当ブログの運営者は工藤英勝です 近代仏教史家で、とくに近代仏教と東アジアとの関係論に関心があります このブログではとくに朝鮮と日本宗教にかかわる問題とくに植民地布教についての資料とデータを提供いたします 大きな歴史認識や歴史解釈ではなく、諸事象と人間がどう動いていたのかを解析していきたいと思います 資料やデータにかかわる具体的なお尋ねには回答いたします

2018/11/28  5:00

人権思想の本当の起源とは?  差別と人権

人権(human rights)思想の起源に関する定説考

人権(human rights)という独立した概念の初出ははっきりしない

あまたの辞書や概論書などが、イギリスの思想家・ジョン・ロックJohn Lockeの『統治二論』Two Treatises of Government 1690を、近代人権思想のはじまりとしているが、この定説は覆るか少なくとも修正が必要もしれない

「人権(human rights)」という社会的概念が登場した歴史は、一般の予想に反して、さほどは長くはない

定説では、ヴァージニア権利章典 Virginia Bill of Rights 1776とされるが、原文に「第1条 全ての人は生まれながらにして等しく自由で独立しており、一定の生来の権利を有している。それらの権利は、人々が社会のある状態に加わったときに、いかなる盟約によっても、人々の子孫に与えないでおいたり、彼らから奪うことはできない That all men are by nature equally free and independent, and have certain inherent rights, of which, when they enter into a state of society, they cannot, by any compact, deprive or divest their posterity」とあるだけで、必ずしも人権(human rights)という単語が概念として確立されていたのではない

さらには、前記のヴァージニア権利章典やアメリカ独立宣言 United States Declaration of Independence 1776 や有名なフランス人権宣言(人〈男〉と市民の権利の宣言 Declaration des Droits de l'Homme et du Citoyen 1789)および、これらに核心的な影響を与えたとされるジョン・ロック John Locke の『統治二論』Two Treatises of Government 1690 にも単に「人(男)の・・・権利」とあるのみであって、独立した人権(human rights)という概念はこの時期には存在しなかった。とするならば、従来の人権思想の教科書の定説はその積極的根拠を失うことになる


人権(human rights)なる用語が独立した概念として登場したのは、世界人権宣言 Universal Declaration of Human Rights 1948 以降である

人権とは現在 human rights の訳語として定着はしているが、その厳密な起源は1948年以上にさかのぼることはない

以上の新たな知見からすれば、従来の人権(human rights)思想の淵源やその展開についての定説を再考する必要が生じるし、さらに人権(human rights)が人類史に比してこれほど浅い歴史しかもっていないということになれば、その正当性や不可侵性という原理についてもあらためて再解釈しなければならなくなる

人権思想は これほどまでに 現在でも不確定なのである
んな状態でよくも「自明な、人類普遍の不可侵の権利」などと暢気でいられようか!

さらに、従来はいわゆる人権の教科書にはほとんど採り上げられなかったある書籍がある意味、重要な人権(human rights)のルーツとなりうることも仮説として提示したい(以前の論攷ですでに発表)


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2018/11/20  20:20

差別は処罰されるべきか  差別と人権

差別discriminationは処罰されるべきか?

今日現在、さまざまな差別discriminationに対して、日本の国内法では、禁止・処罰する法規がありません
あからさまな暴力や侮辱におよぶ行為については、罪刑法定主義(あらかじめ罪に当たる行為とと刑罰を定義)にもとづく刑法処罰が定められています

近世・封建体制までは、仇討ちなどの私刑が部分的に認めていましたが、仇討ちという復讐がいつも効を奏するとは限らず、逆に返り討ちで終わってしまうことも多々あります。日本が近代的社会になっていく段階で、私刑は野蛮な封建遺制として一律廃止されて、処罰の決定と行使を国家組織に委託されています

それならば、差別行為も犯罪と規定してこれに相応しい刑罰やペナルティを課せばいいという考えも一理ありということにもなります

しかし、他の犯罪とは異なり、差別discriminationは、ある恣意的な属性や帰属集団を、単純に善悪・優劣・上下などの価値に短絡するという思想や価値観という問題が背景にあるのです

あからさまな暴行や排斥や侮辱については、従来の刑法による処分が適切ですが、差別は具体的行為以前の認識・判断・意志などの人の意識全般や差異を顕在化する言語活動そのものが関わっています

これを直接に処罰の対象とするということは、ある個人の思想や信条を国家が罰する権力を復活させるというアナクロニズムになります

国家や政治権力は、個人の内心を処罰してはならないという歴史的格率が崩壊することによる被害は甚大です

これはまったく笑えない野蛮時代への退行です

差別を憎む気持ちは同感しますが、この善意がさらに狡猾な政治権力に取り込まれて、ディストピアの出現を約束します

差別への処罰は慎重でなければなりません
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タグ: 差別行為 犯罪 処罰

2018/11/15  20:00

人権思想へのカタバシス 補遺#4  特別公開論文

●人権思想へのカタバシス 補遺4

「人はなぜ人を殺してはいけないのか?」の正解へ反論する


拙論「人権思想へのカタバシス」(正規版)のなかで、「人はなぜ差別してはいけないのか?」や「人はなぜ人を殺してはいけないのか」という設問をしました

この問いに対して、私はローマ法の占有possessio,possession原理にもとづいて解答を導きだしていますが、私の答えは一般的ではありません。というかほぼ独自の見解です

これを見ている有識者は、おそらく「そんなことも知らないのか!イギリス哲学者トマス・ホッブズが三百年以上前に正解を出しているのに」とおっしゃっることでしょう

ホッブズの正解というのは、「万人の万人にたいする戦闘状態」という逆推論です

ホッブズの逆推論は、有名ですので、あえてここでは引用しません。要は、もし人に殺人行為を認めてしまうと、トンデモない社会になるから、殺人は認めないとするのが合理的であり理性的なありかたであるという推論です

ホッブズの論はよくできていますし、人権の教科書にも紹介されていますが、私はごまかされません

私はホッブズ先生に敬意を抱いていますし、その敬意ゆえにあえて反論します

反論1
タイムスパンが短い

今から三百年前の正解とはいえ、こんなこと(殺人は認めない)に人類が気がついたのは、文字もない先史時代からですから、あまりにも時間の射程が短いのです

反論2
仮想条件の非現実性

ホッブズ先生が推論のために提示した「もし人に殺人を認めてしまったなら」という仮想条件があまりにも非現実的で荒唐無稽な絵空事ですから、最初から現実にはあり得ない理性にも反する結果になることはある意味当然です。仮想条件設定の時点で「殺人は不合理である」という結論を先取りしています。科学的推論とは程遠い稚拙な言述です

反論3
理性の過信

近代合理主義は、人間の理性へのおおらかな希望と過信があります
ホッブズは「万人の万人にたいする戦闘状態」の危機状態を回避するために、人は自然法の理性に回帰するとします。しかし、人間の理性や行動がホッブズの言う通りに展開するというのは、多分に希望的観測に過ぎません。現代史のホロコーストやさまざまなジェノサイドの事例をもちだすまでもなく、ホッブズ先生の理性にたいする過信は、哲学的判断を歪めています。人間はそんなに理性的な動物ではありません。だからと言って、最初から野蛮なだけの怪物でもありません。野獣だって四六時中殺生だけしているだけではありません

反論4
権利状態と行使段階との混同

仮に「人に殺人行為を許したとしたら」という仮定は、リアリティーがまったくないことは先ほど述べましたが、仮にそのような権利が認められたとしても、逢う人を無差別に殺傷するわけにはいかないし、殺すべき人とそうではない人がいるはずです。権利状態と実際の行使とは
異なるのです。ホッブズ先生の言う「万人の万人にたいする戦闘状態」にはならないのです。ですから、ホッブズ先生の逆推論はそのままでは成り立ちません

反論5
政治的合意や思弁の対象とはならない

殺人の正当性や差別の合理性ということについて、いろいろと哲学的思索をすることは自由にできますが、人間の生命と尊厳性についてその有無や死活については、思弁の対象とすることや政治的な合意形成による決定には馴染まないものです。仮に議論の結果、「あなたは死ぬべきだ」という政治決定が下されたとしても、こんな勝手な押しつけじたいが占有possessio,possession侵害です


ホッブズに限らず、ロールズ『正義論』でも、なぜ差別してはいけないかについて、逆推論をしていますが、一種の詭弁のようで、なんとも釈然としません

何でもかんでも、議論して合意形成すればいいということではなさそうです

政治的議論や思弁の対象とはならないことが、人権(human rights)の土台にあるのです
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2018/11/10  5:00

死刑違法のカタバシス  差別と人権

暴力否定論者が 究極の暴力を推奨することの怪

拙論「人権思想へのカタバシスcatabasis」を執筆するにあたって、「ローマ法roman law」というまったくはじめての分野に分け入ることになりました

ロマニストの碩学、木庭顕〈こば・あきら〉先生の浩瀚・超難解なローマ法関係の最近の著述(ただし論旨は明瞭そのもの)を一行一行読み解いていくなかで、(ラテン語専門用語が何の注釈もなく出ていて難渋しました)「暴力」の問題点がローマ法の蓄積によってかなりクリアになってきました

巷間の時事ネタでは、スポーツ界の暴力事件はじめさまざまなパワーハラスメント(権力による嫌がらせ)、セクシャル・ハラスメント(性的嫌がらせ)が、それこそ連日のように報道され、その関係者はあたかも人民裁判で断罪されるように扱われることへの違和感が日増しに強くなるのです

もっとも、私はスポーツそのものにあまり興味も関心もありません。所詮スポーツというのは、ある種の暴力的行為(たとえば格闘技など)にきびしいルールという箍をはめて大衆のレジャーに供するものというとても冷めた目で見ていますから、そのスポーツと暴力行為とはある意味で地続きではないかと思っています

だからといって、指導者や先輩らによるさまざまな暴力行為等を容認する気持ちはさらさらないのですが、これほど暴力断罪と排除を大合唱するマスコミや市民については、本当に暴力が悪いと思っているのだろうか? とたいへん疑問に感じています

万民に適用可能な法律という便利なツールを発見・創造したローマ人は、不法行為を占有(possession)侵害という基準でみて、身体や精神というその人にとって不可分の領域を侵す行為が「暴力」「実力行使」としています

そのようなローマ法の原則に照らして、死刑を含む身体的刑罰はどう解釈されているのでしょうか? 木庭先生の次の指摘がたいへん明瞭で有益です

「今日死刑が違法である理由は単純で、それが身体刑であるからである。残虐な刑罰とは身体刑を意味する。身体を傷つけずに死をもたらすことはできない。鞭打ち刑が違憲であることは誰でもが承認するであろう。体罰への嫌悪を誰もが共有するであろう。それでいて死刑を残存させればそれはただの矛盾である」
『新版 ローマ法案内』p.46 2017/10/30

暴力反対を絶叫する論者やマスコミが、究極の暴力行為である死刑制度を糾弾しているかと思いきや、そんなことはないのが現実です。遺族の処罰感情がどうのこうのという刑罰とはあまり関係のない視点で、法の問題が朝日新聞の特集で語られています。要するに暴力否定なんていうことは信じてもいないのでしょう。政治的に体制批判ができる道具として使っているような欺瞞を感じます

でなければ、木庭先生のことばを借りると、

それはただの矛盾である

ということになります

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タグ: 死刑 身体刑 catabasis

2018/11/3  22:30

決定版「人権標語」  差別と人権

決定版「人権標語」


毎年12月初旬は「人権週間」です

今年もポスターやパンフレットに人権標語が載ることでしょう

一月早いですが、簡明素朴で親しまれてきた決定版「人権標語」を紹介しましょう


自分がしてほしくないことは
他者にもしてはいけない



作者はあの『寛容論』で有名なヴォルテールVoltaireです
フランスの言論人・哲学者で近代人権思想の提唱者のひとりです

これ以上の適任者はいません
あまりに簡単なので標語としていかがかと疑う人もいるかもしれません

人権(human rights)思想のエッセンスがつまった東洋思想にも広がりをもつ優れものです!
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