当ブログの運営者は工藤英勝です 近代仏教史家で、とくに近代仏教と東アジアとの関係論に関心があります このブログではとくに朝鮮と日本宗教にかかわる問題とくに植民地布教についての資料とデータを提供いたします 大きな歴史認識や歴史解釈ではなく、諸事象と人間がどう動いていたのかを解析していきたいと思います 資料やデータにかかわる具体的なお尋ねには回答いたします

2018/10/18  20:30

人権の歴史異聞  余禄 エッセイ

「人権思想は近代ヨーロッパから始まった」は本当か?



私は最近、人権(human rights)思想について調べものをする機会が多いので、素朴な疑問や理解できないことに出くわします

そんな問題をいちいちあげ始めたらきりがないのですが、その中でとくに検討を要するトンデモ定説があります

それは教科書や事典にも当たり前のように載っている次のようなくだりです

人権思想は近代ヨーロッパから始まった

論者によってその起源や提唱者はさまざまですが、オーソドックスな説明として定着しています

しかしながら、私はこの定説ですでにつまずいてしまうのです。たしかに中世ヨーロッパのルネサンス期を経て、ヨーロッパ各地で勃興した人権思想を否定するつもりはありません

しかし、よく考えてみてください。人権(human rights)という概念にもとづく思想や運動が、近代ヨーロッパ社会の産物だと規定したら、ヨーロッパ外の広大なエリアと、中世までの長い長い人類史は、人権のない野蛮な時代と地域だというのでしょうか?

民主政を創出したギリシャのポリスや、クレメンティア(寛容)の精神によって諸宗教の共存を許した古代ローマや、ヨーロッパ外の同様の歴史があたかも存在しなかったと言わんばかりです

数百年におよぶキリスト教徒同士の差別と拷問と殺戮にいいかげんウンザリしたヨーロッパ人が、人権(human rights)を見直さざるを得なかったという実状からすると、上記の定説そのものが欺瞞的です。こんなインチキな偏見をもとに立ち上げられた人権の歴史など百害あって一利なしです


人権の教科書や事典そのものが深刻な問題を抱えています

歴史観がおかしいです。何を見ているのでしょうか?

人権のなんたるかがわかっていない あるいは わかっていないこともわかろうともしない人たちが ‥‥恐ろしいことです



投稿者の勘違いと杞憂であればいいのですが・・・
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2018/10/18  20:00

道具としての概念調整  余禄 エッセイ

道具としての概念はチューニング(調整)されなければならない


人はことばをもつ動物であり、ことばによって文化を獲得して人間となったのですが、実はこの「ことば」が曲者なのです

「ヨハネによる福音書」の冒頭に「はじめにことばありき」とありますし、はじめての人類であるアダムとイヴが堕落したのも、この「ことば」であったという神話からしますと、人間の栄光と悲惨がすべてこの「ことば」に収斂されるということはおそらく異論はないと思います

固定化し制度化したことばの虚構性を指摘した仏教であっても、ことばを批判するということは、ことばを単純に否定するということではなく、ことばのもつ両義性(有効性と虚構性)を意識したものです

要は、人間はことばから離れられない存在なのですから、そのことばのあり方について十分に留意するということなのです

ことばは便利な道具です。ありもしない仮想の現実すら理論的に想像することから、科学理論は進歩していくのです

その意味では、道具としての概念は、有用性と限界があるのですから、やはり現実の状況に合わせて、適切にチューニング(調整)しないと、現実否定や理論倒れに終わってしまう場合も多々出てきます

人権(human rights)や自由や平等などの基本概念も、善いからといって、万能の力を与えてしまうのは、まちがいです。意図に反して、人権蹂躙や不自由や差別的状況をもたらしてしまうこともけっして少なくはないのです

ものごとは状況に適切にチューニングされているからこそ、有効性を発揮できるのですから―――たとえば薬にも毒にもならない微弱な作用しかもたないか あるいは作用が強すぎて毒性をもってしまうことなのか 所期の薬効が発揮できるのか そこあたりのさじ加減が概念の使用にも求められているのではないでしょうか
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2018/10/16  20:00

人権のインフレーションと空洞化  余禄 エッセイ

人権(human rights)のインフレーションと空洞化


昨今、人権(human rights)を否定する論者は別にして(とは言え、反人権思想の表明も、思想信条の自由が前提です)人権尊重、人権擁護の大合唱です

世の中の場合によっては個人的なトラブルも含め、あらゆる不平不満を、おしなべて差別や人権侵害と見なして、その人権救済を訴えます

人権は人事百般にかかわりますから、そんなの人権とは関係ないよとは切り捨てられないでしょうが、人権が普及するにつれ、それがインフレーションと空洞化を起こしているのです

さまざまな人権とされるイメージだけが増殖し、たとえば樹木の枝葉末節に目を奪われるあまり、人権(human rights)の根元が分からなくなってしまいました

これは困ったものです

いま一度、人権(human rights)の根拠に降り立つcatabasis必要があります
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タグ: 人権

2018/10/14  7:00

人権(human rights)はキリスト教由来か?  余禄 エッセイ

人権(human rights)は、キリスト教由来の思想か?


人権(human rights)についての評価のひとつに、「人権(human rights)は、神の下の平等というキリスト教文化が大前提にある」という意見があります

要は、宗教的、社会的背景の異なる日本仏教は、異質の思想である人権(human rights)にかぶれてはならないという違和感なのです

一理はありそうなのですが、よく調べてみると、かならずしもそうとも断定できないようです

人権主義一辺倒にはなじめないわたしですが、人権=キリスト教という単純化には賛成できません

なぜならば、フランス大革命期に、人権(human rights)思想を社会的な標識として立ち上げた集団は、貴族やキリスト教会などの旧体制を激しく攻撃していましたし、革命を担った人々の多くは、無神論者や非宗教的な理性主義者であったことからしますとかならずしも人権(human rights)=キリスト教という図式は「自明」なことではなく、反証も十分可能です、

西欧社会が人権(human rights)を社会的政治的な正義として公式化したのも、人類史ではやっとの数百年にすぎません

人権(human rights)思想の土台というのは、ある時代のある宗教のある階層の一過性のトレンドではなく、案外根深いものがありそうです

人権(human rights)の根拠や起源にカタバシス=降下catabasisしてみませんか?
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タグ: 人権 宗教

2018/10/12  20:30

人権(human rights)への違和感や反発からの出発  余禄 エッセイ

人権(human rights)思想への違和感や反発


職務上、日常的に感じることは、数十年も人権(human rights)ということがらに触れながらも、人権のなんたるかに確信をもてないだけではなく、強烈な違和感や反発すら覚える機会が少なくないことです

もういい加減に慣れてもいい頃なのに、どうもすんなりと人権(human rights)に同化できないでいます

お前は最初から心がネジ曲がった曲者だと叱られそうですが、正直どうしようもありません

人権(human rights)思想そのものがそうだとは思いませんが、人権を崇拝する反体制的なスローガンを叫ぶ人たちへの不信感が根底にあるのです

彼ら彼女らが叫ぶ人権は、偽善的です。自分でもやれもしないことをさも当然だと言わんばかりに強圧的です

人権主義者を自認する彼女ら彼らは、分からない輩は最初から愚か者だと決め付けます。人間にたいする期待値のハードルが高過ぎるのです。間違いや失敗を犯す弱さやどうしようもなさをあたたかく包み込むということがありません

そんな彼ら彼女らも、凡夫ですから、失言したり過ちを犯します。けれども、絶対に過ちを認めて素直に謝るなんてことはありません。それどころか、とんでもない言い訳を繰り返し、自分を正当化するのです。明らかに二重規範・多重規範の詭弁でもそれを押し通します

こんな「優秀な人権主義者」のお歴々とおつきあいするうちに、私の心はいつしか冷たくなってしまいました

私の出逢いの縁がよくないのかも知れません。「俺は人権を何十年もやってるんだ!お前はまだまだ足りないな!そんなことも知らないのか!」とのたまう人には本当に辟易させられます

人権そのものがこんな傲慢な思想ではないでしょうが、人権主義者には心底ついていけません

人権への強烈な違和感や反発から、そのように感じる己れの精神の根源にカタバシスしてみたいと思います
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タグ: 人権 違和感



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