闇酒場(スピークイージー) でジャズのリズムに乱舞する人々。

主人公が登場する場面で、その時代を象徴するガーシュインの『ラプソディ・イン・ブルー』が、その虚像に満ちた一人の男の姿を華やに演出する。





スタンダード・ナンバーには、この時代を生きた人々の夢の跡が記されているのだ。

0

2013/5/14

カレリアのうた  Non-genre

先日のラウマ・ライヴの後、今更ながらフィンランドの伝統音楽に対する興味が膨らんでいる。

それには二カ月程のこと、フィンランド音楽の今を良く知り、カンテレの演奏家でもある河野千恵さんから紹介頂いた、Kardemimmit(カルデミンミット)というコーラスとカンテレ・アンサンブルの組み合わせを音楽性とする、フィンランドの女性グループの録音にとても新鮮な驚きを感じたことがあったのだ。

クリックすると元のサイズで表示します

その音楽性はナチュラルでシンプル。フィンランド伝統音楽への回帰なのか、土着の神話世界とキリスト教的教会音楽との結びつきを感じさせる美しく透明感のある古式スタイルの音楽だった。その伝統へと向かう所の純真さ、そこからさらに新たなファンタジーを生み出そうとする健気さに、心を打たれた思いがしたのだ。

現代に息づくフィンランドの伝統音楽の実態とは如何なるものなのか。そしてその伝統はどのように守られて来たものなのか、大きな興味がわいたのだった。

それからラウマのライヴがあり、カンテレの神秘的な響きを感じながら想像が膨らんでいた。そしてこの日、聴衆のお一人として参加頂いた河野さんに久しぶりにお会いできたのだが、その時にフィンランドの伝統音楽について書かれた記事と、カルデミンミットのメンバーが参加しているという別のアルバムも更に紹介して頂いたのだ。

記事は、雑誌「ラティーナ」(2012年12月号)に掲載されたという松山晋也氏の文章で『カレリアのうた』となっていた。文章はフィンランドのクフモという小都市で行われた伝統音楽祭の取材から始まっていたが、読み進めて行くと、そこにはフィンランドの伝統音楽の今と歴史的背景、さらに日本に伝えられたフィンランド伝統音楽の現況についても解説されていたのだった。

この文章で僕が特に注目したのは、フィンランドの伝統音楽を知る上で、カレリア地方の伝統文化が特に重要とし焦点が当てられていたことだった。そのカレリアの文化とは民俗叙事詩「カレワラ」と深く結びついた民俗的な要素であり、この文章の中では、それはフィンランド文化の源泉であり源郷であると言い切られていたのだ。

このカレリアの地は、今、西半分がフィンランド領、東半分がロシア統治下のカレリア共和国の領土となっている。それはフィンランドがスウェーデンとロシアという二つの大国に挟まれ翻弄され続けた過酷な過去の歴史を物語っているのだ。だから冒頭の伝統音楽祭の最大の趣旨とは、この東西に引き裂かれたカレリアの地の共通の伝統文化の再発見と復興、そして継承にあるということなのだ。

こうした状況があり民族意識は高められている。そして、そこからカルデミンミットのメンバーのように、トライバルへと向かう20代そこそこの若い人たちが出現しているようだ。

その記事と合わせて紹介頂いたErkki ja tytöt (エルッキと女の子たち)名義のCDからも強いインスピレーションを感じた。河野さんからは今回2枚のCDを紹介頂いたのだが、しかし、その印象は少し違うものだった。
 
クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

詳しくは分からないがエルッキ氏は伝統音楽の継承を行う長老的な地元の演奏家のようだ。そして女の子たちとは子弟関係なのかな?良くは分からない。
今まで、これほど素朴で商業的とは無縁と思われる録音を真剣に聴いた記憶が僕には無い。この2枚のアルバムが、どの時代に立ち返ろうとしているのは定かでないが、カルデミンミットの作品よりさらに古式にのっとり作られているようだ。

僕は勘違いをしていたのだが、この古式の音楽は北欧神話の怪物とか終末思想のような神々の黄昏の世界感とはまったくの無縁だ。フィンランドに北欧神話は根付いていなかったのだ。ここで歌われている歌にも自然崇拝的な神々や精霊の世界と結びつくような穏健な雰囲気が感じられる。しかし、それは土着の信仰や文化と結び付いているものだ。韻を踏み歌われ、叙事詩的世界の不思議を感じさせる歌とカンテレの響き。それこそ民俗叙事詩「カレワラ」と結び付くのだろう。そして吟遊詩人の時代の音楽とも。

しかし、それだけで説明がつく音楽とは思えなかった。



全く単純に作られている歌の数々は、どうもコラールのようなキリスト教会の教会音楽の雰囲気と結び付くのだった。調べてみるとフィンランドで最も多いのがキリスト教ルター派。つまりルーテル教会のことだが、これは、ある時代から強い影響力を持つようになったルター派の教会音楽との密接な関係に違いないのだ。

ルターは、布教においてカトリック教会以上に音楽を重視したと言われている。それまでのカトリック教会では専門の聖歌隊による歌が礼拝で歌われたのだそうだが、ルター派の礼拝では一般会衆にも歌を歌わせたようだ。このため一般の会衆が誰でも歌えるような単純な歌を礼拝で歌うようにした。俗謡として歌われていた歌も歌詞が変えられ賛美歌に組み入られて行ったのだ。ルター自身もいろいろなコラールを作詞作曲したという。そして、バロックの時代にルター派の教会音楽から芸術音楽を生みだしのは、音楽の父、大バッハだった。



だからErkki ja tytötの曲集からは、バロック音楽が息づいた時代の頃のリアルな民衆の音楽が、そこにあると僕には思えてくるのだった。フィンランドの民衆のリアルの生活の場では、教会音楽は土着の信仰と混在した中でゆっくりゆっくりと浸透していったのかもしれない。私的な集まりの場で、冠婚葬祭で、子どもたちの遊びの場で、酒の席で、みんなが口ずさめる歌があったわけだ。そして、パイプオルガンの余韻が教会を包み込むように、家庭の居間には、きらめく余韻を残しながらカンテレの響きが人々の心を慰めたのだろうと....

クリックすると元のサイズで表示します

エルッキ氏と女子たちの歌と演奏に、ぼくはカレリアのいにしえの時代の人々の生活を思うのだった。
1

2012/7/22

旅人の唄  Non-genre

五十一さんの歌には、旅の歌が多い。

その歌には、旅の中で立ち止まり人生を考え、出会いを通して生きている事の実感を噛みしめて来た旅人だからこその心に迫る情感がある。

そんな歌の原点。五十一さんが歌う旅人の歌のルーツは、アメリカにあるのだ。

19世紀後半、大陸横断鉄道が完成するとアメリカでは西部開拓が進み、鉄道建設ラッシュがはじまった。20世紀の前半には、鉄道は全米に張り巡らされ、人々の往来がより自由になった。そうすると鉄道を利用して、北から南へ、東から西へと働きながら全米各地を渡り歩く労働者が増えていったのだ。

彼らのことを人々はホーボーと呼んだ。彼らは、いろんな方法で汽車に乗り込み、無賃乗車を決め込んだのだ。

Tim Buckley - Morning Glory



The Band - Hobo Jungle



ホーボーは、働く意欲のある放浪者。働く希薄が薄く、常に夢を追い求めて旅する者はトランプと呼ばれ、働く気などまったく無く、常に酒に溺れる日々を送る者は、バムと呼ばれた。バムはホーボー仲間からも軽蔑される存在だった。放浪者にもいろいろ居たのだ。

ホーボーたちは、アメリカのフロンティア・スピリットと自由を体現しながら暮らす者達だったのだ。だからと言って平坦な暮らしでは無かったのだが、彼らの生き方は憧れと共感をもって歌われるようになって行ったのだ。

そのホーボーとなって、いつしか人々に知られるようになったのがウディ・ガスリーだ。

Woody Guthrie - I Ain't Got No Home



ウディ・ガスリーは1912年にオクラホマの裕福な家庭に生まれた。しかし、大不況時代という背景のなかで、たび重なる不幸がガスリー家を襲い家庭は崩壊してしまう。彼は、故郷を捨て12歳で放浪の旅に出ることを決意するのだ。

放浪者となったウディ・ガスリーは、様々な職に就きながらも歌を歌った。ハーモニカとギターを持ち、路上で大好きなヒルビリーやトラッド・ソングのヒット曲を歌い、稼いだ金が生活の糧となったのだ。そうして何時しか、ウディ・ガスリーはオリジナル・ソングを書き始めるようになった。

1960年代、フォーク・リヴァイヴァルが全米を席巻すると、その生き様とともに彼の斬新な歌の世界は注目を集めた。ピート・シーガー、ランブリング・ジャック・エリオット、ボブ・ディラン、純真無垢な男の人生の歌から大きな影響を受けたミュージシャンが後を絶たなかったのだ。

そうしてウディ・ガスリーに心酔したその彼らもまた、後のミュージシャンのヒーローとなっていった。

五十一さんは、その一人に間違いない。
そして国境を越え真の旅人となった五十一さんは、独自の世界を旅して来たのだった。





0

2011/5/23

トス・ザ・フェザース  Non-genre

今年のThe Liviang Acoustic Live!!は、いよいよ次の日曜日、リンカのステージで幕が切って落とされます。

アイルランドの伝統音楽の魂を伝え、そこから独自の音楽性を生み出しているリンカの心引かれる世界を楽しみましょう。

そこで一つ、僕がつい最近までアイルランドの伝統音楽について抱いていた疑問について、書きたいと思います。

それは、民間伝承の音楽がリンカの音楽のように舞台の上で演奏されるようになったのは、いつ頃からなのか、という疑問です。

例えば、民間伝承の伝統的なダンス音楽というのは、実際のフォーク・ダンスとしてのダンスの楽しさを伝えることで長く受け継がれてきたと思うのですが、アイルランドの伝統的なダンス音楽では、その音楽性(芸術性)を楽しむことを目的に演奏される場合が多くあるように思えます。そして、その楽曲の多さに驚きをおぼえるのです。

その疑問に最初に答えてくれたのは、ショーン・オ・リアダ "Seán Ó Riada (1931-1971)" の存在でした。

1958年頃までアイルランドでは、伝統音楽が録音されたりコンサート・ホールや劇場で演奏されることは無かったようです。ショーン・オ・リアダはそうした状況の中で、イリアン・パイプスやフィドル、ホイッスルのようなアイルランドでは古くから演奏されていた楽器とハープシーコードやアコーディオンを組み合わせたオーケストラを結成し舞台の上で演奏しました。彼は、アイルランドの伝統音楽の芸術性に目を向け、そこから伝統音楽の復興を目指したのです。そして、そのオーケストラのメンバーの中からは、パディ・モローニーのリーダー・シップのもとザ・チーフテンズが生まれるのです。

しかし、それが全ての始まりだろうか?疑問は晴れませんでした。

1920年代以降のアメリカ(合衆国)では、マイケル・コールマンやフラナガン・ブラザース、ジェームズ・モリソンはじめ多くの楽師たちによるアイリッシュ音楽の録音がされました。録音がされるからには、レコード会社が注目するだけの実力とネーム・バリューが伴って居たに違いありません。こうした演奏家たちは、民間のダンスの場でも演奏したのでしょう。しかし、ダンスの伴奏者としてだけで、彼らは注目を得ることが出来たでしょうか?

その疑問に答えを与えてくれたのが、フランシス・オニール "Francis O’Neill (1848-1936) " やマイケル・コールマンといった伝説として語られる人たちの存在でした。

フランシス・オニールは、
O'Neill's Dance Music Of Ireland
で1001曲にも及ぶアイルランドの伝統的なダンス音楽を編纂し
O'Neill's Music of Ireland (1903)
では、1850曲にも及ぶアイルランドの伝統的曲の編纂を行った人です。

彼の収集があったからこそ、アイリッシュ音楽の伝統曲の多くが守られたのだと僕には思えます。

フランシス・オニールの人生は波乱万丈です。彼はアイルランドのコーク州で生まれ家族と共に司祭としての生活を送っていましたが、いつしか彼の心には変化がおこり関心は七つの海をわたる冒険へと向いました。船乗りとなった彼はアイルランドを後にするのです。そして世界一周を目指した彼の乗った船は太平洋を渡りサンフランシスコに漂着します。彼は救出され、そこからニューオーリンズとミズーリを経由してシカゴにたどり着きます。彼がシカゴを目指したのは五大湖を巡航する鉱石船の船員として働くためでしたが、運命が介入し彼はシカゴ警察の警視になってしまいます。
アイルランドの伝統音楽を愛し地域の実力者となった彼のもとでは、アイルランド音楽クラブと呼ばれる組織がつくられ、そこにはアイルランド出身の楽師が多く集まったようです。(因みに彼はキャプテンと呼ばれることを好んだ)
彼は、その旅のなかでアイルランドの伝統曲を収集し続けるとともに、彼のもとに集まった楽師たちの生の演奏を譜面に残したのです。その多くを収集したのは、楽師たちがヴォードヴィル・ショウなどの舞台に立ち演奏していた場だったと言うのです。

ミンストレル・ショウの時代から舞台の主役を務めたのは、アイリッシュ・アメリカンでした。アイルランドからの移民が爆発的に増大し、そしてその彼らが、アメリカ国家の繁栄に大きなエネルギーをもたらす時代がやって来ると、今度はその彼らの魂である伝統音楽を舞台の上に求める声が急速に高まったのでしょう。マイケル・コールマンにしてもヴォードヴィル・ショウの優れたパフォーマンスで圧倒的な人気を得たと思われるのです。

そうした伝統も加わり、アイリッシュ・ミュージックの継承は行なわれてきた、と僕は感じています。


The Corrs - Toss The Feathers




The Corrs & The Chieftains - Toss The Feathers


Watch Toss The Feathers - The Corrs & The Chieftains in Music  |  View More Free Videos Online at Veoh.com


『Toss The Feathers(トス・ザ・フェザース)』は、キャプテン・オニールが収集したダンス・チューンの中の一曲です。

アイリッシュの伝統音楽の復興に大きな軌跡を残すザ・チーフテンズが、この曲を取り上げています。そして、そこから更にザ・コアーズが1995年のデビュー・アルバム「FORGIVEN,NOT FORGOTTEN(邦題:遥かなる想い)」の中に収録し、アイリッシュ・ミュージックの伝統にとらわれることのない多くの人たちに知られるようになりました。キャプテン・オニールが、この曲を収集したのは、ステージの上の演奏からだったかは知ることができません。しかし、ザ・コアーズがこの曲をステージ上で爆発させる時、この曲にまつわる歴史のロマンに心が高鳴るのです。









2

2011/5/19

ジミー・モヒール・スター  Non-genre

アイルランドの伝統歌は、古くから無伴奏で歌い継がれてきました。

そのシャン・ノースと呼ばれる古いスタイルの歌には、どこか霊的な力が交わるような秘めやかな情感があります。そこから、ある時には故郷への思いを胸に人生の喜びが歌われ、あるときには慈しみ深く愛する人への思いが歌われた。そしてある時には、生きることに苦しみを与えるものへの憤りや悲しみが語られ、歌われてきたようです。

そうした伝統をもとに歌われてきたアイルランドの歌の中からは、古い記憶の大切な感情を呼び覚ましてくれる不思議な力を感じることがあります。

そうした歌の一つが『ジミー・モヒール・スター(Jimmy Mo Mhile Stór)』です。


Chieftains w/ Rankin Family - Jimmy Mo Mhile Stor




Dolores Keane - Jimmy Mo Mhile Stór




Kathleen Macinnes - Jimmy Mo Mhíle Stór




『ジミー・モヒール・スター』は、アイルランド中西部のゴールウェイ地方に伝わる歌のようです。
この地方に生まれ育った人、そしてこの故郷を後にした多くの人々が、この歌を母親の腕の中で聞いたのでしょうか?


子を思う一人の親、愛する人を思う一人の女性のいつくしみ深い愛情を、メロディに託くし伝えようとしているようで、痛く心に響きます。




2



teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ