2013/6/16

安倍晋三首相の“左翼”発言  XI たまにはまじめに?しっかりトーク
  《ゲンダイネット》
 ★ 「暴言官僚と首相の『左翼』発言、何が違う?」の声


 ツイッターで「左翼のクソども」などと暴言を繰り返していた復興庁の水野靖久参事官(45)。すべてがマスコミ沙汰になった13日、水野氏は担当していた東日本大震災の被災者支援から外され、事実上の更迭処分となった。そんな中、ネット上で「この暴言官僚と何が違うの?」と疑問視されているのが、安倍晋三首相の“左翼”発言だ。

 渋谷・ハチ公前で都議選候補の応援演説を行った9日の夜、安倍首相はフェイスブックにこんな書き込みをしている。

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2005/3/31

目には目を 投稿者:なまはげ  投稿日: 2月 5日(土)22時02分34秒

徳島と言えば、ITベンチャーの雄ジャストシステム【一太郎・花子】の本拠地だ。
【特許権侵害】が裁判所で認定されたらしい。(・∀・)氏なら、さしずめ、

> んで、ルールを破った者たち【一太郎・花子】を「自由な一般市民」としているあたりは、完全に印象操作しているのではないかと弱く批(略wwwww
> 多くの一般市民には、自由を争う正義の市民ではなく、【一太郎・花子は】ルールを破ってゴネてる人にしか見えていないと思うのだがwwww
> ゲーム【特許権侵害】をするには、自由な時間に自宅とかでするのが吉。思想活動【特許権侵害】するなら勤務時間外に警察許可とって集会場や駅前でするのが吉w

と、けなしまくるのかな。
んで、

> 国民の8割が日の丸君が代【ワード】で満足してるのに、反対している先生達【一太郎・花子】の活動は「奇異」なんですよwwwww

てな、お得意の「多数派の専制」のロジックで、とどめを刺すと。

ちなみに私自身は「一太郎vol.6」以来の愛用者という天然記念物的少数派だが、
このまま一太郎を使い続けていても、(・∀・)殿から許していただけるのだろうか。

「印象操作」には「印象操作」でおかえししてみました。

詭弁を弄して一般市民を煙に巻いた、前6C頃のアテネの徳の教師たちをソフィストという。(ギリシア語でsophia=知、知の使い手、即ち「知者」)

 人間は全て死ぬ。ソクラテスは人間である。ソクラテスは死ぬ。(ん!正しい)
 人間は嘘をつく。ソクラテスは人間である。ソクラテスは嘘つきだ。(ん?変だぞ)
 「正義は強者の正義に他ならない」(トラシュマコス)
 「正義とは、強者が弱者を支配し、そして弱者よりも多く持つことである。」(カリクレス)
 「人は安心して決まりを破ってよい。ただし誰からも見られていないことが必要である。」(アンティフォン)
ソフィストの詭弁をうっかり受け入れると、「言論の自由に立脚するデモクラシー」が、弁論術という名の「力が支配する荒廃した世界」に堕してしまう。アテネ自壊の故知から何を学ぶか。

現代の若者も、けっこう詭弁好きである。
 「英語の未来形を表す助動詞 will の過去形は would だと言ったが、未来の過去なら現在じゃないですか。」
 「バスは走るのになぜ動詞でなく名詞なのか」
こんなふざけた質問にまともにお付き合いしていたら、時間と言葉がいくらあっても足りない。言葉のお遊びは、それこそ自由なお時間にご自宅でなさっていただきたいもの。公共の場で詭弁を振りまかれるのは迷惑で社会の害悪である。日本を衆愚政治に陥らせたいのか。私はそんな邪悪な営みに関わりたくないし、関わっている暇もない。印象操作合戦はこれでお終い。お互い時間は大切に使いましょう。

それにしても、今の日本には、ソフィストが跋扈しすぎている。詭弁、皮肉、冷笑主義、の類を得意げに振りまく若者が何と増えてきたことか。そしてそれを煽る口先達者な政治家や知事や役人たち。
こんな時代、ソクラテスの登場が待たれる。




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多神教 投稿者:なまはげ  投稿日: 2月 5日(土)22時01分38秒

それでは日本における多神教の特徴とはどんなものであったか。
日本の伝統文化の本来の姿を、江戸中期の国学者の大人本居宣長の言葉に見るなら、

「されば人の情のありていは、すべてはかなく、しどけなく、をろかなるもの也としるべし。歌は情をのぶるものなれば、また情にしたがふて、しどけなく、つたなく、はかなかるべきことはり也。これ人情は古今和漢かはる事なき也。しかるに、その情を吐き出す咏吟の、男らしく、きつとして、正しきは、本情にあらずと知る可し。」(排芦小船)

「もろこしの書は、そのまことの有のまゝの情をはかくして、つくろひたしなみたるところをいへば、君のため国のために、命をすつるなどやうの事計をかけるもの也。すべて人の情の、自然のまことの有のまゝなる所は、はなはたおろかなる物也。それをつとめてなをし、かさりつくろひて、かしこけにする所は、情をかされる物にて、本然の情にはあらず。」(石上私淑言)

かように、日本の古道とは、しどけなく(⇔男らしくきっとした)、愚かな(⇔賢げ)ものなのであり、そして、これこそ「多神教」の本来の姿なのである。

江戸時代以前の日本人の感覚では、天皇は古都の(武士に比べて女々しい)公家集団の頭目か、祭事の主宰者程度の受け止め方でしかなかった。これこそ貴君の言う

> 神道ではシンキロウと同じ物言いですが、天皇陛下(天照大神?)が一番偉い神様になっていますが、あくまで八百幡(八百万?)の神の中の一柱にすぎないので、もともと強い神様では有りません。

のイメージであったものである。

それが、ある日突然西洋ナショナリズムと一神教にかぶれた薩長の成り上がり者たちにより、ぐちゃぐちゃに歪められ伝統文化とはかけ離れたものに変容させられてしまった。よーく歴史の実相を見極める目を持たれよ。

その一神教かぶれの結果が、幾百万の無辜の民を死地に追いやった軍国主義であり、近隣アジア諸国を蹂躙する侵略戦争だったのである。多神教的にアジアの独自の文化と歴史を持つ個性豊かな国々と共存を目指す道ではなく、一神教的にひとり上に立つ全知全能の日本にアジア諸国を跪かせ従属させる道であった。四海万国を治むべき天子などと称しつつ、実は西洋的絶対君主に祭り上げられ、侵略戦争のシンボルとして利用され、無辜の民を死地に追いやることになってしまった明治大正昭和三代の陛下は皇祖皇宗の前にさぞかし慚愧の念に堪えなかったことであろう。

『教育勅語』とは、中国思想と西洋一神教に染められた、非日本的なものであり、それを「伝統」などとは勘違いも甚だしい。その復活は、全体主義国家の再現であるばかりでなく、正しい古来の伝統文化を破壊するものなのであって、二度と復活させてはいけないものなのである。


2005/3/30

思想良心の自由 投稿者:なまはげ  投稿日: 1月29日(土)22時33分6秒

そもそも「政治的自由権」(civil liberties)は、「信教の自由」(freedom of conscience)から派生した権利で、すぐれて「内心の自由」に関わる概念である。
(英市民革命期の「審査律」信仰による公務員資格選別→19C自由主義的諸改革で審査律廃止、の流れを想起されよ)

そして、これらが、「内心にとどまる限り」自由なのは当たり前だが、外面的行為の自由を保障しなければ無意味なものである。

たとえば『ドイツ基本法』には〔良心的兵役拒否〕(第4条)の規定があるが、これは「内面」にとどまっていては意味をなさない。行為としての表現を保障しているのである。戦争反対の言論を保障するということは、行為まで保障して完結する。

また『国際人権規約』第18条〔思想、良心及び宗教の自由〕には、「礼拝、儀式、行事及び教導によってその宗教又は信念を表明する自由を含む」と、外的表明を権利として明記している。

内面にとどまるならば、物理的に捕捉不可能で処罰したくても出来ない。それを懺悔させ自省させるとしたら、「心の中の姦淫」戒める宗教次元の話になってしまう。裁判所なんかいらない。外的表明を保障して初めて「権利」といえるものである。

どなたかが引用していた「エホバの証人」格技拒否を合憲と認めた最高裁判決(1996)は、日本で外的表現を認めた一つの例だ。なぜそれが、教師のピアノ伴奏の時は、外的表現が許されず、受忍しなければならないのか。他人の人権との衝突の可能性のない人権には「公共の福祉」による制限の余地はないと政府も認めているのに。

憲法第19条〔思想・良心の自由〕の存在は戦前との大きな違いである。それがなかった戦前には、滝川事件・天皇機関説事件・矢内原事件・津田左右吉事件と、弾圧例は枚挙にいとまがない。内村鑑三不敬事件もあった。

君が代強制不服従は、憲法第19条の存在意義が問われている問題なのである。どうしても強制したいなら、憲法第19条は廃止すべきである。既に憲法第9条の下で、世界第3位(予算規模)の自衛隊が存在するのと同様の解釈改憲はもう願い下げにしたい。

一体、「学校行事」とは、「憲法」を解釈改憲しなければならないほどの問題なのだろうか。
フランス留学中に子どもを現地の小学校に入学させた学者が言っていたが、フランスには、入学式・卒業式がないのだそうだ。運動会でも、開会式・閉会式がない。時間に集まって自然に始まり自然に終わる。ドイツ・オランダも同じと言っていた。厳粛な儀式にどんな意味があるのか。オリンピックの開閉会式を見ると、日本の高校野球やインターハイのそれと比べて随分なごやかで無秩序にやっている。日本も戦後はかなり緩やかになってきたものが、最近になってまた急に厳しくなってきた。なぜ儀式を復活するのか。それは何を意味するのか。

生徒も敏感に受け止めている。卒業式での国歌斉唱について意見を問うと、
「儀式で全員が声を揃えて歌うことはいいことだ」という声がある一方で、
「今まで強制してこなかったものになぜ命令するのか」「なぜ急に歌わせるのか」
「天皇を神のように敬っていた昔、君が代を強制していた」
「強制するのは、国家に個人を従わせようとするから」
「『君が代』よりも『強制』させることがねらい」
などの指摘もある。生徒にもちゃんと見えているのだ。

ある哲学者は、「教育勅語による国民教育」の地金が出た、という言い方をした。
強制される思想は、ニセの思想であり、強制された愛国心は、ニセの愛国心である。何の役にも立たないばかりか、有害ですらある。

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日本は戦前と比べて何が変わったか 投稿者:なまはげ  投稿日: 1月29日(土)22時32分17秒

@@@殿と、「国家と個人」の関係についてやりとりを重ねてきたが、こんな感じの整理でどうだろう。

まず、民主主義国家と全体主義国家とでは、民主主義国家の方がよい。
(今の日本⇔過去の日本、ナチスドイツ、北朝鮮)。

両者の違いは何かというと、「個人の自由」を尊重するか否かである。
これも共通認識といってよいだろう。

問題は、「個人の自由」と「国家の権能」のバランスにある。
「国家の権能」を極大化すると「ファシズム」に行き着く。
「個人の自由」を極大化すると「アナーキー」に行き着く。
この極論の印象操作の中間のどこかに、着地点があるのかもしれない。

私が言いたいのは、「まず国家ありき」ではなく、「個人があって国家を作る」という考え方だ。それが市民革命以降形成されてきた「近代民主主義」の原理である。
生まれながらに自由な人間が、相互の利害を調整するために国家を作ったのだから、国家の本来的目的は、基本的人権の尊重にある。国家の権能はそのために使われるのであり、それ以上個人の領域に踏み込むことは制限されなければならない。それを超えると全体主義に陥るし、調整機能を発揮できなければ無政府状態に陥る。自由権の成立を「国家からの自由」と称し、「人権とは前国家的権利である」と称する所以である。

この前提から、次の具体的な争点が問われていく。

> 伴奏者は公務員ですが、伴奏は職務であり、その職務上思想良心の自由が一定の範囲で制限されるという事だけです。

貴殿の主張を整理すると、次のようになるだろうか。
@君が代指導は職務である(学習指導要領)、
A公務員は職務命令に拝命義務がある(地方公務員法)、
Bそれが思想良心に触れても、服従しなければならない(ここが問題)

これに対し、私は次のように考える。
@君が代強制は自由権の侵害である。(憲法)
A職務命令は上位法に整合しなければならない。(地方公務員法)
B間違った職務命令に従うことは、職務上の責任と良心にかけて出来ない。

公務員には「思想良心の自由」を認めない、なんて条文はさすがにないだろう。
(この掲示板に登場する推進派の面々は、公務員をまるで奴隷扱いするのが不満だ)。
問題はただ、「職務」と「自由」は、どちらが優先するのか、という法解釈の次元で争われることになる。

判断の物差しは、民主主義の原則によるなら、まず憲法の基本精神でなければならない。主権在民、平和主義、基本的人権の尊重に照らしてどうか、ということだ。
その場合、君が代の強制はその基本精神に照らしてどんな意味を持つのか。戦前の全体主義・軍国主義教育と同じ状況(問答無用の権力⇔卑屈な全面服従)になっているとしたら大問題だ。
もう一つは、帝国憲法にはなかった「思想良心の自由」が出来たことが、どんな意味を持つのかということだ。戦前と同じなら、「全体主義国家」になってしまう。そうなってはいけないという話だろう。

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ニート 投稿者:なまはげ  投稿日: 1月29日(土)22時27分27秒

あっと言う間の一週間。堂々めぐりに陥りそうな議論を何とか一歩でも前に進めるために今回は少し整理を試みることにした。

最初は、教師への起立と礼に反対する市民殿の書き込みに心が引っかかっるものがあったので、そこから始めたい。

様々な指摘の中で、耳慣れないニートを検索したら、次のような説明があった。

NEETとはNot in Employment, Education or Trainingの略で、「職に就いていず、学校機関に所属もしていず、そして就労に向けた具体的な動きをしていない」若者を指します。
労働政策研究・研修機構副統括研究員の小杉礼子先生はニートを四つ類型化しています。
Tヤンキー型 反社会的で享楽的。「今が楽しければいい」というタイプ
Uひきこもり型 社会との関係を築けず、こもってしまうタイプ
V立ちすくみ型 就職を前に考え込んでしまい、行き詰ってしまうタイプ
Wつまずき型 いったんは就職したものの早々に辞め、自信を喪失したタイプ

これは私自身、いささか身に覚えのある話である。高校から大学、大学から社会人の転換期に、当時の言葉でカルチャーショックを受け大いに戸惑った覚えがある。
例えば高校では、酒・タバコはもちろん、麻雀も喫茶店もひどいところでは男女交際も禁じられている。優等生(?)だった私は、不良のやることには一切手を染めずに大人になった。ところが、実社会では価値観が逆転するのだ。麻雀や酒は強い方が使える人材で、女の子と上手く付き合えないと業務にも支障が出る。また処世術も逆転する。与えられたカリキュラムを受け身でこなす高校と、自分から課題を見つけクリエイティブな解決能力を求められる大学の勉強は全く違った。実社会でも、目立たず同調しておけばいい教室の処世術は、「私がやります」「私にやらせて下さい」とやる気元気根気人気勇気を求められる企業では180°違っていた。学校で教えてくれないことを、みなどこで身につけたんだろう、不思議に思ったものだ。それから私は「建前」を○○正直に受け入れることには慎重になった。自慢できない話である。

ニートを生み出す構造的な欠陥が、今の学校教育には確かにある。
体系的な批判はすぐには出来ないが、思い当たることを一二あげるなら、生活に不可欠な税金、年金、医学などをきちんと学ぶ機会がない。消費税が導入されたその年に、自分自身の関心から2ヶ月くらいかけてその問題を授業で取り上げたことがある。税は取られるものではなく、納めるものである、という基本から、不公平税制の実態と拡大してきたいきさつ、消費税導入の意図と益税発生などの欠陥、諸外国との比較など、社会人になって納税する時に絶対に役に立つ知識と、税制の根本である「公平さ」についての見解が身に付くいい授業だったと自負もあり、生徒からの評判も良かった。ところが感想を書かせると「なぜ教科書を使わないのですか」というお決まりの意見がでる。私は胸を張って、その後も、時々の時事的テーマを掘り下げてやってきたのだが、最近は一段と「学習指導要領」から外れるなとか、「受験に役立つ」こと以外はやるなとか、圧力が強まって来てつまらないことおびただしい。「生きる力」を身につける教育と称して「総合学習」など上から押し付けられても、生徒も乗らないし教師もやる気が湧かない。また不登校やリストカットを繰り返す生徒との付き合いは、徹底した相手への理解と誠意それとちょっとした処世のコツの相談役しか方法はない。マニュアルもなければ、人に教えてもらうものでもない。ところがさっさと切り捨てる教師の方が評価が高かったりする。ものさしがそうなのだ。
こうして、実社会とは隔絶した受験教育をやって、ますます不適合ニートを生み出していく。

氏が列挙したことがらすべてが「学校教育」のせいであるとも、「学校教育」だけの責任とも思わないが、責任の大きな部分がそこにあることは否定しない。

> 授業参観で子供に起立と礼などするなと呼びかけるから覚悟しておけよ。

この呼びかけ、ぜひ実行されたい。「いやいやするなら」という枕詞を付け加えるなら、私も賛同しよう。

2005/3/30

aの追記 投稿者:在日地球人  投稿日: 2月 3日(木)01時35分59秒

5、くどいかもしれませんが、フランス革命以来の民主主義の流れは、より自由に より平等に より優しく(博愛)、という方向に向かっていく流れです。それはまた、自分と同じようにすべての人間を等しく個人として尊ぶ(=個人主義)、というスタンスの上に成立しています。
 一応念のために
(ところで、ウザイくん にしろ (・∀・)さん にしろ、天皇をはるかに尊い存在として民衆に仰がせるために考えだされた反民主的な儀式(日本の卒業式・入学式)の中で、日の御子である天皇の象徴と教えられた反民主的な旗を仰ぎ、そのような天皇がいつまでもわれわれの上に君臨してくださるようにという反民主的な歌を強制的に歌わされることに対して、本気で何の抵抗も感じないというのですか。だとしたら、あなた方の反骨心の正体って言うのはいったい何なんでしょう。まさか、自分が弱くて逆らえないから 逆らう勇気のある奴は許せない、というあのレベルと同じだなんてことは…)

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c、@@@さん 他の皆さんに 投稿者: 在日地球人 2月2日(水)22時

 @@@さん 他の皆さんには、なまはげさんが実に入念に書いて下さいましたので、これ以上書く必要もないだろうと思うのですが。愛子様の弟さん にはまた次回にでも。
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b、ウザイくん / 「教師への起立と礼に反対する市民 さん」へ 

よほどひどい教育を受け怨念をもたれているようですね。
下記のaにも「あなたが、何を批判し何の改善を迫るかというときに、上記の人類史の流れの中でのあなたの行為や発言の意味が、同時に問われるのです。」と書きましたが、どうか感情的な反発を克服して、冷静な意味ある批判者であり続けられることを願ってやみません。すでに冷静な発言をされるようになっておられる (・∀・)さん他の皆様にも、この流れの方向性とご自分のスタンスについてもう一度考えていただきたいと思います。

さらに、「教師への起立と礼に反対する市民さん」には、以下をすべて自民党にぶつけていただきたいと思います。私どもの大半は、その政策は必ずや以下のような結果を生むことを常に警告してまいりました。
・自殺増加
・メンヘル増加
・ニート増加
・ひきこもり増加 ・失業率増加  ・虐待死増加  ・学力低いやつ増加
・性感染症にかかる少女増加  ・中絶する少女増加 ・常識知らず増加
・少年犯罪増加

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a 民主主義と自由 投稿者: 在日地球人     投稿日: 2月 2日(水)21

1,近代民主主義における「自由」について、著名な研究者の一人は以下のように記しています。
「自分の倫理的弱さを知りつつ、あらゆるよきものを希求してやまない人間、つまり自分の良心に従って生きていこうとする真に自由な人間は、社会的にも、古い束縛に抗して良心の自由を要求し始める(中略)
それ(良心の自由)を基礎としてあらゆる社会的自由が次々に獲得されていく。これこそが真実の近代的な自由であり、そうした精神が歴史的生命を保っている限り、真実の自由主義は生き続けていくであろう。(中略)
(自分の利害しか眼中になく、他者の自由を侵害してはばからない「利己主義的自由」は)真の自由や自由主義とはおよそ正反対のものなのである。(中略)
(この決定的な違いがわからず、混同が起こると)自由や自由主義はやはりよくないことなのだと、保守的な人々が言い出し、古い秩序へ復帰しようとする危険が生まれてくる。」(『近代における自由と自由主義』大塚久雄)
 
2,またまたドイツの教育の例で恐縮なのですが、たとえば当然体罰は厳禁で、大声で怒鳴ったりすることも体罰に当たるとされているそうです。そこで、大学の教員養成課程では、発声方・話し方の修得が、かなり大きな比重を持たされていると言います。以前、ユーロの基準では私を含め日本人の大半が右翼に分類されてしまうだろう、と書いた所以の一例です。

3,「民主主義先進国であるはずのアメリカで、人種差別を禁じた公民権法が成立したのはなんと1964年(それまでは公の場であってさえ公然と人種差別がされていたのです)、それからわずかに40年ほどしかたっていないぐらい、実は人類にとって民主主義の歴史は底が浅いのです。」と前にも書きましたが、このように発展途上にあり、本質的に不断の努力の上に成り立つ未完のプロジェクトでもある民主主義、この人類史の流れの中で、どのようなスタンスに立ち 流れの方向を見失わずに参与してゆくかが、そのセンスが、常に個々人の日々の判断と営為の内に問われ続けているのです。

4,なまはげ氏も書いていますが、当然、今の日本の学校教育には、克服・改善さるべき欠陥が少なからずあります。あなたが、何を批判し何の改善を迫るかというときに、上記の人類史の流れの中でのあなたの行為や発言の意味が、同時に問われるのです。


愛子様の弟 さん(1月21日投稿)へ 2 投稿者:在日地球人 投稿日:1月27日(木)

その他については、失礼ながら、何の根拠もなく右翼マスコミの大本営発表に踊らされた結果のようなご発言ばかりでちょっと論争する気が起きないのですが(日本の経営者のモラルの低さは、むしろ先進国の中では際立っていますし、教育勅語で教育されたのは東条英機一人でもないですよ。めざしが好きで立派な人も他にいっぱいいるでしょう)、皇室についてだけでも少しだけ書いておきましょう。
 天皇と皇族合わせて22人のために使われる国費・血税は1年で168億円。そのうち内廷費といって、天皇夫妻と皇太子一家の計7人が自由に使える私的なお金だけでも2億5千万円(ちなみにこれは1988年度の予算、聖域なき改革といいながら、軍事費や宮廷費が削減された話はこれ以後も聞いたことがない!)。これは宮内庁や会計検査院が関知しない検査義務もなく、あまっても返さなくてもよい、税金の一切かからない手取額のお金です。質素に見える味噌醤油野菜や米でさえ、あなたがいくらお金を積んでも口にできないほど高価で貴重な有機農法・無公害の超特選安全食品ですよ。食肉や乳製品を含めてそれが宮内庁所管の特別な農場や牧場から無料で直送されています。所有資産にいたっては胸が悪くなるのでもう書きませんが、世界有数の贅沢放題の公務員ですよ。あなた本当にお人よしですね。
 
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愛子様の弟 さん(1月21日投稿)へ 1 投稿者:在日地球人  投稿日: 1月26日

1、戦後賠償については、相手の受け取り方は当然ながら「金だけ出せばいいという問題ではないでしょう」という事が、もっとも大きなドイツとの違いでしょうね。教育・教科書での扱い等、謝罪と反省の真心を前面に出しているドイツの態度ととにかく謝罪を避けようとする日本の態度とでは、いくらお金を使っても和解の成立の困難さはまるで違うでしょう。アジア各地にある日本軍の蛮行を伝える記念館には、たいていその罪を許すために憲法9条が紹介されているそうですが、ことほどさようにまず和解にはまず何より「真心からの謝罪ありき」でしょう。
2、中国の「当時の戦争時の罪も相当なものだと思います」、という根拠の薄い想像なさってはいけません。三笠宮でさえ婦女暴行のうわささえない「八路軍(中国共産党軍)は去勢しているのではないか」と疑ったというほどですからね。その道徳性の高さが彼らの最大の武器で、まるで漢の劉邦軍のように急速に支持を広げていったわけです。それから、『三光作戦』というのは、確かに中国による命名ですが、中国軍の行った作戦ではなく、あくまでも広範に繰り返された日本軍の蛮行への命名ですから、すりかえないようにしてください。(日露戦争時の日本軍も国際法をしっかり守って評判は悪くなかったようですが、第2次大戦での蛮行悪行はひどすぎます)あと、侵略やユダヤ人虐殺等のナチスの悪行を非難していたのは、日本ではなく日本の敵国である英米であり、日本はナチスを支持していた国の方ですからね(この点の反省も忘れないように)。
3、確かに、日の丸君が代の強制がいかに『良心の自由』と深く関わるかについての説明に丁寧さがかけていたようです。なまはげさんによる説明がありましたが、まだ納得いただけないなら、私のほうでもいずれしっかりと説明いたしますのでしばらくお待ちを、何しろ多忙で。
4、教育勅語については、あなたの現代語訳が余りに素敵な上にまるで当たり前のことの羅列で問題ないように感じますが、あのように対等の立場からの言葉でなく至上からの勅語ですからね。その点を見落とさないでください。
5、「人間が他の動物より上位に立っているのは言語と文字を持った事により、古今東西の他人の知識を共有でき、限りなくたくさんの人と協力できるようになったからであり、我々はどんな天才・偉人でもたくさんの先人・他人の努力の上に安穏と暮らしている事を想起して、感謝するほうが先でしょう。それが他の個人の権利を尊重にもなりますし」そのとおりです、むしろそれこそがすべての人間を等しく個人として尊重する個人主義にほかならないのですが。
6、教育学の上では、強制的な躾はもっとも低レベルな教育です。上意下達の時代遅れのトゥリー型の組織作りには有効ですが、自主的主体的に判断し動ける人間がどれほどいるかがカギになるリゾーム型の現代的未来的組織作り(軍隊組織でさえ最新のモデルはこれを目指してしています)の上では、常に命令待ちで単純な作業やマニュアルなしではどうにも動けない自衛隊型の人間ばかりを生み出しかねないその教育システムは、ゴミ箱に最も捨てたいものの一つでしょうね。いい加減にノモンハン事件を徹底的に反省しないまま、またぞろこのようなような判断しかできないなら、これまた亡国の道へ一途でしょうね。

2005/3/30

5,教育勅語フリーク 投稿者:なまはげ  投稿日: 1月22日(土)

確かこの方は、J.S.ミルやベンサムを共産主義者と誤解なさっていた方ではなかったかと思うが(間違っていたら失礼)、愛子様の弟の年齢なら致し方ないのかも知れないが、『教育勅語』についても随分とずれた解釈を振りまいておられるので、僭越ながら根本的な誤りを指摘させていただく。

徳目を12ヶに整理されたのは一見分かりやすいが、何かからの引用だろうか。
ただしこの12項目が、勅語のすべてでもなければ、核心でもない。
広めたいのがこの徳目ならば、勅語でなくとも、『学問のすすめ』でも『西国立志編』でも十分なものである。

『教育勅語』の核心は何か?と問われて、何と答える。次の中から選びなさい。
 A,「記紀神話」に基づく天皇と日本国の神聖化
 B,「儒教道徳」による上下の人間関係賛美
 C,西洋の「実用主義」に進んで学ぶ姿勢
正解は、もちろんAである。
でも、Bの要素もCの要素も、取り入れられ、三者渾然としているのが勅語の姿だ。

貴君があげた12項目のうち、5番目から11番目までは、C,にあたる。
これは市民社会の徳目で、『教育基本法』にも共通するものである。(嘘だと思うなら、たった10ヶ条の法律だから、自らの目で確かめられよ)。

勅語が戦後、廃止されたのは、主にAとBの要素故である。
貴君の1〜4は、「五倫」のうちの4つであることをご存知か。
『孟子』に典拠する「五倫」は、儒教道徳(=B)の定理として古くから定着し、儒学を官学としていた江戸時代には広く使われていたものである。
 「父子親あり、君臣義あり、夫婦別あり、長幼序あり、朋友信あり」
(天皇のお言葉だから、孟子の言葉遣いそのままではないが、)4つの同じ人間関係を取り上げているのが分かるだろう。おや、でも、1つ欠けているな。何かな?「君臣関係」がないではないか。それはどこにいったのだろう。
それは貴君の引用に先立つ冒頭に方に、臣民は皇祖皇宗に「克く忠に」あれと、いわば別格で取り上げているのである。
(便宜上3つの段落に分ける時、貴君の引用は第2段落である)
大体「忠義」という言葉や概念が、『古事記』や『日本書紀』の日本神話には見られない、中国儒教からの輸入概念なのである。

文明開化を叫びつつ、古色蒼然たる儒教道徳を持ち出さざる得なかったところに明治政府の底の浅さを情けなく思う。まして、今にそれを持ちだすなど、正気の沙汰とは思えない。

貴君の12番目の元の文章は、一番物議をかもした次の一節である。
 「一旦緩急あれば義勇公に奉じ、以て天壌無窮の皇運を扶翼すべし。」
貴君の意訳でも意は伝わるが、もうちょっと正確に補うと、
臣下である国民は、皇室の繁栄のために命を惜しまず戦場へ赴けと、言っているのだ。
なぜ皇室のためなんですか?それは冒頭にあるように、日本を作ったのは天皇の祖先で、徳も天皇が作ったのだ。君たち臣下の民は、天皇の定めた忠孝の徳(ほんとは中国人が作ったんだけどね)を身につけることが立派な日本人になることだ。君たちの親もその祖先もみんなそうして天皇に尽くしてきた。君たちも天皇のために命を捧げるのは臣民として当然の努めなんだよ。というわけだ。

『教育勅語』は、戦後すぐ衆議院で「根本理念が主権在君並びに神話的国家観に基づいている」として、排除の決議が為されている。
貴君が、「主権在君」と「神話的国家観」を覆い隠して、市民道徳の部分を持ち出している点が、知らずか意図的か、卑怯なところだ。正味で「神話的国家」にしたいのなら、サメの脳みそシンキロウのようにはっきりそう言えば良いものを。もし本気でそう考えているのなら、とても付き合いきれない。君一人で醜の御楯になりなさい。私は何と言われようと御免だね。

今回はこれでお終い。またのご来店をお待ちしております。

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4,モヒカンを通して、再度、自由と身勝手 投稿者:なまはげ  投稿日: 1月22日(土)21時46分42秒

> おいらの考えは日本国憲法も地方の条例も学校の校則もキチンと守らなきゃならん。決まったルールは守らなきゃなw 気に入らないから守らないとかじゃなくてねwwwwwww

ほぉ、憲法を守ると明言された。この言葉私も全く同じ立場である。これで(・∀・)殿と同じ土俵に立てるわけだ。

ではまず、貴殿の質問は、下手な「印象操作」であることを暴露しておこう。

「職務命令」に従わない人→「あらゆる」決まりを守らない人。
→自分が守らないから生徒にも「あらゆる」決まりを守らせることが出来ない

どこかおかしくないかな。
私たちが君が代強制の「職務命令」以外に、どんな違法行為をしたのか、指摘してもらおう。それとも一つのルールに反対すれば、all無法者になるとでも。(誰も見てないから赤信号で横断したり、車の流れに乗って制限速度をオーパーして運転したり、大体訴訟を起こしている人すべてをアウトロー呼ばわりすることになってしまう。ついでに憲法否定発言の石原都知事もね。)これは、all-or-nothingのレッテル貼りでしかない。
君が代に反対するものは、あらゆるルールを破る恐ろしい人、と決めつけたいわけね。
根拠も示さず、「印象操作」だけで。

で、質問に答えさせていただくが、

> 校則ではモヒカンや刺青は禁止されている。
> 日本国憲法に保障された私の思想信条の自由、表現の自由を制限するつもりか!?

校則で禁止されている前提なら、「ダメ」以外に答はない。
タバコ、飲酒、カンニング、暴力、ついでに体罰も、みな「特別指導(処罰)」の対象だ。
もし校則で禁止されていなければ、指導は出来るが、処罰は出来なかろう。在日地球人さんが例示していたように、周りの受け止め方(好みの問題?)のレベルの問題となる。

次に、憲法を根拠に挙げているが、こんな類を一知半解と呼ぶのだろうか。
 「ブスをブスって言って何が悪い、表現の自由を認めないのか」
 「ボクは無免許だけど、人間は皆平等なんだから、車運転して何が悪いんだよ!」
 「ボクは確かに裏口入学だが、この世は金だという信念に文句があるか」
自由権と自分勝手の違いを、12/28の投稿でキチンと説明させていただいたが、やりたい放題と自由との勘違いが相変わらず横行している。一知半解の誤用・悪用である。憲法を楯にごねる生徒がいたら、良い機会だから、憲法の自由権とは、ego剥き出しの自然状態とは違うんだってことを、もう一度おさらいしてやろう。日本国憲法を守るとアナーキーな社会になるかのような妄想を振りまくのは止めた方がよい。自分の不勉強を公にさらすようなものでもあるし。

どんな答を期待されていたのかな?
もしも「憲法」と「校則」が矛盾してたらどうするかを問いたかったのなら、服装とか髪型ではなく、「思想信条による合格取り消し」みたいな、明確な例を出してもらった方が分かりやすかったろう。それなら、校則で決めたことでも、憲法に違反すれば無効である、ときっぱりとお答えすることが出来る。あらゆる校則が先験的に合憲であることはないし、校則のすべてが違憲であることもない。従って、憲法遵守義務に忠実であろうとする公務員たる教師が一切の校則を否定することはあり得ないし、そのような想定に基づく質問はばかばかしいとしか言いようがない。

せっかく憲法を守ると明言して下さったのだから、権利の「誤用・悪用」とはいかなるものであるかを、国連の定めた『世界人権宣言』から引用して差し上げよう。

all of the worldの人権水準を示したこの宣言の、最終条文第30条は次のような文言で締めくくられている。
第30条 〔権利と自由に対する破壊的活動〕
 この宣言のいかなる規定も、いずれかの国、集団又は個人に対して、この宣言に掲げる権利及び自由の破壊を目的とする活動に従事し、又はそのような目的を有する行為を行う権利を認めるものと解釈してはならない。

2005/3/30


3,ピアノ裁判について 投稿者:なまはげ  投稿日: 1月22日(土)21時45分48秒

ピアノ裁判の判決は、正直言って取り上げにくい問題である。なぜなら私たちの主張が全面否定されているから。推進側がこれを正当性の根拠に持ち出すのは当たり前だ。もし最高裁でも覆らなければ、私たちも判決に従わなければならないだろう。

しかし私は、東京地裁の判決は間違っていると考えている。法律のプロではないが、ごく一般的な一市民の人権感覚からおかしいと思うのだ。

判決文では、「思想・良心の自由も、公共の福祉の見地から、公務員の職務の公共性に由来する内在的制約を受けるものと解するのが相当である」として、内心の自由を否定している。「思想良心の自由」は「公共の福祉」による制約を受けるというのが根拠だ。

市民感覚からしておかしいというのは、
「ピアノ伴奏したくない」というのは、明らかに思想良心に関わる問題で、裁判官も認めている。にも関わらず「受忍」してやれ、というのではもう戦争中の学校の状態の縮図ではないか。憲法第19条など無くした方が分かりやすいくらいだ。一人の人間、その人格、その思想の領域に、法律と言えども踏み込んではいけない、というのが「思想良心の自由」ではなかったのか。
また判決文は、心の中で反対して、口先だけ唄え(伴奏しろ)、と言っていることになるが、嫌々歌う「国歌」って何なのか、どんな意味があるって疑問に思ってしまう。お偉いさんは、子どもたちに心から歌わせたいのか、口先だけ歌わせたいのか、本当に心から歌わせたいのなら、罰則や押し付けなどかえって逆効果じゃないんだろうか。
それからスポーツですら強制しないのに、なぜ学校では強制されるのか。公教育は何よりも憲法や基本的人権を大切にし模範的に教育する場のはずなのに、憲法の精神を学ぶのとは逆のことをやってみせている。
そしてなぜそこまでして強制したいのか?結局は戦前みたいに「国家に個人を従属させたい」だけじゃないの?誰かはっきり正直に言ってみなよ。それを公務員の職務とか国際儀礼とかもっともらしい粉飾で本質から目をそらしている、そこもおかしい。

次に法律論で、裁判官に異を唱えるのもおこがましいことだが、最大の問題点は「公共の福祉」の解釈にあると考えている。1/2の「なまはげ」で、公共の福祉の正しい意味と歴史的形成過程を整理させていただいたが、山口幸雄裁判長の頭の中にはアナクロな「公共の福祉」=「お上の命令」の誤れる固定観念が巣くっているとしか考えられない。「公共の福祉」とは、特定個人の権利行使が大多数の弱者の権利侵害になるケースを防止するための概念であり、国家がそれを代弁してしまったら基本的人権のすべてが否定される全体主義国家に逆戻りしてしまうというのに。

「公共の福祉」が、両面に解釈できるような、こんなあいまいな状態で憲法に使われていていいのだろうか。実は、この点が不備であると、国連の人権委員会から、日本の人権の懸念事項の一つとして指摘されている。

第64回会期 人権委員会の最終見解 1998年11月19日 原文:英語
対象国:日本
          C.主な懸念事項及び勧告
8.委員会は、「公共の福祉」に基づき規約上の権利に付し得る制限に対する
 懸念を再度表明する。この概念は、曖昧、無制限で、規約上可能な範囲を超
 えた制限を可能とし得る。前回の見解に引き続いて、委員会は、再度、締約
 国に対し、国内法を規約に合致させるよう強く勧告する。

つまり、基本的人権を制限できる根拠であるだけに、厳密な適用範囲を定めなければならないのに、日本には憲法上もその他の法律上も「公共の福祉」の定義がない。このままだと、無制限に人権を制約する(=前近代国家)ことになると勧告をしているわけだ。こんな近代国家は他にないし、国際人権規約や子どもの権利条約など国際条約では考えられないことなのである。
従って、私は東京地裁判決は「公共の福祉」概念を誤用していると考えている。
もし最高裁で覆らなければ、ガリレイ宗教裁判並みの暗黒社会だ。日本の民主主義も息の根を止める。




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2,君が代に代わる国歌 投稿者:なまはげ  投稿日: 1月22日(土)21時42分31秒

ちょっと寄り道をして、なぜ国歌は君が代でなければいけないのかを考えてみたい。

若者に君が代強制について意見を求めると、「そんな面倒なことなら、国歌を変えればいいじゃない」と、軽い答が返ってくることが多い。この掲示板でも、その話題があった。
この提案には、君が代強制に反対する者はほとんど賛成するだろう。推進する側の中にも、誰もが素直に斉唱するならそれでもいい、と賛成する者も少なからずいるのではないか。それとも、絶対に君が代でなければダメだとする者が、かなりの数いるのだろうか。

仮に新しい国歌が決まったとしよう。「ふるさと」か「さくらさくら」か「世界にただ一つの花」か桑田佳祐に頼むかユーミンに頼むか、いろいろ好みが分かれるが国民投票でもやって「ふるさと」に決まったとしよう。
問題は解決するだろうか。

今も卒業式では「蛍の光」や「校歌」も歌うが、それに抵抗はない。それでも、照れくさがったり、単純な若者っぽい反抗心から歌わない者も必ずいる。だけどそこまで目くじらは立てない。集団に帰属意識や一体感を持てないまま卒業式を迎える可哀想な生徒たちには、暖かく抱擁し自然に一体感を持てるように仕向けるのであって、口をこじ開けてまで歌わそうと彼らを追いつめても一層傷つけることにしかならない。強制ではなく、本人が心から大きな声で歌いたくなるような学校の卒業式が良い卒業式に違いない。
さて国歌「ふるさと」ではどうなるか。やはり突っ張って歌わない者もいるのは同じだし、「ふるさと」は嫌いだという者もいるだろう。違うのは「思想・信条」を理由として歌わない者はいない(か激減する)ことだ。それでも「国歌」なのだから、口をこじ開けてでも歌わせるべきだとする強硬意見もあるかもしれないが、「兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川」はいかにも強制にはそぐわない。自ずから誰が考えても、「国歌」の強制という場面は、「ふるさと」では想定しづらい。大多数は心を込めてわが「ふるさと」を歌い、歌えない者は不本意だった自らの学校生活を悔恨しつつ、各々の想いを胸に学窓を巣立っていくに違いない。
このようにして、たぶん、今の問題は、きれいに解消することになるのだと思う。

そこで改めて、今「君が代」がなぜ、どこが問題なのか、振り返ってみると、
第一に、抵抗感を持つ者の大多数が、「思想良心の自由」をその理由にしていることが「ふるさと」との大きな違いだ。
その主張は耳にたこが出来るくらい繰り返されているし、役人も裁判官も多くの国民も知らないはずがない。君が代が西洋のナショナリズムのマネをして「国歌扱い」になったのは明治の初期であり、帝国憲法の制定と並んで絶対天皇制のシンボルとして使われてきた歴史を持つ。国内的には国民の思想・良心・学問の自由など基本的人権を弾圧する軍国主義の、対外的には侵略戦争と皇民化政策のシンボルとして。加えてその歌詞は、「天皇が治める御代」をたたえる内容であり国民主権にそぐわないことは、子どもにも分かる。
反対の理由はこんなに明白なのに、「思想良心」からの問いかけをあえて無視するように、職務専念義務違反のような外形的事項で裁こうとするのはどういうわけだ。これが「君が代」が国歌である第一の問題点だ。「ふるさと」では起こりえない。

第二に、「君が代」は、強制が似合う歌らしい。
儀式は厳粛に、一糸乱れず画一的に行うべきである。(日本人の儀式好きは儒教の影響であることは別の機会に論じたい)。「君が代」を心を込めて歌うことは「愛国心」の証しであり、「天皇」への敬意の表現である。たった1分足らずの歌でも、歌わない者は「非愛国者」であり「天皇」を冒涜する者であると決めつける。つまり「ふるさと」にはない神聖さがある。だから異端は許されない。そう考える者は、「君が代」以外の国歌は考えられなくなるのだろう。これは一つのイデオロギーであり、強制を伴うものなのである。そうでないなら、どんな歌でも良いはずだろう。

いろいろ粉飾されても、争点はただ一つ「天皇賛美」である。反対者が頑強に譲れないのは、民主国家日本の存亡に関わる重大事ととらえているからだ。ここを踏まえて「ピアノ裁判」を論じよう。

2005/3/30

一神教 投稿者:なまはげ  投稿日: 2月 5日(土)22時00分31秒

今回は愛子様のお相手をして、日本の「神道」について少しお勉強をしておこう。

世界の宗教は、「一神教」と「多神教」に分類される。ところで、
数ある世界の宗教の中で、「一神教」はいくつあるか、挙げてごらん。

答は3つしかない。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教だ。
世界中見渡して、歴史をさかのぼって、この中東の砂漠地帯で生まれた3兄弟宗教以外に一神教があったら、教えていただきたい。

そしてそれ以外は、ギリシア神話もローマ神話もゲルマン神話もインド神話も仏教(正確には無神教という学者もいる)も中国神話も朝鮮神話も、あまたある世界中の宗教はすべて「多神教」なのである。

> それを可能とするのが日本が神道という多神教を基調とする国だからです。

そんな言い方をするのなら、西洋も東洋も世界中みな、日本と同じ繁栄をしていなければならなくなるはずだが。

しかも、日本近代に形成された「国家神道」と名付けられた「神道」は、本当に多神教といえるだろうか。
日本の(一番広い使い方での)「神道」が多神教であることは確かに「常識」である。
だが、よーく見ると、明治以前の、「古神道」「神社神道」などは、確かに多神教の特徴を持っているが、明治期に薩長土肥の藩閥政府により導入された「国家神道」は、ちょっと違うのではないか。

一神教の特徴は、万物の創造主を全知全能で、人間と断絶した超越神とするところにある。
多神教の特徴は、自然現象の人格化や人間生活の投影によってさまざまな個性や形姿を付与された神々の存在にある。

大日本帝国憲法の草案を書いた伊藤博文が、プロシアに憲法を学びに行ったことはよく知られているが、彼がそこで学んだのは@「君主大権」の仕組みと、それを支えるA一神教「キリスト教道徳」であった。
(彼が渡航したわずか36年後に、ドイツ皇帝は第一次大戦の敗戦の責任を取って退位し、ドイツは君主国を止めて共和国に変身してしまうのだが。ドイツが20世紀初頭まで君主国だったことは意外と忘れられている。)
当時既に市民革命を終えていた、英米仏の憲法ではなく、プロシア帝国憲法をベースに作られたことで、「明治憲法」は、絶対君主制の特徴を持つと同時に、すぐれて一神教的憲法となるのだ。

「天皇は神聖にして侵すべからず」とは、何と一神教的表現であろうか。
そして『教育勅語』が発布されるのは、憲法発布の翌年である。

明治に創作された「国家神道」における天皇のイメージは、日本古来の伝統である「多神教」的イメージではなく、西洋宗教の一神教的神に祭り上げられてしまった。

一神教における神とは、全知全能・無謬で、人間一般を超越した存在であった。それ故に、神の命令は絶対であり、問答無用であり、謹んで服すだけのものなのである。
唯一神アッラーを信仰するイスラムの民を思い浮かべられよ。

アッラーの教えを守る闘いはジハード(聖戦)であり、ジハードに死すものは必ず天国〔靖国神社〕に生まれ変わることが出来る。「アッラーフ・アクバル(アッラーは偉大なり)!」〔天皇陛下万歳!〕と叫んで、自爆テロに散るイスラムの若者の姿は神風特攻隊の大和益荒男と何とそっくりであることか。
これこそ典型的な一神教の姿なのである。


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予備校からの警鐘 投稿者:なまはげ  投稿日: 2月 5日(土)21時59分30秒

どうやら@@@殿との議論は、一回お休みのようなので、
ちょっと目先を変えて、最初に受験と教育について考えてみよう。

奇しくも、2つの予備校が足並みを揃えるように、高校教育の現状に警鐘を鳴らす文章を発表しており、なかなか興味深いのでその一端をご紹介しておく。

まず駿台予備校の広報誌から、
【高校と予備校の役割逆転?】(SUNDAI FRONTIER 2004.12特別号)
 駿台では、教委や高校の「予備校の教え方」を学んでみたいという要望に応えて、「教育研究セミナー」を主催し、これまで8500人の参加者を集めてきたそうだが、そこで聞かれるのは、意外な反応だ。

 教育研究セミナーで、講師が教員に伝えているのは、
  「大学入試のためだけではなく、将来にわたって役に立つ基礎力を教える」
  「受験テクニックではなく、教科のおもしろさも伝える」
 という、極めてオーソドックスなもの。
 予備校といえば「受験テクニックを効率よく教授する場」という先入観を持つ教員が多い中、教育研究セミナーに参加し、実態を知って驚く参加者は多い。
 ここで改めて考え直していただきたい。教育という人間の根源的な部分に関わる営みに、即効薬的な処方箋はないということをだ。
 小手先のテクニックや、目新しさ、奇抜さ、に心奪われることなく、あらためて教育の原点を見つめ直す必要が問われている。

続いて、河合塾の元進学情報センター所長の著作から、
【第二次ベビーブームが転換期】河合塾(丹羽健夫『予備校が教育を救う』文春新書)
 予備校のお家芸である知識の記憶、ドリル、正解発見のテクニック、こういったものを生徒は高校で散々やらさせてきているのだ。だからその繰り返しをしていたのでは、生徒は逃げてしまうと講師たちは言うのだ。
 「じゃあ、あなた方は教室で生徒に対して何を教えようとしているのだ」
 「俺は生徒たちが高校でやり残してきたことを教える」
 「やりのこしてきたことって、どんなことですか」
 「いいですか、生徒たちは答の出し方は教えてもらってきているが、なんでこの問題が出されるかとか、なんでこうすれば正解が出るのかとか、なんでこの教科を学ぶのかとか、本質というか教科の根っ子の部分を考える教育をほとんど受けてきておらん。だから教科の根っ子のところ、本質の部分を教える。それしかない。」

…1980年代後半の話だそうだ。そのあたりから、予備校は少しずつ変わってきた。
 これまで、高校と予備校の間には不文律の分業があった。高校では教科の本質を教える。入試の正解を出すテクニックは予備校で教える。ところが、いつの間にかそれが逆転していると、予備校側が声を大にして訴えているのだ。この現状をどう考えればよいのか。文科省?教委?高校?教師?保護者?誰が高校を予備校化しているのだ。
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言論の自由 投稿者:なまはげ  投稿日: 1月29日(土)22時34分54秒

私には読解力が乏しいようだが、(・∀・)殿も人の意見が耳に入らないタイプらしい。

既に回答は終わっているが、もう一度復習してみるか。

> 日本では思想信条の自由は保障されてるからね。どんな思想でも語るのはokでしょ?

これは、貴殿の考えか? それとも私がそう言ったといいたいのか?
「どんな」思想でも語るのはok!?www あまりにも単純な「言論の自由」論!www

もう一度、前回の例出す。これが「言論の自由」か?
 「ブスをブスって言って何が悪い、表現の自由を認めないのか」
 「ボクは無免許だけど、人間は皆平等なんだから、車運転して何が悪いんだよ!」
 「ボクは確かに裏口入学だが、この世は金だという信念に文句があるか」
こういうのを身勝手という。まさか、憲法がこれらの表現を保障しているなんて言わないだろうな。「どんな思想でも語るのはok」と思いこんでいるとしたら、貴殿の大好きなアナーキーそのものだ。これでお分かりいただけるだろうか。

まず前提が「印象操作」だから、後の質問はこじつけ、詭弁で、ほとんど無意味だが。

> 時と場所さえわきまえてればねwwww

お得意の決まり文句だが、「どんな思想でも語る」こと自体が、自由ではなく身勝手なんだから、「時と場所をわきまえ」ようが何しようが、ダメなものはダメ、一方良いものは、気に入らない反対意見でも表明する自由が権利なのである。「時と場所」を言論の条件とするとは、何か法的根拠からおっしゃっているのか、教えていただきたいものである。

> 「モヒカン君」にも「力が支配する荒廃した世界」を望むという立派な思想信条があるのですよ♪どんなに奇異に見えても一応保障されますよね?w

「モヒカン君」の奇異な思想は、残念ながら、一応も二応も保障されない。はっきり申し上げておく。

再掲■世界人権宣言第30条 〔権利と自由に対する破壊的活動〕
 この宣言のいかなる規定も、いずれかの国、集団又は個人に対して、この宣言に掲げる権利及び自由の破壊を目的とする活動に従事し、又はそのような目的を有する行為を行う権利を認めるものと解釈してはならない。

わざわざ「モヒカン」の思想的背景を「破壊的思想」に設定されているが、それは、他人権利や社会全体を侵害するものだから、許されてはならないものだ。間違った権利と自由の行使を戒める、世界標準の規定の意味が、ご理解いただけないか。これを本気で「立派な思想信条」と考えてるのなら、失礼ながら小学生レベルのおつむと言わざるを得ない。世界標準の規定に照らせばそうなるし、どう考えても奇異としか思えない。もっとも「モヒカン」が破壊思想とは関係のないただのファッションだったら、その場合の回答は前回の通りである。

> 先生達も卒業式中や授業中に自分の思想信条を主張せずに、勤務時間外にトサカを上げろと。www

誰か授業中に「自分の(プライベートな?)」思想信条を教授したか。「憲法の学習」はどの教科・教科外活動も含めてあらゆる場面で為されるべきものであり、勤務時間外にやって何の意味がある。学校の中で行われてこそ意味がある。
卒業式での不服従を非難するのは、ソクラテスに弁明は自室ででやれというようなもの、隠れキリシタンに踏み絵をふんでから信仰しろというようなもの、「親を銃殺せよ」という職務命令を実行してからその無効性を主張せよというようなもの、そして内村鑑三に儀式の中で教育勅語に敬礼しなかったのは教員にあるまじき行為と非難して退職に追い込んだ井上哲次郎と同レベルの話であり、帝国憲法下の日本と変わらないことになってしまう。日本が新憲法を制定したことをお忘れになったか。貴殿のトサカは上げ下げできる便利なものらしいが、そんなカメレオンみたいなトサカはそもそも持ち合わせていない。

2005/2/14

ABA実行者 さん へ 投稿者:在日地球人  投稿日: 1月 6日(木)01時54分4秒

 障害の程度がよくわからないので一般的なことしかいえないのですが。
 たとえば、これもドイツの例ですが、非行少年の更生教育方針を大幅に改編して、一切の強制的訓練をやめ、個室を与え、毎日動物たちと遊ばせ、落ち着いた頃にマンションを借り切ってその子のためにしばらく擬似家族を作って毎日仕事に送り出す。これで更生させるが、困ったとき悩みがあったときはいつでも施設に戻って来てよい。そのための個室も用意してある。以上の方針に転換した後は、日本と同じように強制的な訓練に明け暮れていたときには、7割を超えていた再犯率が、2割以下に落ちたそうです。
 にもかかわらず、強制的な訓練の方で初めて立ち直れる人も必ず何割かいるはずだと、私も思います。教育の難しさはこんなところにもあります。個々に応じられるゆとりと、現場の判断を支援する教育が理想ではないでしょうか。
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(・∀・) さん( 1月 3日投稿)へ 投稿者:在日地球人  投稿日: 1月 6日(木)01時31分47秒

「権力は嫌いだが、弁護士や大学教授、ユネスコや国際規約人権委員会等の権威は大好き。上から決められると反発している先生達が、…」
あなたは何事についても上から押さえつけられるのは嫌いという、民主主義の申し子のような人ではないかと、常々私は感じていますが(勝手な誤解かな?)、そろそろチャカスのはやめて、自分のスタンスをはっきりさせたほうがいいと思いますよ。正しくなければ、ユネスコもへったくりもないでしょう。そして自分の生が向かう方向がはっきりしていなければ、何が正しいなんて言えないでしょう。それは、実は知識の多さでさえありません。「ソロモンの財宝を尽くしても、野に咲く一りんの花の美しさにかなわない。」「金持ちが天国に入るのは、駱駝が針の穴をくぐるよりも難しい。」というイエスの言葉が正しいと信じた人々は、知識の多さゆえにそう思ったわけではないのですから。

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@@@ さん(12月31日(金)07時投稿)へ 投稿者:在日地球人  投稿日: 1月 5日(水)23時32分36秒

1、現憲法は、基本的人権を(多数決によっても侵せない)不可侵の永久の権利としつつも、(多数決によって成立する)政府が、これに反する行為や憲法・法令・詔勅を発令しうることを予想して、これらを「排除する」と明言しています。「思想および良心の自由」などの基本的人権に反する法律および命令には「不服従の義務」が、公務員には負わされていると解せます(第十章)。
2、そもそも天皇制を象徴する日の丸の掲揚・君が代斉唱をともなう入学式卒業式は、明治以来の天皇神格化教育の要請の下、国民臣民化の教育上最も重要な儀式として、ギリシャ正教の儀式を模範として厳粛厳格なものに創リ上げられていったという経緯があリます。登壇する度にいちいち旗に向かって礼をするという異様さは、「私はあなた様の忠実な臣民であリますよ」というまことに情けない反民主主義的な天皇崇拝の宗教的儀礼として発案され、良心・信仰の自由を圧迫しつつ一律に強制されてきたわけです。アジアを中心としてこの上ない悲惨な不幸をもたらした先の大戦において、天皇個人には戦争責任はなかったという世界には通用しそうもない意見もあるようですが、少なくともそれが、あらゆる批判を封じ専制的に国民に「隷従」を強いてきた「偏狭」な天皇制がもたらした惨禍であったことだけは、現憲法の前文からも明らかでしょう。
3、当然のことではあリますが、http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/11/09/990906i.htm (特に学校での取り扱いのところ)にもあリますように、いわゆる西欧の民主主義先進諸国の間では、このような厳粛な卒業式入学式も国歌国旗の取扱いぶリもあリません。民主主義を象徴する国旗国歌であってもです。現憲法は、政府が再び国家主義的な過ち、「戦争の惨禍」をもたらすような間違いを犯しうることを警告し、民主主義や基本的人権を抑圧することがないように、またそのような時代状況の再来も予想して、表現や信条の自由を保障し、その前文ではこのような「人類普遍の原理」に反する「一切の憲法、法令および詔勅を排除する。」といい、これに基づく教育基本法では、憲法に基づく自主的で民主的な文化の創造は、「あらゆる場所で実現されなければならない。」ともあリます。また、民主主義と自発性を育てる場である教育現場に、「強制」がなじまないのは、国際的な常識として「ILO・ユネスコ勧告」や「子供の権利条約」「アムネスティの表明」でも明らかであリ、さらに、学習指導要領の法的拘束力は限定的なものであリ、それやそれに基づく通達よリも、当然憲法や教育基本法は守るべきよリ上位の法であリます。(学習指導要領で法的拘束力があるのは、科目履修時数などであリ、あとは大綱的で指導助言的なものに過ぎません。)

参考資料
アムネスティ日本 <info@amnesty.or.jp>
<http://www.amnesty.or.jp/>

アムネスティ・インターナショナル日本
「君が代」斉唱の強制に強い懸念を表明
http://www.incl.ne.jp/ktrs/aijapan/2004/0406090.htm

4、教育公務員はその本来の職責において、民主主義が危機的であるという状況の中でこそ憲法第99条に基づき、国家主義的な過ちを犯しうる行政の不当な支配に屈することなく、現憲法およびそれよリ更に上位の法でもある「人類普遍の原理」たる基本的人権を、市民とともに「尊重し擁護」し、この憲法の民主主義と徹底した平和主義の実現と発展の方途を積極的にもとめて、最大限の叡知を絞リ「不断の努力」をはらうべきだと思いますが、いかがでしょうか。

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(・∀・) さん(12月31日投稿)へ 投稿者:在日地球人  投稿日: 1月 5日(水)23時11分4秒

 共産主義者でも社会主義者でもないので、弁護する必要はないのですが、彼らの過ちに対して確かについ甘くなってしまう理由についてだけは、反省を含め、少し補足させてください。
 餓死者が出るほどの貧富の差を背景にして贅沢三昧の暮らしをしていた王政を、多くの流血を伴う武力革命によって打ち倒すことで、人類史上初めて誕生したのがフランス革命による近代民主主義でした。ここに初めて、すべての人間の自由と平等が宣言され、政治的制度として確立されたのでした。以後ほとんどの革命が流血を伴いながら成立し、各地で民主主義が確立されていきますが、「近代民主主義とその展望」(福田歓一・岩波新書)によると、その一方の極がアメリカであり、自由を重視して経済的強者による平等性の軽視という問題を残し、一方の極がソ連で平等性を重視する全体主義的体制によって個人の自由を軽視するという問題を残した、と言われています。
 すべての人間の自由と平等の確立のために、「能力に応じて働き、必要に応じて受けとる」社会の実現を目指す共産主義は、民主主義の一つの極の姿なのです。歴史的経緯からいって、それは流血を伴う武力革命以外には実現できない、と言う考えを克服できなかった点が、やがて人命を軽視して暴走する多くの間違いを生んできたのだと思います。ハーバーマスが言っているようなことも、70年代前半までだったら、左翼小児病と一笑されて終わったでしょう。多量の情報のグローバルな共有と言うまったく新しい状況によって、彼の言の正当性に光が当てられはじめたわけですが、実は世界的には貧しい国々の餓死者の数も南北の経済格差も小さくなっているわけではなく、むしろ大きくなっています(「地球環境報告」 石 弘之)。
 多量の(馬鹿げた)情報の氾濫という新しい支配構造の中で、私たちの政治的良識が力を失えば、暴力以外にどうやって貧しい人々が飢えから解放されるのだ、という問題に応え非暴力で民主主義を広く実現するのは、より難しくなるでしょう。これが私たちの21世紀の課題なのです。
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妄想は,独り日記にでも書いてろ 投稿者:自由の敵は眠らない  投稿日: 1月 3日(月)15時18分8秒

「論理的にモノを考えられない」と自ら認めてる人や
 議論の土俵である刑法234条の「威力」の意味を解せない人が
 懲りずにゴネています

まず,先生の「着席をお願いします」は,父兄に対し希望を述べたものであり,人の意思を制圧する「どう喝」とは異なる

この時に生徒は不在だよ!

信頼関係に乗じて生徒を操ろうとした…みたいな幻想の上に,空論を展開しているが,下らんからやめとけ

また先生は,失敬な教頭が腕を掴んだから,「離せ」と言ったまでで,始まってもいない式に向けた「妨害の故意」などない!

分かったかのう?

2005/2/14

分かり易い! 投稿者:自由の敵は…  投稿日: 1月 2日(日)19時56分30秒

なまはげさんのは長文ながら,分かり易くて,すーっと理解できましたよ
 憲法は個人を尊重する「自由の基本法」です
 だから「公共の福祉」なんて言葉も,権力側の勝手な解釈を許してはいけません
 憲法が国の機関に権力を授けたのは,個人の尊重を全うするためです
 なんか変だぞ!?と感じたら,誰でも問題を指摘し,意見を述べ,是正を求めることができます
 その主張が正当てあっても,その個人が「社会の多数派」とは限らないので,多数決(民主主義)にも限界があります
 お上や与党は間違えない…こんな妄迷は,自由の放棄に繋がります



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12/31@@@殿2〜公共の福祉 投稿者:なまはげ  投稿日: 1月 2日(日)18時20分36秒

@「公共の福祉」が、「基本的人権」を全面的に制約するわけではない。
 もし、この言葉で基本的人権が全面的に制約されるなら、旧憲法の「臣民としての権利(法律の定むる所に従ひ)」と、どこが変わるというのか。
 新憲法の「国民の権利」が、法律上の制限なく「国政上最大限尊重される」(第13条)、「犯すことの出来ない永久の権利」(第11条)であることは、中学校の教科書にも載っている基本常識だ。基本的人権が、まず先にある。

Aただし逆に、「基本的人権」は、「何をやっても良い」自由ではない。
 以前「自由の理」投稿で触れた通り、いかに「不可侵」「永久の権利」といっても、「他人の権利を侵害する自由」(殺人、泥棒、無免許運転など)は認められない。では、権利と放縦はどこで線引きされるのか。それを簡潔に表現する言葉が「公共の福祉」なのである。

B「公共の福祉(public welfare)」は、なぜ必要か、その正しい使い方。
 ワイマール憲法(1919独)が嚆矢。一例「所有権は憲法により保障される。…その行使は同時に公共の福祉に役立つものであるべきである。」(153条)
 大事なのは、財産所有者(強者)の権利行使に制限を加えることで、大多数(弱者)の最低限の生存権を守ろうとする視点。産業革命時の経済的「弱肉強食」の反省から生まれた歴史を持つ。(「王様」の無制限な自由が、人民の奴隷化を生んでいた→王権を制限することで、人民の自由を保障する、と同じ論理。)
 自由権はおろか生存権すら侵されがちな社会的弱者(労働者、女性、子ども、老人、障害者、少数民族…)の最低限の権利を保障するために、生まれた概念である。従って、社会的強者(一番は国家・政府)が、弱者の権利制限に使おうとするのは大きな誤用。(パブリック=公衆とは「お上」ではない)

C「公共」が「お上」の意味で使われると、憲法以前の絶対主義国家。
 ワイマール憲法の「公共の福利」〈Åffentliche Wohlfahrt〉が、ナチス時代に私益に優先する「公益」〈Gemeinnutz〉の意味で、全体主義のシンボルに衣替えしてしまう。
 こうなると、「公」は、権力が個人のいっさいの生活領域に介入する旗じるしになってしまい、これでは、基本的人権の全否定だ。2つは似た表現だが、意味するところは180°逆であることに要注意。

D「公共の福祉」で、何が制約され、何は制約されないか。
 制約例。他人の名誉を毀損する言論を犯罪として処罰することは、行為者の言論の自由を制限することにはなるが、この制限は、他人の名誉権を保護するためにはやむを得ないことであり、「公共の福祉」の考え方により説明することができる。
 非制約例。そもそも他人の人権との衝突の可能性のない人権については、「公共の福祉」による制限の余地はないと考えられている。これは「精神の自由」一般が該当する。
 判例は、営業の自由等の経済的自由を規制する法令については、立法府の裁量を比較的広く認めるのに対し、精神的自由を規制する法令等の解釈については、厳格な基準を用いている。(学会では「二重基準説」と言うらしい)

※最後に、日本の法律には、「公共の福祉」の適用に明確な線引きがない(法律による定め)。このことが、日本も批准している「国際人権B規約」に抵触するという勧告が、国際規約人権委員会からなされ、日本政府は、我が憲法では明確な規定がないことを認めた上で、判例により正しく運用されている旨の回答をしていることを付け加えておこう。(1997)

結論:私たちのちっぽけな「思想良心の自由」を守ってくれるのが憲法なのである。憲法を守ることが、「お上」に逆らう形になっていることが今の日本の不幸だが、「お上」に逆らうことと「公共の福祉」に反することとは全く別であり、「お上」こそ国の最高法規をしっかり守るべきなのである。

第15条(公務員は全体の奉仕者)については、
「全体」とは、当然主権者である「国民全体」(public)のことであり、国家権力とか政府(authority)のことではない、というのは近代立憲国家なら常識であろう。かつ公務員たるもの「憲法尊重擁護義務」(第99条)の義務を課せられているのであるから、一党一派一個人の政策やイデオロギーに左右されることなく、憲法の定めに従って行動するのは、公務員として最も正しく正義にかなった態度なのだ。

編集済



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> 12/31@@@殿1〜お上に異を唱える権利 投稿者:なまはげ  投稿日: 1月 2日(日)18時19分26秒

正月三が日くらい、難しい議論は避けてのんびりしたいと思ったが、投稿規定によると私も管理者側(回答する側)に分類されるようなので、この土日を逃すと、来週の土日まで、登場の機会が認められていない。そんなわけで、取り急ぎ投稿させていただく。長文になるが、読んでいただければ、幸いである。

1,最初に、天皇発言に反応なさったが、
 天皇発言は、誰が言っても(身分、学歴、経済力等々)、「正しいことは正しい」の観点から引用させていただいただけだ。お気に召さなければ飛ばして読んでいただいても結構。論旨に変わりはない。
 ただ、もし、天皇発言に特別の重みを感じる天皇崇拝のお考えの方がおられたら、この発言に対し、どう身を処されるのか逆にお聞きしておきたい。天皇のご発言は全部正しいと受け止められるのか、それとも自分の判断の方を優先して時に天皇を無視することがあっても良いのかどうかを。

2,先に、結論部分から反論させていただく。
> そちらの主張は全て、学習指導要領や職務命令が明らかに違憲であってはじめて成立する。
 それは違う。「明らかに違憲」とはそんなに簡単なことか。100人が100人意見が一致する事例など存在するだろうか。司法判断の前に、「明らかに違憲」と断定できるなら、第32条(裁判を受ける権利)など不要になる。貴殿にも、私にも、素人には、「断定」できない。(もし貴殿が専門家だったら失敬)
 お上の決定だから「合憲」と推定して取り敢えず従っておこう、という態度がいかに危険か、一つの例をあげる。
 薬害エイズ問題は、国と製薬会社が責任を認めて和解(損害賠償)が成立した(刑事は進行中)。非加熱製剤が使われていた当時、多くの人は厚生省が認可する薬が「明白」に違法だとは認識していなかった。米国では既に危険が証明され使用禁止となっていたらしいが、国内では一部の少数者が使用中止を訴えていただけだった。その時点で、取り敢えず「明らかに違法だとは決められない以上それに従う」道を選んだ人たちは、悲惨にもエイズウィルスに感染し為す術なく命を縮める結果になってしまった。まさしく取り返しの付かない被害が生じてしまった。金銭の損害賠償で済む問題ではない。「お上」だって絶対ではない、間違えることもある。(間違った後の態度も問題だが)。所詮、不完全な人間がやってる仕事である。おかしいと思ったら、異を唱えても良いのだ。それは最初は、いつでも少数の声かもしれない。だが事の正否は数では決まらない。(特に科学では明解だ。「それでも地球は回っている」のガリレイは少数派だったが、教皇の権威とそれに阿る多数派が天動説をいくらエラソーに言い張っても、決して太陽の方が地球の周りを回ってくれることはないのだ。)
 思想や政治の問題は科学のように、100対0とはいかない。そこで、利害の調節を図るルールが作られて、それを民主主義という。ルールの中味が「法」であり、法の最高規定が「憲法」であり、万人がルールに従う約束が「法治主義」なのだ。

私たちは、文科相の学習指導要領運用や、都教委の通達・校長の職務命令が、憲法違反であることを、ルールに従って訴えている。「取り敢えずお上の命令は正しい」との無根拠の推定に従えと言うのは、思考能力を捨てて奴隷になれというに等しい。私たちは一茎の考える葦として、また一個の主体的な人格として、憲法に保障された「意見表明の自由」「思想良心の自由」を主張していく。

3,憲法を守ることについて
 貴殿に、私たちが憲法遵法者であることを理解してもらえたとしたら嬉しいし、貴殿にも憲法の尊重が国民にとって一番大切であることに同意していただけるならもっと嬉しい。
 その前提で、憲法のすべての条文を守れとおっしゃるなら、それこそ私たちの望むところである。憲法は一本の理念に貫かれており、憲法を尊重するとは、自分に都合の良い一部だけ利用することでは当然ない。私が限られた条文をあげたは、直接関わるものだけに絞ったわけで、憲法のすべてを尊重することは言うまでもない。
 さて、貴殿が疑問として、第12条、第13条を引用したのは、「公共の福祉」の文言があるからであろう。この言葉こそ、誤解して流布され、憲法論議の争点となるものだから、じっくり反論させていただこう。(続)

2005/2/14

> ABA殿 投稿者:なまはげ  投稿日:12月31日(金)19時17分54秒

統計によれば、出生時に障害を持って生まれてくる確率は100人に3.6人なのだそうだ。
私の義理の妹も障害者手帳を持っている。誰もが身近に考えて当たり前なのだ。
とはいっても、数の上ではやはりマイノリティであり、効率万能社会の中では、無理解の壁がまだまだ厚い。貴殿を始め当該家族のご苦労には頭が下がる。
以下、私の考えを記す。障害者教育の基本は、次のことだと聞いた。
@障害者も健常者も平等である。A障害者と健常者は画一ではない。

@一人の人として、この世に生を受け、人間らしい生活を営み、幸福追求する権利は、誰にでも等しく認められる。(肌の色、性別、年齢、経済力、社会的地位など、あらゆる人間の差異について言えることで、障害のあるなしだってもちろん同じだ)
A人間は一人一人全部違っており、違い(個性)は尊重されなければならない。
こちらは、区別(差別ではない)は必要なこと。逆に区別をしなければ「悪平等」になる、ということを意味している。

男と女の違いが、分かりやすい。男女平等とは、「同じトイレ」「同じ風呂(混浴?)」「同じ更衣室」「スポーツ競技も男女一緒」とかのことではない。これは「悪平等」であり、男女の「違いに応じて」待遇するのが、本当の平等なのだ。
(念のため、同じ仕事をして給料が違ったり、女だけ定年退職年齢が若かったりするのは、言うまでもなく差別である。根拠なく社会的待遇に差をつけてはならない。)
障害児と、どう付き合うか。運動会の時、健常児と一緒に走らせなければ、差別って言われるのかな、同じ教材を与えなければバカにしているみたいに思われないだろうか、というのは間違いだし、逆に健常児から、先生あの子にばかり特別扱いしてずるい(体育は免除とか、テストの量を減らすとか)とか言われてひるむのも、間違いである。
違いに応じて、適切な対応をするのが、人間らしい待遇でよいのだ。無理に画一に扱おうとすれば「悪平等」でかえって苦しめることになる。「違った待遇が当然」ということは、生徒たちもちゃんと説明すれば理解する。

遠回りになるが、自閉症児に行動療法を行うのは、それが効果があるなら正しい教育なのだ。人間としての尊厳を身につけていくプロセスとして、必要なことは堂々と実行すべきだし、健常者向けの教育と形が違っても気にする必要はない。その子に一番相応しい教育を行うのが、人間らしい対応をしていることになる。

ひるがえって、健常者といえども、幼児期は誰でも同様だろう。しつけ優先。
しかし、分別盛りになってもなお、自閉症児に有効な教育方法をとっていては、
その子達に不幸だ。個性に応じた扱いを受ける権利が、どの子どもにもある。
私が言いたいのは、自閉症児に有効な教育が健常児に有効とは限らず、
健常児に有効な教育が自閉症児にも有効とは限らない。
それは差別でも何でもなく、正しい区別に基づく待遇なのである。
そして、方法は違っても、いずれも子どもを一人の人格として扱っている点では共通である、ということだ。
@とAは、相反するように見えても、実はひとつのこと。
だからこそ、@の平等な自由権を、権力への盲目的な服従で否定するような言説は、どんな子どもたちでも、人間扱いしない傲慢な考えとして、受け入れることが出来ないのだ。

他にもご意見があったかも知れませんが、もう紅白の時間なので、本日はこれで失礼。




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> @@@殿2 投稿者:なまはげ  投稿日:12月31日(金)19時16分30秒

それに比し、あなた方が持ち出す、「職務命令」とか「学習指導要領」とかは、下位法や行政命令に過ぎない。それが最高法規の憲法と矛盾するなら、どちらを取るのが、日本を心から愛する国民として正しい選択か、明らかであろう。
一校長(行政の末端ではあるが権力をゆだねられた公務員)が発する「職務命令」など、当然、最高法規に則っていなければ、無法、無効となる。校長が「裸で街中を歩きなさい」とか「銃で親を殺しなさい」とか(ありえない極端な例を出すが)、「職務命令」を出しても、教師はもちろん従う義務はない。拒絶できるのは、上位法によるのであり、その場合「職務命令」を出した側が、無法者になる。校長は上の命令に従い、そのまた上から命令があり、それが行政組織であるが、東京都では教育長がトップだとすれば彼が無法者なのである。
教育長は何に従う?文科省?では文科省は?…結局のところ誰が一番この国のご主人様かな?お忘れなら思い出させて差し上げましょう。わが国は国民主権の国である。ということは一人一人の国民の自由意志が国を動かす国家体制なのだ。首相も文科相も教育長も、公務員はみな公僕である。第99条の憲法擁護義務をもう一度確かめて見よ。憲法から逸脱した行為も、命令も、公務員は一切勝手に為すことが出来ない。「君臨すれども統治せず」たかだか公務員の長くらいの分際で、国王も出来ないことをやろうとしてはいけない。天皇陛下ですら「強制は望ましくない」と述べられたではないか。それを誰がどんな権限で強制しようとしているのか。法治国家の原則を踏み外せば、近代的な国際社会の笑いものになるだけだ。
もちろん校長らも人間だから、うすうすやりすぎではないか、と内心恐れてはいる。しかしもしかしたら、今の司法なら、これ位のこと合憲と言ってくれるのではないかと淡い期待を抱いて、上司の命令に盲従している。情けない。これは、日本国民としても、道徳を持つ人間としても、最もみっともない身の振り方である。理性と良心を持つ人間ならば、正義の原則に基づいて身を処してもらいたいものだ。ソクラテスのように、とまでは言わないが。

司法判断がどう出るかは、正直言って予断を許さない面がある。ただ、拒否の理由を明確に表明している者に対して、あえてその「思想の表明」に反論も説得も避けて、命令違反だからという外形的事柄だけで、処分をちらつかせ強制するというやり方は、前近代的「踏み絵」そのものであり、その時点で法治国家の原則を外れているということも、司法判断が出る前に指摘しておこう。

最後に、権力的に強制する者こそ、憲法に違反する、@公務員失格者(99条)であり、A法の支配に服しない前近代的独裁者であり、B非国民である、と申し上げておこう。




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> @@@殿1 投稿者:なまはげ  投稿日:12月31日(金)19時15分58秒

アナーキーとは、無政府の「状態」を指し、身近な例では、しきりに、この掲示板で、誹謗中傷レッテル貼り罵詈雑言いかなる言論でも掲載させろと騒いでいる人たちの思想のことをいう。
で、何か、おかしいか。
> いかなる投稿も採用せよといった覚えはない
とおっしゃるなら、あなたは別。節度ある議論は大歓迎。

次に、
> 職務命令と言う一つの規律に背き起立拒否に及んだ教員を擁護する方
という下り、不起立者をあたかも無法者呼ばわりする決まり文句のような、こういった難癖が繰り返し登場するので、これについてはきちんと説明しておきたい。

不起立者は、@遵法者である。さらにA民主主義者であり、B平和主義者でもある。

まず、@から、
まさか不起立者を、いかなる法にも服さない自然人とでも思ってはいないとは思うが、
彼らこそ、誰よりも、法を尊重し、自らの行動を愚直なまでに正義の原則に照らして判断する近代人であるといいたい。
法の支配<the rule of the law>とは、17世紀イギリス権利章典で確立された原則で、立憲国家では「君臨すれども統治せず」と、国王といえども議会(国民の代表)の立法権に服するという、近代法治国家のあり方を示した言葉だ。(中学生並みの知識をひけらかすこともないが)
近代人は、理性的・自由意志・個性尊重を身につけた存在のことである。神秘的・禁欲的・権威主義的な、中世封建社会から訣別してヒューマニズムをうたい上げて、近代は始まる。

回り道をしたが、不起立者が何よりも大切にし、自己の行動原理とするものは、国家の最高法規である「憲法」である。
憲法第9条(戦争の放棄)、第19条(思想良心の自由)、第20条(信教の自由)、第21条(表現の自由)、第22条(職業選択の自由)、第23条(学問の自由)、第97条(基本的人権の本質)、第99条(公務員の憲法尊重擁護義務)、
これらを、一主権者として愚直なまでに遵守しようとする精神が、不起立に結びついている。憲法を守りたいから、起立するわけにはいかないのだ。

なぜ「君が代強制」が、憲法違反となるか。ここは、こちらの言い分を、そちらもご存知だろうから、今回は軽く流すが(必要とあらば機会を改めて)、「君が代」は軍国主義日本のシンボルとして使われた歴史を持ち、歌詞の内容が国民主権には相応しくない。反平和主義を自らも歌い、子どもにも歌うことを強いるのは、憲法の基本原則に反する。国民の代表が定めた憲法の精神に則って、教育を行い、自らの行動を律することを、彼らは(私も)誇りに思っているのだ。



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