当ブログの運営者は工藤英勝です 近代仏教史家で、とくに近代仏教と東アジアとの関係論に関心があります このブログではとくに朝鮮と日本宗教にかかわる問題とくに植民地布教についての資料とデータを提供いたします 大きな歴史認識や歴史解釈ではなく、諸事象と人間がどう動いていたのかを解析していきたいと思います 資料やデータにかかわる具体的なお尋ねには回答いたします

2014/11/1  2:00

デジタルアーカイブA  朝鮮布教統計デジタル・アーカイブ

昭和2年12月末 『朝鮮ニ於ケル宗教及享祀一覧』総目次


通巻号数  [第2号]
印刷日 昭和4年3月27日
印刷所 大和商会印刷所
発行日 昭和4年3月30日
発行所 朝鮮総督府学務局宗教課
調査日 昭和2年12月末調
総頁数 93頁(本文・附録)
寄贈者 朝鮮総督府学務局宗教課→駒澤大学図書館(401.3 2-2)
目次一覧 朝鮮ニ於ケル宗教ノ概況
朝鮮ニ於ケル享祀ノ概要
神道
(1)布教所数
(2)布教所累年比較
(3)布教者数
(4)布教者累年比較
(5)信徒数
(6)教派別内鮮外人信徒数
(7)道別内鮮外人信徒数
(8)信徒累年比較
仏教
内地仏教
(1)寺院数
(2)布教所数
(3)布教所累年比較
(4)布教者数
(5)布教者累年比較
(6)信徒数
(7)宗派別内鮮外人信徒数
(8)道別内鮮外人信徒数
(9)信徒累年比較
朝鮮仏教
(1)寺刹及僧尼数
(2)本寺(本山)別寺刹及僧尼数
(3)僧尼累年比較
(4)布教所及布教者数
(5)本寺(本山)別布教所及布教者数
(6)布教所及布教者累年比較
(7)信徒数
(8)本寺(本山)別信徒数
(9)信徒累年比較
基督教
(1)布教所数
(2)布教所累年比較
(3)布教者数
(4)宣教師数
(5)国籍別宣教師数
(6)布教者累年比較
(7)信徒数
(8)教派別内鮮外人信徒数
(9)道別内鮮外人信徒数
(10)信徒累年比較
各教宗信徒百分比
宗教団体社会事業
仏教
(1)学校・幼稚園・日曜学校・講習所・書堂及講院数
(2)道別学校・幼稚園・日曜学校・講習所・書堂及講院数
(3)学校・幼稚園・日曜学校・講習所・書堂・講院教師及生徒数
(4)諸学校
(5)其ノ他主ナル社会事業
基督教
(1)学校・幼稚園・日曜学校・講習所・書堂及講院数
(2)道別学校・幼稚園・日曜学校・講習所・書堂及講院数
(3)学校・幼稚園・日曜学校・講習所・書堂・講院教師及生徒数
(4)諸学校
(5)病院
(6)其ノ他主ナル社会事業
享祀
(1)殿ノ名称及所在地
(2)陵ノ名称及所在地
(3)歴代殿陵参奉及守護人数
(4)祠院ノ名称及所在地
附録
寺刹令
寺刹令施行期日
寺刹令施行規則
神社寺院規則
布教規則
布教規則等ニ依ル布教届等ノ様式
享祀釐正ニ関スル件


参照アーカイブファイルはこちら ⇒ pdfファイル

注意 著作権法では保護期間50年間を経過しているため、参照・印刷等の利用は自由ですが、他の著作物に転載・利用される場合には、当ブログのURLを典拠に表示ください
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タグ: 歴史 東アジア 宗教

2014/10/1  1:00

デジタルアーカイブ@   朝鮮布教統計デジタル・アーカイブ

昭和元年12月末 『朝鮮ニ於ケル宗教及享祀一覧』総目次


通巻号数  [第1号]
印刷日 昭和2年12月1日
印刷所 株式会社大海堂
発行日 昭和3年1月30日
発行所 朝鮮総督府学務局宗教課
調査日 昭和元年12月末調
総頁数 96頁(本文・附録)
寄贈者 朝鮮総督府学務局長→駒澤大学図書館(401.3 2-1)
目次一覧 朝鮮ニ於ケル宗教ノ概況
朝鮮ニ於ケル享祀ノ概要
神道之部
(1)布教所数
(2)布教所累年比較
(3)布教者数
(4)布教者累年比較
(5)信徒数
(6)教派別内鮮外人信徒数
(7)内鮮外人信徒累年比較
(8)道別内鮮外人信徒数
(9)教派別信徒累年比較
仏教之部
内地仏教
(1)寺院数
(2)布教所数
(3)布教所累年比較
(4)布教者数
(5)布教者累年比較
(6)信徒数
(7)宗派別内鮮外人信徒数
(8)内鮮外人信徒累年比較
(9)道別内鮮外人信徒数
(10)宗派別信徒累年比較
朝鮮仏教
(1)寺刹僧尼数
(2)本山別寺刹僧尼数
(3)僧尼累年比較
(4)道別布教所布教者数
(5)本山別布教所布教者数
(6)布教所布教者累年比較
(7)本山別内鮮外人信徒数
(8)道別内鮮外人信徒数
(9)信徒累年比較
基督教之部
(1)布教所数
(2)布教所累年比較
(3)布教者数
(4)布教者累年比較
(5)宣教師数(其ノ一)(其ノ二)
(6)信徒数
(7)教派別内鮮外人信徒数
(8)内鮮外人信徒累年比較
(9)道別内鮮外人信徒数
(10)教派別信徒累年比較
(11)各宗各派信徒百分比(其ノ一)(其ノ二)
享祀之部
(1)殿ノ名称及所在地
(2)陵ノ名称及所在地
(3)歴代殿陵参奉及守護人数
(4)祠院ノ名称及所在地
宗教団体社会的事業
仏教
(1)学校、幼稚園、日曜学校、書堂及講院数(其ノ一)(其ノ二)
(2)諸学校教師及生徒数
(3)諸学校
(4)病院数
(5)社会的事業
基督教
(1)学校、幼稚園、日曜学校、書堂及講院数(其ノ一)(其ノ二)
(2)諸学校教師及生徒数
(3)諸学校
(4)病院数
(5)社会的事業
附録
寺刹令
寺刹令施行規則
神社寺院規則
布教規則
布教規則等ニ依ル布教届等ノ様式

参照アーカイブファイルはこちら ⇒ pdfファイル

注意 著作権法では保護期間50年間を経過しているため、参照・印刷等の利用は自由ですが、他の著作物に転載・利用される場合には、当ブログのURLを典拠に表示ください

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タグ: 歴史 東アジア 宗教

2014/9/1  23:30

靖国問題と怨親平等  時事批評

● 時事批評 死者への「寛容さ」の向う側 −『曹洞宗報』巻頭論説に寄せて−


 わたし投稿者の関心は、死者への「寛容さ」の向こうには、靖国神社の鳥居が見えるのかどうかということである。それを自問自答するために、拙論を書くことにした。
 投稿者は『曹洞宗報』第943号(2014〈平成26〉年4月日刊)の巻頭にある「一茎草」欄に載った或る論説を前にして逡巡し懊悩している。
 その表題とは
  「靖国問題」と死者への「寛容さ」
である。
 いやしくも近代仏教史とりわけ宗教者の戦争責任論に関心をもつ者にして、靖国神社問題を看過することは許されないが、投稿者はこれを主題とした論考を発表してこなかった。このたびの「一茎草」の論説が、この困難な論点に応答する機会になろうとは当初は考えてもいなかったのである‥‥


注意 この投稿文は、工藤英勝の自主的・自発的な意見表明であり、それ以外の個人または団体・組織・機構等の見解を代弁・反映したものではありません


閲覧ファイルはこちら ⇒ 20140815_Yasukuni-Criticism.pdf
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2014/8/15  12:00

戦争は平和である!  余禄 エッセイ

● 戦争は平和である‥‥

 ジョージ・オーウェル(George Orwell)『1984年』は、ディストピア(逆理想社会)を描いた空想小説である。全体主義国家オセアニアの独裁党の三大スローガンは
 戦争は平和である WAR IS PEACE
 自由は屈従である FREEDOM IS SLAVERY
 無知は力である  IGNORANCE IS STRENGTH

主人公・ウィンストン(Winston)は、オセアニアの真理省記録局に勤務する官僚で、日夜、党の政治方針に不都合な人物や事件の記録を破棄し抹殺する(「蒸発」と呼ばれている)過去の変造の仕事に従事している。全体主義国家オセアニアは、偉大な兄弟(BIG BROTHER)によって指導され、内部の人民の敵エマニュエル・ゴールドスタイン( Emmanuel Goldstein)が憎悪の対象となり、定期的に憎悪イヴェントが国民に義務づけられている。報道は国家と一体となった党の公式発表だけであり、戦争と虐殺を正当化する情報だけが流され、それに反抗する人物や事件はすべて内密に処分されている。そんな部局に精勤しているウィンストンであるが、彼はある日自分の日記帳にありうべからざる「思想犯罪」を犯す。(オセアニアにおいては私的言語を書き綴る、人知れず日記をつける行為自体が犯罪とされる。国民の言動は私的な領域も含めて徹底管理される。「テレスクリーン」という双方向性の受像機が自動的にプライバシィーを監視!⇒最近のIT社会を想起)それは「偉大な兄弟を打倒せよ(DOWN WITH BIG BROTHER)」と五度にわたって書き綴ったのである。ウィンストンはこれだけにとどまらずさまざまな反党行為に身を染め、それがもとで逮捕拘留拷問され、徹底的に人格改造された後、かつて裏切りをはたらいた偉大な兄弟への愛を感じながら、喜んで銃殺されるという物語である。
ウィンストンは拘禁されて尋問される中、「自由は屈従である 二足す二は五だ 神は権力だ」というオセアニア特有の新語法(ニュースピーク)によるスローガンを書き記す場面がある。
この「二足す二は五だ」という表現は、単純な事実や明瞭な真理も含め、すべて過去は改変できるという党の指導方針が表れている。
これと似た表現としては、ヘルマンヘッセの

…精神の代表者の大多数は、あの暴力時代の圧迫に耐えられませんでした。ある者は屈服して、才能や知識や方法を権力者に役立てました。マサゲーテン共和国の一大学教授が「二の二倍が何であるを決定するのは、大学の教員ではなくて、将軍である」と言ったのは、有名です。…
『ガラス玉演戯』 第十一章 回章
の一節を想起させる。

実態がありもしない不誠実な政治言語も、マスコミを動員して何万回と繰り返していくことによって、既成事実を創作するという政治的な詐術は、アジアのどこかの国の状況と酷似していると思いませんか?

これに抵抗することは、イデオロギーではなく、どのような政治的必要性や要求や、それを正当化する口実に関わらず、過去の記録や出来事をいささかも「改変」も「改正」もしないという覚悟でしょう。


戦争は(自衛においては「戦争」とは呼ばず)積極的平和である」という詭弁を政治家に放言させ、それを容認し喜んでいるような状況は、先に紹介した『1984年』の主人公の結末を将来することになるとわたしは思います。
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2014/8/1  5:00

福田恆存評論集 2  ショートコラム 歴史と人間

● 平和論にたいする疑問 (1)


平和論のすべてとはいひませんが、その大部分が単に問題のための問題に終わってゐるやうです。またたいていの意見がギリシア神話みたいな傾向をもってゐるやうであります。
 世界は平和でなければならないといふこと、あるいはさうありたいといふこと、これはけっして奇抜な意見とはいへません。とにかくすぐれた頭脳によってのみ可能な個性的構想をもってゐるわけでもありません。ですから、元来、それだけを説いたからといって、専門家として口に糊するわけにはいかない。したがって、平和論はすでに活字の問題ではなく行動の領域に属するものであります。

 が、ここに問題があります。たとへば基地における学童教育を例にとりませう。学童のみならず、基地周辺の町全体がかつての平穏素朴な生活を失ひ、風儀は乱れ、その猥雑さは如何ともなしがたい状態を呈してゐる。なかでも学童のうへにおよぼす影響がいちばん問題であることはいふまでもありません。だが、それと平和の問題と、いったいどういふつながりがあるか。さういへば誤解を招くかもしれませんが、両者の間にはなんの関係もありはしない。

 私が非難してきた「文化人」といふのは、世間のあらゆる現象相互の間に関係を指摘してみせるのがうまい人種のことであります。関係さへ見つければ、それで安心してしまふ。

 なるほど、基地における児童教育問題の根柢には、日本の殖民地化といふ問題があります。またその問題の根柢には、安保條約といふものが控へてをります。さらに、安保條約の根柢には冷戦のうちに対峙する二つの世界があります。最後にこの問題の根柢に資本主義対共産主義といふ根本的な問題が横たはってゐます‥‥小さな杯を問題にするためには、それよりひとまはり大きな杯を問題にしなければかたづかない、それはさらにより大きな杯を問題にせねばをさまらない−さういふ論法が出てくるのです。もっともらしい話ですが、私にいはせれば、少々インチキです。

 戦争の初期の軍の用語に現地解決主義、不拡大方針といふのがありましたが、それとはまさに反対の方法で、現代人は問題をとはうもなく無際限に拡大していく。‥‥(現地の)ひとびとは、ねらひはあくまで基地の(学童)教育問題であって、平和論はその目的達成のための手段であると、自他ともにこころえてゐる。

 平和(論)よりなにより学童教育(問題)が大切だ、さう考へてゐるひとのはうを、なぜ私たちは信頼しないのか。これをかたづけるためにはそれ、それをかたづけるためにはあれ、といったふうに、小ざかしく物事の経緯を理解し解説して見せる人間〈文化人〉のはうを、なぜ尊重するのか。

 基地教育の問題は一例にすぎない。みんな深刻な顔をして大きな問題にとりくんでゐるあひだに、小さな問題は、とりかへしのつかぬままに、いはゆる社会問題の表面からつぎつぎと消え去っていきます。

 それは一種の現代病であって、「自己抹殺病」とでも名づけませうか、すべての現象や主題を、自己といふ主体から切り離し、遠ざけて扱ふ傾向です。‥‥ひとびと〈文化人〉は本末転倒を喜ぶ。手段と目的との逆倒を喜ぶ。それをやれば、まづ第一に、問題は自分との直接の関係から離れます。第二に、自分ひとりだけの問題ではなくなるので荷が軽くなります。第三に、さしあたってどうかうできる事柄ではなくなるので行為への責任からまぬかれます。
 平和論もそのひとつですが、まだこれだけの一般的診断ではかたづきません。


福田恆存全集 第3巻 1987年 初出 「中央公論」昭和29年12月號


 知る人ぞ知る「福田恆存」の代表的な評論です。この論説を発表したばかりに、彼は当時並み居る「進歩的文化人」連から集中砲火を浴びてしまうことになるのです。

 彼の「平和論」は当時そして現代でも跋扈している俗流「平和論」を、「拡大方針」「抽象化」そして彼の造語「自己抹殺病」と命名して一刀両断にしています。

 ある現場の直面する切実な問題を解決し、改善しようとしているのに、手段として平和論を用いているのが、小ざかしい文化人や運動家などによって、平和が自己目的化することによる現場切捨てをきびしく糾弾します。

 このような福田氏の主張を好ましからざる「保守反動」とみるのか、それとも現在でも傾聴すべき指摘と感じるのか‥‥ここらあたりに人それぞれの思想のバロメーターが現れるような気がします。

 投稿者はもちろん賛成です!
 それだけではなく、もっと先鋭化し深めなくてはならないとも確信します。

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