2013/8/12

最高裁判所上告審への土肥元校長の意見陳述書  Y暴走する都教委
 ◎ 土肥元校長の意見陳述書
   〜最高裁上告審は第三小法廷で、ぜひとも口頭弁論を!!!


 (1)生徒のために汗をかく
 「生徒のために汗をかく」。私が教師になった時に心に誓った言葉であり、私は34年間この言葉を守って教育実践を行ってきました。
 平成21年(2009年)3月24日、三鷹高校離任式。3月31日の定年退職を前に三鷹高校体育館で最後の挨拶をした直後、卒業生から「卒業証書」と、「全員の色紙」をもらったのです。私はこの言葉が間違いではなかったことを確信することができ、教師冥利に尽きました。教育の主体は生徒(子ども)であり、その生徒のために、教師も教育委員会も保護者も汗をかくべきなのだと思います。
 私が管理職になったのは、自分のことだけを考えるのではなく、社会全体のことを考え、他者に配慮ができる社会的リーダを育成する学校を作りたかったからです。東京都教育委員会(都教委)は私のこの考え方を評価して私を校長に任用してくれたのです。


 したがって都教委の施策を全て批判するつもりは全くありません。それが生徒にとって有益であると感じたならば、たとえ教職員の反対があっても都教委の施策を推進してきたつもりです。
 例えば都教委が推進する「開かれた学校作り」は私も大いに賛成です。なぜなら閉ざされた学校は必ず腐敗し、生徒にとって決して有益ではありません。
 また学校における「イジメや体罰」をなくすため、最大の努力を学校現場で実践し、都教委からも高く評価されました。
 しかし「職員会議において職員の意向を確認する挙手・採決の禁止」通知は、教師の言論の自由を奪い、最終的には生徒の言論の自由を奪うと思ったからこそ、私はこの通知の撤回を要求したのです。
 民主主義にとって言論の自由は不可欠であり、言論の自由の無い民主主義は有り得ません。生徒に民主主義を教える教師の言論の自由が奪われれば、結果的に生徒の言論の自由が奪われることは歴史が証明しています。
 実際に都教委は生徒が発表した掲示物の撤去を示唆する指導まで行い、生徒の言論の自由を侵害しようとしたのです。今回、都教委と裁判で争っているのも単に私の為だけではありません。裁判をすることが「生徒のために汗をかく」ことになると確信しているからです。

 (2)民主主義と法令遵守
 「法令遵守」は私の信条のうちの一つです。しかし私自身は全ての法令が正しいとは思っていません。廃止したり修正して欲しいと思う法令もあります。今回の意向を確認する挙手・採決の禁止通知もそのうちの一つです。
 しかし少なくとも日本国憲法下で民主的に選挙された代表者によって決定された法律には従うつもりです。そうしなければ「法の支配」の原則が崩壊して無法状態となり、民主主義が崩壊して弱肉強食の社会になるのです。それは社会的弱者である子どもにとって最悪の事態だからです。
 したがって、校長として法令や都教委の命令には従ってきました。実際に卒業式等における国旗国歌問題でも、校長として、教職員に対する職務命令を発出しました。その職務命令に反して式典において不起立であった教職員を2名都教委に報告し、2名とも処分されたのです。そのため、国旗国歌問題で争っている教職員の一部の人から私は批判もされているのです。
 挙手・採決禁止通知以降は三鷹高校で意向を確認する挙手・採決はやっていません。教員の業績評価も実施要領に基づいて絶対評価で提出しました。私は法令に違反するようなことは全くやっていませんし、悪いことは何もやっていません。
 民主主義のルールに基づいて、法令で決まったことは不本意であっても実行していますが、問題がある法令に対しては批判をしてその法令を変えようとしているだけです。

 (3)事実は一つ
 今回私が都教委を提訴した大きな理由は、私の質問に対する都教委の説明があまりにも事実と違っていて、私がどうしても納得いかなかったからです。都教委は校長に対し常に説明責任が取れるように指導してきました。しかしその都教委がその説明責任を果たさず、組織内部の問題として公開討論にも応じませんでした。もし私が裁判をしなければ、生徒の言論の自由という憲法に保障されている基本的人権の中でも最も重要な問題について、闇の中に葬り去られていたのです。
 事実は一つです。私は裁判を行うことによって、都教委の主張と私の主張の違いを認識してもらい、事実に基づいて公正な判断が下されるものと信じていました。
 実際に全ての争点において都教委の主張と私の主張はことごとく違っていました。見解の違いは当然あると思いますが、事実においても違いがあり、事実についてはどちらかが「嘘」を主張していることが明らかでした。
 第一審、控訴審において、私が密告された時の都教委の指導回数、個別的職務命令の未発出、定時制発表会の教員交代の理由、業績評価における都教委の相対評価の指導等、証人や証拠によって都教委の主張が事実とは違うことが明らかになりました。
 都教委の「嘘」が明らかになったにもかかわらず、結果的には私の敗訴。事実と違うことを主張するのは何か都教委にやましい点があるからです。嘘をつくものが勝って、正直者が負ける判決に私はどうしても納得がいきません。最高裁におかれましては再度事実に基づいた公正な判断をお願いしたいと思います。

 (4)「職員会議において職員の意向を確認する挙手・採決の禁止」通知
 平成20年(2008年)11月22日、フジテレビ「たけしの日本教育白書」で禁止通知に関する討論会が行われました。都教委との公開討論は私の望むところでしたので、フジテレビは当然都教委に出演を依頼したそうです。残念ながら都教委に断られたため、都教委の代弁者として、新しい歴史教科書をつくる会元副会長である高橋史朗氏が出演してくれたのです。
 案の定、最初に高橋氏は私の撤回要求を批判しました。「学校の責任者は校長であり、職員会議ですべてを決定することは許されない。」、と。私はそれを聞いて、“あれっ”と思いました。「東京都は平成10年(1998年)に職員会議を補助機関にしており、最終決定権は校長であることを規則で決めています。今回の通知は“意向”を確認する挙手採決の禁止であり、決定するための挙手・採決の禁止ではありません。校長が最終決定するための参考として教職員の意向を聞くことは、教職員の勤労意欲向上にもつながります。もちろん校長が教職員の意向と違う決定をしても何の問題もないのです。」と反論したのです。
 すると高橋氏は即座に同意してくれたのです。高橋氏は東京都が平成10年に職員会議を補助機関にしたことを認識していなかったのです。
 その後、産経新聞“解答乱麻”にも、「校長が意思決定をする時、必要ならば職員の意向を確認する挙手は問題ない」と私の意見を支持してくれたのです。
 私も平成10年の職員会議の補助機関の規則がなければ、本件の禁止通知の撤回要求はしなかったと思います。補助機関規定があれば、このような禁止通知の必要性、合理性は全くありません。東京都の都立高校以外の学校に対して禁止通知が出たところは全国で皆無であり、東京都ですら区立、市立等の学校ではこのような通知が出ていないことを考えれば明らかなのです。
 控訴審判決文P34L6「本件挙手・採決禁止通知により、職員会議において控訴人が職員の意向を確認する方法が制約されたとしても、これによって、直ちに教育現場における民主義的議論が奪われることにならない」とあります。これは教育現場を全く知らない人の発言です。
 職員会議以外で民主義的議論をする場はどこがあるのか、例示していただきたいと思います。民主主義的議論とは、多くの人たちの中で自由に発言をすることが民主義的議論であり、最も適切な場が職員会議なのです。そもそも職員会議は規則で決められたものではなく、学校運営上必然的に発生してきた会議なのです。
 教育の主体は生徒であり、その生徒を最も知っているのは、担任や教科担当である教員です。最高責任者である校長が、生徒と直接接している教員からの意見を聞く場として職員会議が発生し、教員の意見を参考にして校長が学校運営を行うのです。
 ほとんど生徒のことが分からない校長が、教職員の意向を聞かなければ学校運営が不可能なことを、校長をやっていた私が一番よく知っています。最高裁におかれましては、学校という教育現場での中での職員会議の位置づけや役割等を十分に認識していただきたいと思います。

 (5)非常勤教員不合格処分
 正直、私は非常勤教員選考試験で不合格になるとは夢にも思いませんでした。
 離任式の時に「卒業証書」と「生徒全員の色紙」をもらい、保護者からも高く評価されました。都教委が指導していた「開かれた学校」作り、イジメ・体罰の指導の徹底、三鷹地区中高一貫開設準備等の教育実践を行ってきました。
 また選考面接についても、私が都教委を批判している問題については一切質問されず、面接官の質問にもうまく答えられたと思っていたからです。
 ところが結果は不合格。裁判を通して不合格の理由が分かりました。
 私の平成20年度業績評価が何とオール「C」で790人受験中790番の最低順位だったからです。曽根証人も発言しているように、私の教育実践を知っている人は全員「信じられない」の一言です。
 また実際に三鷹高校に学校訪問した都教委職員ですら、生徒の名前を呼ぶ私を高く評価してくれていたのです。その上、禁止通知の撤回や業績評価の相対評価問題、卒業式における個別的職務命令の問題等で都教委と最も論争をしたのは平成19年度であり、19年度の私の業績評価は「普通」だったにもかかわらずです。

 控訴審判決はこの業績評価が正当であることを主張しています。判決文P45L6「非常勤教員は同法の適用を受けない同法3条3項3号の特別職の公務員であるから〜本件選考において控訴人が主張するような公正評価義務を被控訴人が負う根拠となるものとはいえない。」と法律に規定されていないから公正評価義務はないと主張しています。法律がないから公正評価義務をしなくていいという考え方が社会の常識でしょうか?民主主義国家では、人を評価する場合は客観的事実に基づいて公正に評価することが常識なのではないでしょうか。公正評価義務を規定しないこと自体に法律的な不備があると思います。

 控訴審判決文P47L21「控訴人が教師として求められる重要な一面において優れた能力を有していたことが推認され、これを覆すに足りる証拠はない」と私の教育実践を認めています。しかもP48L1「考慮要素として、教師としての実践や能力“のみならず”」と考慮要素として教師としての実践や能力を入れることを認めているのです。
 しかし私の業績評価はオール「C」で、都教委側の証人も私の教育実践を業績評価に全く反映してないことを証言しています。これは明らかに公正な業績評価ではないと思います。

 判決文P45L10「都教委には本件選考について広範な裁量権が認められており、被控訴人において控訴人を不合格とすることにつき高度の合理性と社会通念上の相当性がない場合を除いて、控訴人を任用すべき義務があると解することもできない」と、97%という高い合格率の選考試験で、高度な合理性と相当性がなくても不合格にすることができることを認めています。
 またP48L6「本件推薦書兼業績評価書が、上記の観点から組織内の人間として行動する能力の有無を中心に控訴人の評価を行い」とあり、私が組織内の人間として不適格であるから不合格としたことを明らかにしています。
 このことは、組織の方針に反対するものは、理由がなくても不合格にすることができることを意味し、都教委が間違った方針を出しても、批判も意見も許さない、それに絶対従えということなのです。「黒いボール」を、都教委がこれは「白いボール」だと言ったら、組織内の人間は「白いボール」だと言わなければならないのです。これは不正義だと思います。
 「公益通報者保護法」は、組織が常に正しくないことがあり、そのことが国民の不利益をもたらすことがありえるという理由で成立したのだと思います。実際私が三菱商事で働いていたころ、私の飼料畜産部畜産第一課で談合(闇カルテル・独占禁止法違反)が行われていました。私は法律違反だから談合をするべきでないことを上司に進言しましたが、談合は継続されたのです。(その当時は公益通報保護法がありませんでしたので、会社を退社せざるを得なくなりました)

 判決文P49L15「同年8月4日には記者会見を開き〜外部に公表してその可否を世論に問いたい」とあるように、私が組織内の人間として不適格であった問題は外部に公表したことであることを明らかにしています。
 しかし私が外部に公表してまで都教委との公開討論を望んだのは、生徒の言論の自由に関わる最も大切で国民にとっても重要な問題だったからです。断じて私自身の為ではありません。
 都教委に対して何も言わなければ、定年後も非常勤教員として経済的にも安定した生活が保障されていました。(実際に外部に公表することによって非常勤教員不合格になり、現在経済的には非常に苦しい状況です)でも誰かが言わなければ生徒の言論の自由がなくなると思ったのです。挙手・採決の禁止通知だけではありません。
 密告による私への言論弾圧、生徒の掲示物問題、定時制研究発表会の教員差し替え問題、校長のリーダーシップの確立と言いながら、個別的職務命令の強要、業績評価における相対評価の強要等、都教委のこのような一連の動きが、生徒の言論の自由の弾圧につながると思ったからこそ外部に公表したのです。
 また公表以前に都教委が説明責任を果たしていれば、公表するつもりは全くありませんでした。しかしその説明が全く理解できないものであり、公開討論にも応じてくれなかったので公表したのです。
 一例をあげれば、個別的職務命令は校長の“権限と責任”で発出してくださいと指導されました。したがって三鷹高校定時制では、私の権限と責任で個別的職務命令は発出しなかったのです。
 しかし都教委は発出せよと7回も指導し、校長の権限を全く認めないのです。しかも、7回の発出強要指導は、校長の“権限と責任”を侵害するものではないと正当化する都教委の説明に、私はどうしても納得がいきませんでした。
 以上のように、都教委の一部の方針を批判しただけで、都教委によって恣意的に非常勤教員不合格とされたのであり、これは都教委によるパワーハラスメントそのものであると思います。
 最高裁におかれましては、私の教育実践、非常勤教員採用選考推薦書兼業績評価の評価方法等、選考経緯を十分に認識していただき、公平な判断をお願いいたします。

 (6)最後に
 教育の主体は生徒であり、ほとんどの学校の教育目標に、「生徒の考える力を育てる、生徒の自主性、主体性、創造性を育てる」とあります。
 このことは生徒が自分で考えたことを自由に発言する力を育てることを意味しています。そのためには前提として生徒の言論の自由が保障されなければ不可能です。
 私はその生徒の言論の自由を守るために裁判を行いました。しかしながら第一審判決、控訴審判決ともにその生徒の視点が全くありません。最高裁判所におかれましては、生徒にとっての職員会議とは、教員の言論の自由とは、教育実践とは、という視点に立ち返ってこの裁判の意味を再考していただきたいと思います。

元東京都立三鷹高等学校 校長 土肥信雄

『土肥元校長の裁判を支援する会』
http://dohi-shien.com/html/modules/bulletin/index.php?page=article&storyid=68

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