2006/9/28
GT合同テスト
ようやく午後ドライコンディションのテストが出来ました。
53号車にも乗る予定でしたが、時間切れでしたね。

今日は誕生日のプレゼントとてもうれしかったです
ありがとうございました
53号車にも乗る予定でしたが、時間切れでしたね。

今日は誕生日のプレゼントとてもうれしかったです
ありがとうございました
2006/9/27
比較テスト
今回ルマン24で使用した車両を500クラスとして比較テストをしています。初日は生憎の天気でしたね。
KOJI YAMANISHI〓〓〓〓
KOJI YAMANISHI〓〓〓〓

2006/9/25
ナノテクノロジー
皆に何それ?と聞かれましたが、
この鈴鹿1000kmレースで使用したシール、
実はナノテクノロジーを利用して造られたものなのです
人に紹介されたので、少しでもレースを楽な状況にする為に
予選で使ってみたんですが、体感して少し体が軽くなった感じがしましたね。
決勝では、流石に汗を2〜3リットルもかくので解らなかったのですが。

明日からSuperGT合同テストですね。
明日午後から2日間参加しますよ
この鈴鹿1000kmレースで使用したシール、
実はナノテクノロジーを利用して造られたものなのです
人に紹介されたので、少しでもレースを楽な状況にする為に
予選で使ってみたんですが、体感して少し体が軽くなった感じがしましたね。
決勝では、流石に汗を2〜3リットルもかくので解らなかったのですが。

明日からSuperGT合同テストですね。
明日午後から2日間参加しますよ
2006/9/22
大好きな季節
日本特有の蒸し暑さから開放されて、
ようやく過ごしやすい季節になりましたね
秋。僕はこの季節が大好きです。
昔から金木犀の香りを嗅ぐと少し切なくてセンチな気持ちになる。
今僕に何の秋かと問われれば、食欲よりも営業の秋、というところでしょうか。
レースは、応援者やスポンサーが居ないと決して成り立たない。
デビューしたての頃は、何も考えなくても
周りがチャンスを与えてくれていたけれど、
出たいレースの為の活動を自分自身でする立場になりましたよね!!スポンサー募集中です
ようやく過ごしやすい季節になりましたね
秋。僕はこの季節が大好きです。
昔から金木犀の香りを嗅ぐと少し切なくてセンチな気持ちになる。
今僕に何の秋かと問われれば、食欲よりも営業の秋、というところでしょうか。
レースは、応援者やスポンサーが居ないと決して成り立たない。
デビューしたての頃は、何も考えなくても
周りがチャンスを与えてくれていたけれど、
出たいレースの為の活動を自分自身でする立場になりましたよね!!スポンサー募集中です
2006/9/15
SuperGT 茂木 レポート
9月10日(日)SUPER GT 第7戦「もてぎGT300kmレース」の決勝が開催されました。
金曜日の練習走行から今年の初めからずっとあったギヤ比の問題が、
茂木のコースレイアウト上大きく影響してタイムが伸びない状況でした。
また、原因不明の油温の高さやデータ上ストレートスピード不足に不安がありました。
予選は開始直後から前日より大きくタイムを上げる事に成功しましたが、
作戦的にはもう一歩の11番手と悔しい結果に終わりました。
決勝は、スタート直後2〜3台をオーバーテイクして順調だったのですが、
3コーナー途中前車のスピンを避ける形で自らコースアウトし、
せっかくパスした車にも先行されてしまいました・・
ドライバーは後に謝罪しに来たが、これはレース中の不運なので仕方が無かったと思う。
しかし、その後のペースは相対的に悪くなくて順調に6番手まで順位を上げることができました。
その後、車が軽くストレートも速いフォードが来たので前を譲りましたが混戦のレース展開の中で再度抜き返す事になりました。
再度フォードに迫られた際に残念なことに1コーナーで接触。
はじき出される格好で数秒をロスしてしまいました。
それ以前に、今回はスタートして直ぐクールスーツトラブルで、
とにかく大変な状況でのレースでした。
ルーティーンでピットインした頃には手に力が入らないほど。
和田選手に交代してからも、同じくクールスーツトラブルで、
タイヤ4本交換したのですがペースが落ちてしまって、
なんとか13位で完走はしたものの、自力で車を降りることが出来ず、そのまま医務室に運ばれる程にまで衰弱していた。
さまざまなトラブルや厳しい条件でレースを戦い、
完走できた事は今の僕達にとってとても意味のある事でしたが、
同時に課題がはっきりしたレースだったと思います。
プライベーターの僕らに、直ぐに解決出来る物でもないですが、
パスした車が上位入賞を果たしていただけに表彰台も狙えたレースだったし、
ラスト2戦優勝目指して力を合わせたいと思います。
応援よろしくお願いします!!














金曜日の練習走行から今年の初めからずっとあったギヤ比の問題が、
茂木のコースレイアウト上大きく影響してタイムが伸びない状況でした。
また、原因不明の油温の高さやデータ上ストレートスピード不足に不安がありました。
予選は開始直後から前日より大きくタイムを上げる事に成功しましたが、
作戦的にはもう一歩の11番手と悔しい結果に終わりました。
決勝は、スタート直後2〜3台をオーバーテイクして順調だったのですが、
3コーナー途中前車のスピンを避ける形で自らコースアウトし、
せっかくパスした車にも先行されてしまいました・・
ドライバーは後に謝罪しに来たが、これはレース中の不運なので仕方が無かったと思う。
しかし、その後のペースは相対的に悪くなくて順調に6番手まで順位を上げることができました。
その後、車が軽くストレートも速いフォードが来たので前を譲りましたが混戦のレース展開の中で再度抜き返す事になりました。
再度フォードに迫られた際に残念なことに1コーナーで接触。
はじき出される格好で数秒をロスしてしまいました。
それ以前に、今回はスタートして直ぐクールスーツトラブルで、
とにかく大変な状況でのレースでした。
ルーティーンでピットインした頃には手に力が入らないほど。
和田選手に交代してからも、同じくクールスーツトラブルで、
タイヤ4本交換したのですがペースが落ちてしまって、
なんとか13位で完走はしたものの、自力で車を降りることが出来ず、そのまま医務室に運ばれる程にまで衰弱していた。
さまざまなトラブルや厳しい条件でレースを戦い、
完走できた事は今の僕達にとってとても意味のある事でしたが、
同時に課題がはっきりしたレースだったと思います。
プライベーターの僕らに、直ぐに解決出来る物でもないですが、
パスした車が上位入賞を果たしていただけに表彰台も狙えたレースだったし、
ラスト2戦優勝目指して力を合わせたいと思います。
応援よろしくお願いします!!















2006/9/11
決勝 レース
サーキットで観戦された方お疲れ様でした。
レースはペースよく走り6位まで順位を上げたのですが、
結局13位で完走でした。
それ以前に、まず今日のレースはクールスーツトラブルで
暑くて意識が朦朧としてとにかく大変でしたね・・
レースはペースよく走り6位まで順位を上げたのですが、
結局13位で完走でした。
それ以前に、まず今日のレースはクールスーツトラブルで
暑くて意識が朦朧としてとにかく大変でしたね・・
2006/9/9
予選 レース
今日は色々アンラッキーな要素が重なりましたね。
しかし明日は良いレースにできるようベストを尽くします。
応援宜しくです
しかし明日は良いレースにできるようベストを尽くします。
応援宜しくです
2006/9/7
今から レース
今週末のGTの為ツインリンク茂木へ向かいます
2006/9/5
スクール スクール
SRS-Fの鈴鹿サーキットから帰りました
写真は無いのですが2日間充実した内容でしたよ
写真は無いのですが2日間充実した内容でしたよ
2006/9/4
パーティー
昨日は栄光時計さんの60周年記念パーティーに参加しました!!




2006/9/2
恩師 野田克さん
今日は僕の育ってきたカート時代の事を書きます。
今まで隠してきたわけではないけれど、
僕はある方に育てられた。
カート界の重鎮であるその方と初めて出逢ったのは、1991年の夏に実家から宝塚にある両親の経営する店へ行く裏道の山道沿いにオープンしてからまだ半年くらいの宝塚カートフィールドでした。
当時まだ真新しい感じのするカート場でしたがそれを設計したのがその方でした。
カート場の社長に紹介されて、初めてお逢いした時には油で汚れたジーパンとTシャツ姿だったのですが、なぜだかすでに特別な方だと解っていた。
まだカート場も少なくレースをJAFが統括していなかった
1960年代にカートを知り、日本にその面白さを伝える役割をされた・・。
当時の事はここに少し書かれています。
http://www.geminikart.net/
1976年の全日本カートチャンピオンでもあり
その昔まだ少年だった鈴木利男さんと、激しくトップ争いをしていたらしい・・それはホイール爆発のトラブルにより怪我をした弟の代わりに出場したレースシーズンでした。
アイルトンセナが、当時18歳で、ダ・シルバと呼ばれていた頃には、
DAPカートドライバーとしてジャパンカートグランプリ出場の為日本に来た時、
当時案内役(通訳)をした。
僕が出会った時は現役を引退されて、世界選手権の審査委員長もされていた。
レーサー山西康司の育ての親。ジェミニカート代表の野田克さんはそんな方でした。
僕がカートを熱心に始めたのを見て的確なアドバイスをしてくれた、僕にとってまさに心から神様という存在でした。
その影響で、最初はあかんと反対していた父も次第に手伝ってくれる様になった。
GEMINIKARTは今あるカートショップの中では最も古い1972年に出来たショップで、弟の野田優さんも、今でもカートピスタ広島というカート場とスコールカートというショップを経営しています。優さんは僕と一緒に全日本や世界選手権にも出場していた大ベテランのトップカーターでもありましたね。
ジェミニ出身のドライバーはとにかく多くて数え上げるときりがありませんが、
僕が初めてF3で優勝した時に表彰台で僕の左腕を支えてくれていた水野昇太選手は当時ジェミニの従業員でしたし、フォーミュラニッポンにも出場した高橋毅選手もジェミニ出身ですし、その昔FJに出場した大脇照夫選手もそうですね。

因みにランボルギーニでチームメイトの桧井選手は最初にスコールカートの優さんに薦められてキャリアをスタートしたらしいし、鈴鹿1000kmで87号車第3ドライバーを担当した余郷選手はその昔ジェミニでカートをしていた事があるらしい。
最近では、ユーロF3に参戦中の小林可夢偉選手もGEMINI出身です。
レース関係者では、元童夢の佐々木正氏は子供の頃からジェミニに居て、
1994年、僕はその縁で16歳の時ヨーロッパカート選手権へ遠征した際イモラサーキットからほど近い佐々木氏の自宅に住んでいたのですが、アイルトンセナの事故はそこでライブで観てた。
又、出身ではないけれどチームNOVAの清原監督もその昔関西でGEMINIのメンバーと一緒に走っていたらしいし、
レースアナウンサーピエール北川氏も関西のカート出身ですね。
F1解説者の今宮純氏も、その昔ジェミニでカートをやっていたらしい。
僕が始めた当時のジェミニでは、同じ野田、という性で、親子と間違えられていた、大先輩である
いつも四輪にステップアップされてイギリスF3で優勝した野田英樹さんのレースのビデオばかりが放映されていて、
僕の憧れのスーパースターでしたね。僕が今までの人生で1度だけサインを貰った事がありますが、それが英樹さんでした。
1994年のF1日本グランプリには、ジェミニの野田さんと英樹さんのお母様と僕の3人で、鈴鹿サーキットに応援しに行ったな。
1994年にアルゼンチンで開催された世界選手権では、野田克さんがメカニックをしてくださって日本人初表彰台に登った。

1994 世界選手権 アルゼンチン(コルドバ)
今年でカートを始めて以来15年以上が経ちます。
とにかく、僕はレースをさせてくれた両親と、恩師の野田さんと、
色んな方々のおかげで今がある。
今後も今の僕を育ててくれた方々に恥じないレースをしていきたいと思います。
今まで隠してきたわけではないけれど、
僕はある方に育てられた。
カート界の重鎮であるその方と初めて出逢ったのは、1991年の夏に実家から宝塚にある両親の経営する店へ行く裏道の山道沿いにオープンしてからまだ半年くらいの宝塚カートフィールドでした。
当時まだ真新しい感じのするカート場でしたがそれを設計したのがその方でした。
カート場の社長に紹介されて、初めてお逢いした時には油で汚れたジーパンとTシャツ姿だったのですが、なぜだかすでに特別な方だと解っていた。
まだカート場も少なくレースをJAFが統括していなかった
1960年代にカートを知り、日本にその面白さを伝える役割をされた・・。
当時の事はここに少し書かれています。
http://www.geminikart.net/
1976年の全日本カートチャンピオンでもあり
その昔まだ少年だった鈴木利男さんと、激しくトップ争いをしていたらしい・・それはホイール爆発のトラブルにより怪我をした弟の代わりに出場したレースシーズンでした。
アイルトンセナが、当時18歳で、ダ・シルバと呼ばれていた頃には、
DAPカートドライバーとしてジャパンカートグランプリ出場の為日本に来た時、
当時案内役(通訳)をした。
僕が出会った時は現役を引退されて、世界選手権の審査委員長もされていた。
レーサー山西康司の育ての親。ジェミニカート代表の野田克さんはそんな方でした。
僕がカートを熱心に始めたのを見て的確なアドバイスをしてくれた、僕にとってまさに心から神様という存在でした。
その影響で、最初はあかんと反対していた父も次第に手伝ってくれる様になった。
GEMINIKARTは今あるカートショップの中では最も古い1972年に出来たショップで、弟の野田優さんも、今でもカートピスタ広島というカート場とスコールカートというショップを経営しています。優さんは僕と一緒に全日本や世界選手権にも出場していた大ベテランのトップカーターでもありましたね。
ジェミニ出身のドライバーはとにかく多くて数え上げるときりがありませんが、
僕が初めてF3で優勝した時に表彰台で僕の左腕を支えてくれていた水野昇太選手は当時ジェミニの従業員でしたし、フォーミュラニッポンにも出場した高橋毅選手もジェミニ出身ですし、その昔FJに出場した大脇照夫選手もそうですね。

因みにランボルギーニでチームメイトの桧井選手は最初にスコールカートの優さんに薦められてキャリアをスタートしたらしいし、鈴鹿1000kmで87号車第3ドライバーを担当した余郷選手はその昔ジェミニでカートをしていた事があるらしい。
最近では、ユーロF3に参戦中の小林可夢偉選手もGEMINI出身です。
レース関係者では、元童夢の佐々木正氏は子供の頃からジェミニに居て、
1994年、僕はその縁で16歳の時ヨーロッパカート選手権へ遠征した際イモラサーキットからほど近い佐々木氏の自宅に住んでいたのですが、アイルトンセナの事故はそこでライブで観てた。
又、出身ではないけれどチームNOVAの清原監督もその昔関西でGEMINIのメンバーと一緒に走っていたらしいし、
レースアナウンサーピエール北川氏も関西のカート出身ですね。
F1解説者の今宮純氏も、その昔ジェミニでカートをやっていたらしい。
僕が始めた当時のジェミニでは、同じ野田、という性で、親子と間違えられていた、大先輩である
いつも四輪にステップアップされてイギリスF3で優勝した野田英樹さんのレースのビデオばかりが放映されていて、
僕の憧れのスーパースターでしたね。僕が今までの人生で1度だけサインを貰った事がありますが、それが英樹さんでした。
1994年のF1日本グランプリには、ジェミニの野田さんと英樹さんのお母様と僕の3人で、鈴鹿サーキットに応援しに行ったな。
1994年にアルゼンチンで開催された世界選手権では、野田克さんがメカニックをしてくださって日本人初表彰台に登った。

1994 世界選手権 アルゼンチン(コルドバ)
今年でカートを始めて以来15年以上が経ちます。
とにかく、僕はレースをさせてくれた両親と、恩師の野田さんと、
色んな方々のおかげで今がある。
今後も今の僕を育ててくれた方々に恥じないレースをしていきたいと思います。