2005/2/14

ABA実行者 さん へ 投稿者:在日地球人  投稿日: 1月 6日(木)01時54分4秒

 障害の程度がよくわからないので一般的なことしかいえないのですが。
 たとえば、これもドイツの例ですが、非行少年の更生教育方針を大幅に改編して、一切の強制的訓練をやめ、個室を与え、毎日動物たちと遊ばせ、落ち着いた頃にマンションを借り切ってその子のためにしばらく擬似家族を作って毎日仕事に送り出す。これで更生させるが、困ったとき悩みがあったときはいつでも施設に戻って来てよい。そのための個室も用意してある。以上の方針に転換した後は、日本と同じように強制的な訓練に明け暮れていたときには、7割を超えていた再犯率が、2割以下に落ちたそうです。
 にもかかわらず、強制的な訓練の方で初めて立ち直れる人も必ず何割かいるはずだと、私も思います。教育の難しさはこんなところにもあります。個々に応じられるゆとりと、現場の判断を支援する教育が理想ではないでしょうか。
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(・∀・) さん( 1月 3日投稿)へ 投稿者:在日地球人  投稿日: 1月 6日(木)01時31分47秒

「権力は嫌いだが、弁護士や大学教授、ユネスコや国際規約人権委員会等の権威は大好き。上から決められると反発している先生達が、…」
あなたは何事についても上から押さえつけられるのは嫌いという、民主主義の申し子のような人ではないかと、常々私は感じていますが(勝手な誤解かな?)、そろそろチャカスのはやめて、自分のスタンスをはっきりさせたほうがいいと思いますよ。正しくなければ、ユネスコもへったくりもないでしょう。そして自分の生が向かう方向がはっきりしていなければ、何が正しいなんて言えないでしょう。それは、実は知識の多さでさえありません。「ソロモンの財宝を尽くしても、野に咲く一りんの花の美しさにかなわない。」「金持ちが天国に入るのは、駱駝が針の穴をくぐるよりも難しい。」というイエスの言葉が正しいと信じた人々は、知識の多さゆえにそう思ったわけではないのですから。

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@@@ さん(12月31日(金)07時投稿)へ 投稿者:在日地球人  投稿日: 1月 5日(水)23時32分36秒

1、現憲法は、基本的人権を(多数決によっても侵せない)不可侵の永久の権利としつつも、(多数決によって成立する)政府が、これに反する行為や憲法・法令・詔勅を発令しうることを予想して、これらを「排除する」と明言しています。「思想および良心の自由」などの基本的人権に反する法律および命令には「不服従の義務」が、公務員には負わされていると解せます(第十章)。
2、そもそも天皇制を象徴する日の丸の掲揚・君が代斉唱をともなう入学式卒業式は、明治以来の天皇神格化教育の要請の下、国民臣民化の教育上最も重要な儀式として、ギリシャ正教の儀式を模範として厳粛厳格なものに創リ上げられていったという経緯があリます。登壇する度にいちいち旗に向かって礼をするという異様さは、「私はあなた様の忠実な臣民であリますよ」というまことに情けない反民主主義的な天皇崇拝の宗教的儀礼として発案され、良心・信仰の自由を圧迫しつつ一律に強制されてきたわけです。アジアを中心としてこの上ない悲惨な不幸をもたらした先の大戦において、天皇個人には戦争責任はなかったという世界には通用しそうもない意見もあるようですが、少なくともそれが、あらゆる批判を封じ専制的に国民に「隷従」を強いてきた「偏狭」な天皇制がもたらした惨禍であったことだけは、現憲法の前文からも明らかでしょう。
3、当然のことではあリますが、http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/11/09/990906i.htm (特に学校での取り扱いのところ)にもあリますように、いわゆる西欧の民主主義先進諸国の間では、このような厳粛な卒業式入学式も国歌国旗の取扱いぶリもあリません。民主主義を象徴する国旗国歌であってもです。現憲法は、政府が再び国家主義的な過ち、「戦争の惨禍」をもたらすような間違いを犯しうることを警告し、民主主義や基本的人権を抑圧することがないように、またそのような時代状況の再来も予想して、表現や信条の自由を保障し、その前文ではこのような「人類普遍の原理」に反する「一切の憲法、法令および詔勅を排除する。」といい、これに基づく教育基本法では、憲法に基づく自主的で民主的な文化の創造は、「あらゆる場所で実現されなければならない。」ともあリます。また、民主主義と自発性を育てる場である教育現場に、「強制」がなじまないのは、国際的な常識として「ILO・ユネスコ勧告」や「子供の権利条約」「アムネスティの表明」でも明らかであリ、さらに、学習指導要領の法的拘束力は限定的なものであリ、それやそれに基づく通達よリも、当然憲法や教育基本法は守るべきよリ上位の法であリます。(学習指導要領で法的拘束力があるのは、科目履修時数などであリ、あとは大綱的で指導助言的なものに過ぎません。)

参考資料
アムネスティ日本 <info@amnesty.or.jp>
<http://www.amnesty.or.jp/>

アムネスティ・インターナショナル日本
「君が代」斉唱の強制に強い懸念を表明
http://www.incl.ne.jp/ktrs/aijapan/2004/0406090.htm

4、教育公務員はその本来の職責において、民主主義が危機的であるという状況の中でこそ憲法第99条に基づき、国家主義的な過ちを犯しうる行政の不当な支配に屈することなく、現憲法およびそれよリ更に上位の法でもある「人類普遍の原理」たる基本的人権を、市民とともに「尊重し擁護」し、この憲法の民主主義と徹底した平和主義の実現と発展の方途を積極的にもとめて、最大限の叡知を絞リ「不断の努力」をはらうべきだと思いますが、いかがでしょうか。

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(・∀・) さん(12月31日投稿)へ 投稿者:在日地球人  投稿日: 1月 5日(水)23時11分4秒

 共産主義者でも社会主義者でもないので、弁護する必要はないのですが、彼らの過ちに対して確かについ甘くなってしまう理由についてだけは、反省を含め、少し補足させてください。
 餓死者が出るほどの貧富の差を背景にして贅沢三昧の暮らしをしていた王政を、多くの流血を伴う武力革命によって打ち倒すことで、人類史上初めて誕生したのがフランス革命による近代民主主義でした。ここに初めて、すべての人間の自由と平等が宣言され、政治的制度として確立されたのでした。以後ほとんどの革命が流血を伴いながら成立し、各地で民主主義が確立されていきますが、「近代民主主義とその展望」(福田歓一・岩波新書)によると、その一方の極がアメリカであり、自由を重視して経済的強者による平等性の軽視という問題を残し、一方の極がソ連で平等性を重視する全体主義的体制によって個人の自由を軽視するという問題を残した、と言われています。
 すべての人間の自由と平等の確立のために、「能力に応じて働き、必要に応じて受けとる」社会の実現を目指す共産主義は、民主主義の一つの極の姿なのです。歴史的経緯からいって、それは流血を伴う武力革命以外には実現できない、と言う考えを克服できなかった点が、やがて人命を軽視して暴走する多くの間違いを生んできたのだと思います。ハーバーマスが言っているようなことも、70年代前半までだったら、左翼小児病と一笑されて終わったでしょう。多量の情報のグローバルな共有と言うまったく新しい状況によって、彼の言の正当性に光が当てられはじめたわけですが、実は世界的には貧しい国々の餓死者の数も南北の経済格差も小さくなっているわけではなく、むしろ大きくなっています(「地球環境報告」 石 弘之)。
 多量の(馬鹿げた)情報の氾濫という新しい支配構造の中で、私たちの政治的良識が力を失えば、暴力以外にどうやって貧しい人々が飢えから解放されるのだ、という問題に応え非暴力で民主主義を広く実現するのは、より難しくなるでしょう。これが私たちの21世紀の課題なのです。
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妄想は,独り日記にでも書いてろ 投稿者:自由の敵は眠らない  投稿日: 1月 3日(月)15時18分8秒

「論理的にモノを考えられない」と自ら認めてる人や
 議論の土俵である刑法234条の「威力」の意味を解せない人が
 懲りずにゴネています

まず,先生の「着席をお願いします」は,父兄に対し希望を述べたものであり,人の意思を制圧する「どう喝」とは異なる

この時に生徒は不在だよ!

信頼関係に乗じて生徒を操ろうとした…みたいな幻想の上に,空論を展開しているが,下らんからやめとけ

また先生は,失敬な教頭が腕を掴んだから,「離せ」と言ったまでで,始まってもいない式に向けた「妨害の故意」などない!

分かったかのう?

2005/2/14

分かり易い! 投稿者:自由の敵は…  投稿日: 1月 2日(日)19時56分30秒

なまはげさんのは長文ながら,分かり易くて,すーっと理解できましたよ
 憲法は個人を尊重する「自由の基本法」です
 だから「公共の福祉」なんて言葉も,権力側の勝手な解釈を許してはいけません
 憲法が国の機関に権力を授けたのは,個人の尊重を全うするためです
 なんか変だぞ!?と感じたら,誰でも問題を指摘し,意見を述べ,是正を求めることができます
 その主張が正当てあっても,その個人が「社会の多数派」とは限らないので,多数決(民主主義)にも限界があります
 お上や与党は間違えない…こんな妄迷は,自由の放棄に繋がります



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12/31@@@殿2〜公共の福祉 投稿者:なまはげ  投稿日: 1月 2日(日)18時20分36秒

@「公共の福祉」が、「基本的人権」を全面的に制約するわけではない。
 もし、この言葉で基本的人権が全面的に制約されるなら、旧憲法の「臣民としての権利(法律の定むる所に従ひ)」と、どこが変わるというのか。
 新憲法の「国民の権利」が、法律上の制限なく「国政上最大限尊重される」(第13条)、「犯すことの出来ない永久の権利」(第11条)であることは、中学校の教科書にも載っている基本常識だ。基本的人権が、まず先にある。

Aただし逆に、「基本的人権」は、「何をやっても良い」自由ではない。
 以前「自由の理」投稿で触れた通り、いかに「不可侵」「永久の権利」といっても、「他人の権利を侵害する自由」(殺人、泥棒、無免許運転など)は認められない。では、権利と放縦はどこで線引きされるのか。それを簡潔に表現する言葉が「公共の福祉」なのである。

B「公共の福祉(public welfare)」は、なぜ必要か、その正しい使い方。
 ワイマール憲法(1919独)が嚆矢。一例「所有権は憲法により保障される。…その行使は同時に公共の福祉に役立つものであるべきである。」(153条)
 大事なのは、財産所有者(強者)の権利行使に制限を加えることで、大多数(弱者)の最低限の生存権を守ろうとする視点。産業革命時の経済的「弱肉強食」の反省から生まれた歴史を持つ。(「王様」の無制限な自由が、人民の奴隷化を生んでいた→王権を制限することで、人民の自由を保障する、と同じ論理。)
 自由権はおろか生存権すら侵されがちな社会的弱者(労働者、女性、子ども、老人、障害者、少数民族…)の最低限の権利を保障するために、生まれた概念である。従って、社会的強者(一番は国家・政府)が、弱者の権利制限に使おうとするのは大きな誤用。(パブリック=公衆とは「お上」ではない)

C「公共」が「お上」の意味で使われると、憲法以前の絶対主義国家。
 ワイマール憲法の「公共の福利」〈Åffentliche Wohlfahrt〉が、ナチス時代に私益に優先する「公益」〈Gemeinnutz〉の意味で、全体主義のシンボルに衣替えしてしまう。
 こうなると、「公」は、権力が個人のいっさいの生活領域に介入する旗じるしになってしまい、これでは、基本的人権の全否定だ。2つは似た表現だが、意味するところは180°逆であることに要注意。

D「公共の福祉」で、何が制約され、何は制約されないか。
 制約例。他人の名誉を毀損する言論を犯罪として処罰することは、行為者の言論の自由を制限することにはなるが、この制限は、他人の名誉権を保護するためにはやむを得ないことであり、「公共の福祉」の考え方により説明することができる。
 非制約例。そもそも他人の人権との衝突の可能性のない人権については、「公共の福祉」による制限の余地はないと考えられている。これは「精神の自由」一般が該当する。
 判例は、営業の自由等の経済的自由を規制する法令については、立法府の裁量を比較的広く認めるのに対し、精神的自由を規制する法令等の解釈については、厳格な基準を用いている。(学会では「二重基準説」と言うらしい)

※最後に、日本の法律には、「公共の福祉」の適用に明確な線引きがない(法律による定め)。このことが、日本も批准している「国際人権B規約」に抵触するという勧告が、国際規約人権委員会からなされ、日本政府は、我が憲法では明確な規定がないことを認めた上で、判例により正しく運用されている旨の回答をしていることを付け加えておこう。(1997)

結論:私たちのちっぽけな「思想良心の自由」を守ってくれるのが憲法なのである。憲法を守ることが、「お上」に逆らう形になっていることが今の日本の不幸だが、「お上」に逆らうことと「公共の福祉」に反することとは全く別であり、「お上」こそ国の最高法規をしっかり守るべきなのである。

第15条(公務員は全体の奉仕者)については、
「全体」とは、当然主権者である「国民全体」(public)のことであり、国家権力とか政府(authority)のことではない、というのは近代立憲国家なら常識であろう。かつ公務員たるもの「憲法尊重擁護義務」(第99条)の義務を課せられているのであるから、一党一派一個人の政策やイデオロギーに左右されることなく、憲法の定めに従って行動するのは、公務員として最も正しく正義にかなった態度なのだ。

編集済



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> 12/31@@@殿1〜お上に異を唱える権利 投稿者:なまはげ  投稿日: 1月 2日(日)18時19分26秒

正月三が日くらい、難しい議論は避けてのんびりしたいと思ったが、投稿規定によると私も管理者側(回答する側)に分類されるようなので、この土日を逃すと、来週の土日まで、登場の機会が認められていない。そんなわけで、取り急ぎ投稿させていただく。長文になるが、読んでいただければ、幸いである。

1,最初に、天皇発言に反応なさったが、
 天皇発言は、誰が言っても(身分、学歴、経済力等々)、「正しいことは正しい」の観点から引用させていただいただけだ。お気に召さなければ飛ばして読んでいただいても結構。論旨に変わりはない。
 ただ、もし、天皇発言に特別の重みを感じる天皇崇拝のお考えの方がおられたら、この発言に対し、どう身を処されるのか逆にお聞きしておきたい。天皇のご発言は全部正しいと受け止められるのか、それとも自分の判断の方を優先して時に天皇を無視することがあっても良いのかどうかを。

2,先に、結論部分から反論させていただく。
> そちらの主張は全て、学習指導要領や職務命令が明らかに違憲であってはじめて成立する。
 それは違う。「明らかに違憲」とはそんなに簡単なことか。100人が100人意見が一致する事例など存在するだろうか。司法判断の前に、「明らかに違憲」と断定できるなら、第32条(裁判を受ける権利)など不要になる。貴殿にも、私にも、素人には、「断定」できない。(もし貴殿が専門家だったら失敬)
 お上の決定だから「合憲」と推定して取り敢えず従っておこう、という態度がいかに危険か、一つの例をあげる。
 薬害エイズ問題は、国と製薬会社が責任を認めて和解(損害賠償)が成立した(刑事は進行中)。非加熱製剤が使われていた当時、多くの人は厚生省が認可する薬が「明白」に違法だとは認識していなかった。米国では既に危険が証明され使用禁止となっていたらしいが、国内では一部の少数者が使用中止を訴えていただけだった。その時点で、取り敢えず「明らかに違法だとは決められない以上それに従う」道を選んだ人たちは、悲惨にもエイズウィルスに感染し為す術なく命を縮める結果になってしまった。まさしく取り返しの付かない被害が生じてしまった。金銭の損害賠償で済む問題ではない。「お上」だって絶対ではない、間違えることもある。(間違った後の態度も問題だが)。所詮、不完全な人間がやってる仕事である。おかしいと思ったら、異を唱えても良いのだ。それは最初は、いつでも少数の声かもしれない。だが事の正否は数では決まらない。(特に科学では明解だ。「それでも地球は回っている」のガリレイは少数派だったが、教皇の権威とそれに阿る多数派が天動説をいくらエラソーに言い張っても、決して太陽の方が地球の周りを回ってくれることはないのだ。)
 思想や政治の問題は科学のように、100対0とはいかない。そこで、利害の調節を図るルールが作られて、それを民主主義という。ルールの中味が「法」であり、法の最高規定が「憲法」であり、万人がルールに従う約束が「法治主義」なのだ。

私たちは、文科相の学習指導要領運用や、都教委の通達・校長の職務命令が、憲法違反であることを、ルールに従って訴えている。「取り敢えずお上の命令は正しい」との無根拠の推定に従えと言うのは、思考能力を捨てて奴隷になれというに等しい。私たちは一茎の考える葦として、また一個の主体的な人格として、憲法に保障された「意見表明の自由」「思想良心の自由」を主張していく。

3,憲法を守ることについて
 貴殿に、私たちが憲法遵法者であることを理解してもらえたとしたら嬉しいし、貴殿にも憲法の尊重が国民にとって一番大切であることに同意していただけるならもっと嬉しい。
 その前提で、憲法のすべての条文を守れとおっしゃるなら、それこそ私たちの望むところである。憲法は一本の理念に貫かれており、憲法を尊重するとは、自分に都合の良い一部だけ利用することでは当然ない。私が限られた条文をあげたは、直接関わるものだけに絞ったわけで、憲法のすべてを尊重することは言うまでもない。
 さて、貴殿が疑問として、第12条、第13条を引用したのは、「公共の福祉」の文言があるからであろう。この言葉こそ、誤解して流布され、憲法論議の争点となるものだから、じっくり反論させていただこう。(続)

2005/2/14

> ABA殿 投稿者:なまはげ  投稿日:12月31日(金)19時17分54秒

統計によれば、出生時に障害を持って生まれてくる確率は100人に3.6人なのだそうだ。
私の義理の妹も障害者手帳を持っている。誰もが身近に考えて当たり前なのだ。
とはいっても、数の上ではやはりマイノリティであり、効率万能社会の中では、無理解の壁がまだまだ厚い。貴殿を始め当該家族のご苦労には頭が下がる。
以下、私の考えを記す。障害者教育の基本は、次のことだと聞いた。
@障害者も健常者も平等である。A障害者と健常者は画一ではない。

@一人の人として、この世に生を受け、人間らしい生活を営み、幸福追求する権利は、誰にでも等しく認められる。(肌の色、性別、年齢、経済力、社会的地位など、あらゆる人間の差異について言えることで、障害のあるなしだってもちろん同じだ)
A人間は一人一人全部違っており、違い(個性)は尊重されなければならない。
こちらは、区別(差別ではない)は必要なこと。逆に区別をしなければ「悪平等」になる、ということを意味している。

男と女の違いが、分かりやすい。男女平等とは、「同じトイレ」「同じ風呂(混浴?)」「同じ更衣室」「スポーツ競技も男女一緒」とかのことではない。これは「悪平等」であり、男女の「違いに応じて」待遇するのが、本当の平等なのだ。
(念のため、同じ仕事をして給料が違ったり、女だけ定年退職年齢が若かったりするのは、言うまでもなく差別である。根拠なく社会的待遇に差をつけてはならない。)
障害児と、どう付き合うか。運動会の時、健常児と一緒に走らせなければ、差別って言われるのかな、同じ教材を与えなければバカにしているみたいに思われないだろうか、というのは間違いだし、逆に健常児から、先生あの子にばかり特別扱いしてずるい(体育は免除とか、テストの量を減らすとか)とか言われてひるむのも、間違いである。
違いに応じて、適切な対応をするのが、人間らしい待遇でよいのだ。無理に画一に扱おうとすれば「悪平等」でかえって苦しめることになる。「違った待遇が当然」ということは、生徒たちもちゃんと説明すれば理解する。

遠回りになるが、自閉症児に行動療法を行うのは、それが効果があるなら正しい教育なのだ。人間としての尊厳を身につけていくプロセスとして、必要なことは堂々と実行すべきだし、健常者向けの教育と形が違っても気にする必要はない。その子に一番相応しい教育を行うのが、人間らしい対応をしていることになる。

ひるがえって、健常者といえども、幼児期は誰でも同様だろう。しつけ優先。
しかし、分別盛りになってもなお、自閉症児に有効な教育方法をとっていては、
その子達に不幸だ。個性に応じた扱いを受ける権利が、どの子どもにもある。
私が言いたいのは、自閉症児に有効な教育が健常児に有効とは限らず、
健常児に有効な教育が自閉症児にも有効とは限らない。
それは差別でも何でもなく、正しい区別に基づく待遇なのである。
そして、方法は違っても、いずれも子どもを一人の人格として扱っている点では共通である、ということだ。
@とAは、相反するように見えても、実はひとつのこと。
だからこそ、@の平等な自由権を、権力への盲目的な服従で否定するような言説は、どんな子どもたちでも、人間扱いしない傲慢な考えとして、受け入れることが出来ないのだ。

他にもご意見があったかも知れませんが、もう紅白の時間なので、本日はこれで失礼。




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> @@@殿2 投稿者:なまはげ  投稿日:12月31日(金)19時16分30秒

それに比し、あなた方が持ち出す、「職務命令」とか「学習指導要領」とかは、下位法や行政命令に過ぎない。それが最高法規の憲法と矛盾するなら、どちらを取るのが、日本を心から愛する国民として正しい選択か、明らかであろう。
一校長(行政の末端ではあるが権力をゆだねられた公務員)が発する「職務命令」など、当然、最高法規に則っていなければ、無法、無効となる。校長が「裸で街中を歩きなさい」とか「銃で親を殺しなさい」とか(ありえない極端な例を出すが)、「職務命令」を出しても、教師はもちろん従う義務はない。拒絶できるのは、上位法によるのであり、その場合「職務命令」を出した側が、無法者になる。校長は上の命令に従い、そのまた上から命令があり、それが行政組織であるが、東京都では教育長がトップだとすれば彼が無法者なのである。
教育長は何に従う?文科省?では文科省は?…結局のところ誰が一番この国のご主人様かな?お忘れなら思い出させて差し上げましょう。わが国は国民主権の国である。ということは一人一人の国民の自由意志が国を動かす国家体制なのだ。首相も文科相も教育長も、公務員はみな公僕である。第99条の憲法擁護義務をもう一度確かめて見よ。憲法から逸脱した行為も、命令も、公務員は一切勝手に為すことが出来ない。「君臨すれども統治せず」たかだか公務員の長くらいの分際で、国王も出来ないことをやろうとしてはいけない。天皇陛下ですら「強制は望ましくない」と述べられたではないか。それを誰がどんな権限で強制しようとしているのか。法治国家の原則を踏み外せば、近代的な国際社会の笑いものになるだけだ。
もちろん校長らも人間だから、うすうすやりすぎではないか、と内心恐れてはいる。しかしもしかしたら、今の司法なら、これ位のこと合憲と言ってくれるのではないかと淡い期待を抱いて、上司の命令に盲従している。情けない。これは、日本国民としても、道徳を持つ人間としても、最もみっともない身の振り方である。理性と良心を持つ人間ならば、正義の原則に基づいて身を処してもらいたいものだ。ソクラテスのように、とまでは言わないが。

司法判断がどう出るかは、正直言って予断を許さない面がある。ただ、拒否の理由を明確に表明している者に対して、あえてその「思想の表明」に反論も説得も避けて、命令違反だからという外形的事柄だけで、処分をちらつかせ強制するというやり方は、前近代的「踏み絵」そのものであり、その時点で法治国家の原則を外れているということも、司法判断が出る前に指摘しておこう。

最後に、権力的に強制する者こそ、憲法に違反する、@公務員失格者(99条)であり、A法の支配に服しない前近代的独裁者であり、B非国民である、と申し上げておこう。




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> @@@殿1 投稿者:なまはげ  投稿日:12月31日(金)19時15分58秒

アナーキーとは、無政府の「状態」を指し、身近な例では、しきりに、この掲示板で、誹謗中傷レッテル貼り罵詈雑言いかなる言論でも掲載させろと騒いでいる人たちの思想のことをいう。
で、何か、おかしいか。
> いかなる投稿も採用せよといった覚えはない
とおっしゃるなら、あなたは別。節度ある議論は大歓迎。

次に、
> 職務命令と言う一つの規律に背き起立拒否に及んだ教員を擁護する方
という下り、不起立者をあたかも無法者呼ばわりする決まり文句のような、こういった難癖が繰り返し登場するので、これについてはきちんと説明しておきたい。

不起立者は、@遵法者である。さらにA民主主義者であり、B平和主義者でもある。

まず、@から、
まさか不起立者を、いかなる法にも服さない自然人とでも思ってはいないとは思うが、
彼らこそ、誰よりも、法を尊重し、自らの行動を愚直なまでに正義の原則に照らして判断する近代人であるといいたい。
法の支配<the rule of the law>とは、17世紀イギリス権利章典で確立された原則で、立憲国家では「君臨すれども統治せず」と、国王といえども議会(国民の代表)の立法権に服するという、近代法治国家のあり方を示した言葉だ。(中学生並みの知識をひけらかすこともないが)
近代人は、理性的・自由意志・個性尊重を身につけた存在のことである。神秘的・禁欲的・権威主義的な、中世封建社会から訣別してヒューマニズムをうたい上げて、近代は始まる。

回り道をしたが、不起立者が何よりも大切にし、自己の行動原理とするものは、国家の最高法規である「憲法」である。
憲法第9条(戦争の放棄)、第19条(思想良心の自由)、第20条(信教の自由)、第21条(表現の自由)、第22条(職業選択の自由)、第23条(学問の自由)、第97条(基本的人権の本質)、第99条(公務員の憲法尊重擁護義務)、
これらを、一主権者として愚直なまでに遵守しようとする精神が、不起立に結びついている。憲法を守りたいから、起立するわけにはいかないのだ。

なぜ「君が代強制」が、憲法違反となるか。ここは、こちらの言い分を、そちらもご存知だろうから、今回は軽く流すが(必要とあらば機会を改めて)、「君が代」は軍国主義日本のシンボルとして使われた歴史を持ち、歌詞の内容が国民主権には相応しくない。反平和主義を自らも歌い、子どもにも歌うことを強いるのは、憲法の基本原則に反する。国民の代表が定めた憲法の精神に則って、教育を行い、自らの行動を律することを、彼らは(私も)誇りに思っているのだ。



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