鹿が罠にかかりました。
年長組みが最後のお泊り保育でニワトリの命を頂くということを2回しました。そのことに随分迷い、悩み、・・・しかし、結果は子ども達の心が真直ぐで、ありのままの姿をそのまんま厳粛に受け入れられるということが分かってからは、子ども達と動物の命をいただくということをそれほどの躊躇なく行うようになりました。ただ、ただ見せるということではなく、子ども達と準備をし、タイミングよく、子ども達の思いが深まっていくことを願いながら・・つまり啐啄同時でなければ意味がないのです。
普段から私達はスーパーでパックに入った肉を「美味しい」とか「高い」とか言いながら物として食べています。しかしそれが命だったということが目には留まっていません。
肉に限らず、「命」を感じられない食卓。このことがわたしたちの社会の「命の感覚」の薄さに繋がっています。生きることの隣には「死」があるということが分かりにくい社会です。
野菜やお米ならともかく、わざわざ動物を殺すということをようちえんでする必要があるのだろうか?そんな大きな問いが沸いてきます。
今年は私個人として、鹿や猪の命をいただくという出会いがありました。
やはり、魚やニワトリではなく大きな動物はその現場を見るだけで大変エネルギーが要ります。しかし、大きな足を一つ一つの肉に切り分けていったときに何か表現が出来ないのですが、丹田にエネルギーが落ちたという感じがしたのです。「肝がすわった」という言い方も出来ます。これは頭で考えることではなく、腹で捕らえるものでした。
昔、男たちが狩りに出て行き、獲物を持ち帰ったときに村で待ち構えていた女、子どもは大喜びで迎えたことでしょう。
今では神話の世界のような話です。
でも人として生きることの原点がそこにあると思います。
今回、鹿という大型の動物の命が目の前でなくなり、肉となっていく過程を子ども達は目にしました。子ども達には説明は必要ありません。腹で捕らえていきますから。「怖い」と泣いた子に担任は「人間って弱いな。こうして命を頂かないと生きて行けんのやから。ちゃんと看取ったろな」と言いました。泣き止んだその眼差しは真剣でした。何を魂に刻み込んだだろうか・・・おそらく遠い将来でなければ答えは出てこないでしょう。