先日、沖縄のある幼稚園の園長先生が訪ねてきてくださいました。
この方とお会いするのは3度目です。風采はコロンボ刑事のようで
・・もう少し自信がなさそうな・・そんな感じの方です。
数年前「キリスト教保育」という雑誌の巻頭言を
書いたことがありまして、
その先生はそれを見て会いに来てくださったのです。
当時その方は幼稚園に園長として
赴任されて2年目になったところでした。
その幼稚園を改革してほしいと乞われて5年の契約での赴任でした。
私の文章を読んでスタッフに「これだよ!私のやりたいことは!」
と見せたんです、と仰いました。もちろん沖縄からわざわざではなく、
お嬢さんが私たちの見学に行った「愛農高校」に
在学されているので訪問がてらなのです。
それにもちょっとしたご縁を感じたりしました。
園庭に森を造り、先生たちの意識改革をして、
うまく機能するまでにされたようでした。
遅くまで明日のための教材の準備をする先生たちに最初に言ったことは、
「子ども達にえさを与えるような保育をしてはならない。
子ども達と生活をすればいいんだよ。」ということだったと。
あぁ、私の為にこれを言いに来てくださったのだ・・と感じました。
この度は5年の任期を待たず、
4年で退職されたということと娘さんがもう卒業ということでした。
もうお会いできないかもしれません。
「石垣島で障害者の施設をやります」と仰っていました。
深々と頭を下げて別れの挨拶をしてくださる姿から何故か
「平和」や「子どもの人権」ということについては
一歩も辞さないというような確かな覚悟を感じ、深く心に残りました。
子ども達と生活をして、一年になろうとしています。
四日市から車で30分。
住んでいる人々の生活はそれほど変わらないはずです。
しかし、園庭がない、野山を子ども達と歩き続ける、
そんな保育スタイルをとっただけなのに、
これまで使っていた言葉では表現しきれない・・というか、
そんなものではない生活がここにはあって、
そこから紡ぎだす言葉が見つからない・・という
状態が最近まで続いていました。
そんな不甲斐ない私の歩みを励まし、
あきらめずに共に歩もうとしてくださっている皆様に、
心から感謝を申し上げます。
先日、久しぶりに子ども達と田んぼに行きました。
最近は普通にあの道を通っては田んぼまで行きません。
どこを通るかって?
猪みたいに道ではないごそごその中を通っていくのです。
あ、猪は自分の道をつけていますけれどね。
子ども達が自分で決めて歩いていきます。
「知らないところを歩いてみたい」と思うんですね。
そして知っている場所に出たときの愉快な感じを味わっているようです。
原野に戻ってしまった田んぼの畦を歩きました。
片側は田んぼだったところ、片側は溝、ほとんど笹に覆われています。
そこをうっかり歩くと溝に落っこちてしまいます。
落っこちた子がいました。
突然姿が見えなくなってしまって慌てましたが、大丈夫。
平気平気で出てきました。
私は「ねえ、自分の足だから、次の足はどこに置いたらいいか、
よく見て自分で考えて歩くんだよ」と思わず言っていました。
自分で言って気がつきました。このことは大切なことだと。
子ども達は、見るからにべたべたで沼地のような処でも足を
踏み入れようとしてしまいます。
石ころだらけの道を不用意に走れば転びます。
水たまりも深ければ長靴の中まで水が入ります。
そんなことをたくさん経験して、うまく歩き、
うまく転ぶことができるようになるといいと思います。
そのここと人生の道を責任を持って歩くことときっと関係があります。
自分の立つ場所を決めるのは足だからです。
田んぼに着くと「ジョウビタキ」がいました。
小鳥の声を聞くことにも敏くなりました。
「あ、鳥がいる」見つけることも早くなりました。
ジョウビタキは数メートルの間隔を狭めないように
少し先にとまってくれるので、子ども達が後を追いやすいのです。
鳥の後を追っていく子どもの後ろ姿、
崖も平気でずんずん登っていく姿、
笹の中を歩いていく姿、吹雪の中を大喜びで走っていく姿、
そんな姿を見てじーんとしてしまうほど、逞しくなりました。
3月の終わりごろには「山登り」をして一年を締めくくりたいと思っています。