当ブログの運営者は工藤英勝です 近代仏教史家で、とくに近代仏教と東アジアとの関係論に関心があります このブログではとくに朝鮮と日本宗教にかかわる問題とくに植民地布教についての資料とデータを提供いたします 大きな歴史認識や歴史解釈ではなく、諸事象と人間がどう動いていたのかを解析していきたいと思います 資料やデータにかかわる具体的なお尋ねには回答いたします

2015/1/15  7:00

表現の自由と寛容  時事批評

●表現の自由と寛容 Freedom of expression / Tolerance

9.11(2001/9/11 アメリカ同時多発テロ事件)も、フランス紙襲撃テロ事件(2015/1/7)も、その本質は政治的、経済的、文化的問題であり、いかに宗教的に偽装されようとも侮辱されたイスラーム対キリスト教、ユダヤ教という宗教次元の問題ではない。

フランスのテロ問題について、「表現の自由が脅かされている! 表現の自由を守れ」というスローガンが西欧社会を中心に宣伝されている。

襲撃を受けたフランス新聞社は、「表現の自由には制限はない」との声明を出し、かかるテロリズムへの対抗姿勢を鮮明にし、預言者ムハンマド(マホメット)の風刺漫画を掲載するそうだ。

内面的な思想信条の自由のみならず積極的な表現の自由については、近代市民社会が共有するあるいは共有しつつある社会的権利であり、それがある特定の政治体制や宗教に向けられても、それを国家が制限すべきではないというのが原則ではあろう。

ただし、この原則は必ずしも絶対的、普遍的な権利ではなく、そもそも基本的人権という価値を認めない政治・社会体制や宗教では通用しない考え方であることは銘記しなくてはならない。「自由・平等・博愛」などの高邁な理念が、政治的、経済的に圧倒的に優位な国家や民族から強制されるとき、これは一種の政治的、文化的な強制・圧力として、さらなる混乱と殺戮を加速させている。エジプトからはじまった「アラブの春」は、民主化と自由を普及させるどころか、無政府的なテロリズムを跋扈させていることを想起するだけで十分である。

西欧社会の十八番のひとつ「表現の自由」も、筆者は懐疑的に認識せざるを得ない。無制限な「表現の自由」は、ユダヤ人迫害・差別や世界的な現象ともなっている「ヘイト・スピーチ」も許容しかねない口実ともなっているし、米ソ超大国体制が崩壊したうえに、さまざまな地域紛争に大国が陰に陽に介入しつづけ(アフガン・イラク侵攻)、世界が無政府的に多極化するなかで、かつての欧米社会の世界支配・分割統治の影の部分が、こういうテロリズムというかたちで現れているのではないだろうか?

かかる兆候は、西欧社会に対する敢然とした反抗と挑戦―奇しくも9.11と同時期に開催宣言された「ダーバン宣言」―であらわれていた。西欧社会体制の鏡面映像がじつは今日のテロリズム問題であると筆者は認識している。

「表現の自由」などの価値を共有する文化圏において、それを主張するのは妥当ではあろう。しかし、そもそもそんな価値をもたない人々に対して、「おれたちが正しい!」と主張したところで、何が変わるのであろうか?

表現の自由は無制限で絶対だ」という主張にたいして、筆者はあえて留保したい。

無制限な表現の自由が、相手の信奉する宗教や神を汚すという行為は、テロリズムへ宗教的な口実を与えるという意味において、あえて選択すべきではない。言論や表現の自由という金科玉条に隠れて、相手の価値観を侮辱し、揶揄し、コケにするのであれば、これこそ思想・信条への侵害ではないか。それとも、そんな高尚なことではないのか‥‥この事件でこの新聞社は部数を飛躍的に伸ばしているという‥‥こんないかさまがそう続くものではないだろう。テロリズムに反対することと、全イスラームをからかうこととは違うのである。西欧社会の人権思想がもうすでに腐敗と凋落に瀕しているのである。相手の存在を認めずして、自らの存在も義認されることはないのだ!


近代ヨーロッパはるか以前の古代ローマにおいて、寛容Tolerance,Clementiaを強調したユリウス・カエサルは、ローマ覇権地域において完全ではないにしろ、どんなこっけいで奇怪な形態であっても、その土地の文化や宗教は努めて容認した(強制しなかった)らしい。このことは、カエサルらがその宗教や慣習を肯定的に容認したからではなく、宗教という世界観や価値観の根源である文化に寛容であるということは、それぞれの人間を独立した存在として認めるということにつながる。絶対的な価値観や世界観によって、相手を侮辱し否定するのではなく、あえて「強制しない=寛容」という態度で臨むことが、相対の世界で生きる者の処世の態度であるのでしょう。

人権思想など片鱗もなかった古代ローマ時代よりもあきらかに後退している混沌とした状態が現実の世界なのかもしれない


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2014/9/1  23:30

靖国問題と怨親平等  時事批評

● 時事批評 死者への「寛容さ」の向う側 −『曹洞宗報』巻頭論説に寄せて−


 わたし投稿者の関心は、死者への「寛容さ」の向こうには、靖国神社の鳥居が見えるのかどうかということである。それを自問自答するために、拙論を書くことにした。
 投稿者は『曹洞宗報』第943号(2014〈平成26〉年4月日刊)の巻頭にある「一茎草」欄に載った或る論説を前にして逡巡し懊悩している。
 その表題とは
  「靖国問題」と死者への「寛容さ」
である。
 いやしくも近代仏教史とりわけ宗教者の戦争責任論に関心をもつ者にして、靖国神社問題を看過することは許されないが、投稿者はこれを主題とした論考を発表してこなかった。このたびの「一茎草」の論説が、この困難な論点に応答する機会になろうとは当初は考えてもいなかったのである‥‥


注意 この投稿文は、工藤英勝の自主的・自発的な意見表明であり、それ以外の個人または団体・組織・機構等の見解を代弁・反映したものではありません


閲覧ファイルはこちら ⇒ 20140815_Yasukuni-Criticism.pdf
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2013/9/25  21:00

無縁遺骨について【補遺】  時事批評

●「返還せず」という選択肢

7月30日投稿の時事批評について、当Blogまで直接、各方向の識者から忠告、助言、善意の批判を頂戴しました。ありがたいことです。

謝罪賠償なしの遺骨返還は反民族行為だとする「極論」中「極論」を支持する人、政府間の遺骨返還と民間のルートを併用すべきという現実的立場、そして「現時点ではあえて返還しない」という究極の選択肢に大別されました。日韓・韓日の政府交渉にだけ期待するという意見は皆無です。

いづれの方法を採用するにしても、遺骨問題は御霊のことがらですから、魂の尊厳性にあまり誠意や熱意のない組織や、イデオロギーやナショナリズムの宣伝に悪用しかねない騒々しい者たちに委ねるくらいなら、積極的に自絶するという選択肢もあり得なくはありません。ただし慰霊と調査結果の保全と継承は絶対必要となりますが。

先にあげた「極論」中「極論」も私から見たら生ぬるいのです。自国・自民族のナショナリズムを批判するのに、他国・他民族のそれを対抗言説思想として持ち出すという行為は、結局は病根となっているナショナリズムを強化・絶対化する行為だからです。無縁遺骨返還というデリケートなことがらを扱う資格を疑います。

たとえ、「歴史認識」だ「戦争責任」だからと言われても、そんな脱臼しかかったポンコツスローガンにわたしはごまかされません。「無縁遺骨」の何をもって、誰のどのような行為を追及するのですか?それとも、預かってきた寺院や住職を槍玉に挙げるのですか?鶴見俊輔の口調を借りて言えば‥‥そんなことは「論理的に許されないのです」‥‥宗教教団が確認している被徴用者等の遺骨の遺族・親族が見つかっているならまだしも、政府発表でも9割近くは「名前も含めて身元情報が判明していない」ケースという現実を直視しなければなりません。そもそも謝罪とか補償とか賠償とかそのような対象にすらならないご遺骨に何を聞き取るのかというセンスが問われているのです。

なお、この見解は、ある特定の組織や個人あるいは投稿者の所属機関等の方針や意見を一切反映も影響もされていませんし、逆に他者へ勧告推奨する気もまったくありません。8/1の記事「仕事のしかた」に述べている「公人」としての言論とお受けとり下さい。

この投稿を根拠に、ある宗教団体の遺骨調査事業の問題と混同されないようお願いします。
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2013/8/15  12:00

お盆と戦争責任  時事批評

●戦争責任論の欺瞞性

今日はお盆、「終戦記念日」と言われています 。お盆のお経を檀家さんの仏壇であげながら毎年感じることがあります。
敗戦」とは絶対に言わないままで70年が過ぎようとしています。
マスコミや進歩的文化人たちはまた「戦争責任」をテーマにして「無責任」な言葉を市場へ売りに出すのでしょう。
かくいうわたしも最近まで「宗教の戦争責任論」を主張していましたし、今でも撤回はしませんが、それと同時に己の戦争責任論の欺瞞性に我慢ができなくなっています。

「戦争責任」をどう定義しようが、東アジアはじめ被害を被った人たちにどう同情しようとも、自分は安全なところにいて自身の優位性の中で安住しています。皇軍が悪い!政府が悪い!あいつを断罪せよと叫ぶのですが、自ら進んで処罰されようとはしません。精確にいえば、それはできないことなのです。

また、戦争責任を認めないあるいは懐疑的な人たちを軍国主義者として見下し攻撃します。
戦争責任は存在するでしょう。しかし、本当に追及すべき当事者はなく、あまり影響力もない小物ばかり。宗教界だって、責任は絶無ではないもののそれほど戦意高揚に貢献したわけでもありません。宗教界の当時の出版物を見ても、写経して戦争に勝てるなど荒唐無稽で滑稽なくらいです。彼ら自身そんなことを本当に信じてやっていたわけでもないでしょう。巨悪とその継承者を問題化せずに、愚かな庶民や戦争の実態も知らなかった僧侶をやり玉にあげてどうするのでしょう?

外野の喧騒や政治的な動機だけが先行して肝心なことが置き去りにされています。「戦争責任論」のシュプレヒコールが年中行事のように、ヤスクニへの政治家8.15参拝と同様、無責任に空回りしているのです。ヤスクニ参拝があるから、左派は意気揚々と抗議活動ができるし、そんな左派がいてくれるから、戦後レジ−ムからの脱却とやらでヤスクニ参拝にも熱が入る。憎しみながらお互いを期待しあっている‥‥そんな共犯関係が私たちの「戦争責任論」の荒涼とした風景かもしれません。非常に不真面目で醜悪さにみちていませんか?

取り返しのつかない歳月の空過と手垢にまみれた不純な戦争責任追及の欺瞞を顧みたいと考えています。
戦争責任を考える原点や枠組みがそもそも間違っていたのかもしれません。
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2013/7/30  5:40

さまよえる無縁遺骨  時事批評

●朝鮮出身者の無縁遺骨はいつ返還できるのか?

わたしは東アジアとりわけ朝鮮出身者の日本国内に残留する無縁遺骨問題に関心があります。2004年末、当時の小泉首相と盧武鉉大統領とのあいだで、被徴用者を含む朝鮮半島出身の無縁遺骨の返還を目指すとした合意がありました。日韓両政府はその後、企業や宗教界にも遺骨調査を依頼し、開始から8年が過ぎようとしている今日、多くの無縁遺骨が発見されていると報道されています

しかしながら、当初は外交の駆け引きとしてではなく「人道問題」としてはじまったはずの遺骨返還の営みが、最近の日韓・韓日間の歴史問題や島嶼領有権をめぐる最悪ともいえる関係悪化に加え、韓国司法が現在の視点から過去の日帝の植民地支配を断罪し、補償と賠償を求めるという変化があり、遺骨返還どころではなくなっています

どうしたらいいのでしょうか?
わたしは政治や歴史の難しいことは分かりませんが、遺骨の当事者や遺族そして遺骨を安置供養してきた寺院の気持ちとはかけはなれたところで遺骨が弄ばれているのではないかと心配でなりません

政府間の返還が無理ならば、せめて民間や宗教間での遺骨奉還も選択肢に入れていいのではないかという気持ちになります。しかし日韓の双方で、歴史認識問題が解決しないうちに民間主導で返還することは、歴史の隠蔽と偽善だ、謝罪と賠償セットでない遺骨はたとえ返還されても、送り返すべきだという「極論」中の「極論」もあるのです‥‥

せめて遺族や故郷に近い場所へ弔いたいということは、歴史や政治を知らない者のたわごとでしょうか?


政府間による遺骨返還が頓挫し事業そのものの継続が望めないのであれば、調査情報が散逸しないうちに、民間・宗教間での事業継続も、やむをえざる次善の策として確保すべきというのがわたしの意見です

ただし、わたしが危惧し憂慮の念に堪えないのは、これからいろいろな立場の人々が、無縁遺骨にさまざまな付加価値を見出して、売名やビジネスやイデオロギー宣伝、はたまた日韓仏教交流などの媒体として群がってくるのでしょうか?‥‥これは許せないことです

遺骨の当事者や遺族や遺骨を安置してきた真面目な無告の人々を裏切る行為に、それが親善友好というスローガンを掲げられても、わたしはごまかされません。‥‥それは遺骨の御霊への不敬のきわみだからです。無縁遺骨を事情も知らない外野が勝手に意味づけないでください。それは遺骨となられた当事者と遺族とそれを預かってきた人々に委ねるべきことです



【追録】
朝日新聞7月25日(木)オピニオン欄筆頭「社説」に
(社説)徴用工の補償 混乱回避へ知恵しぼれ
と題する論評が出ていました

韓国の裁判所が韓国人の元徴用工の訴えに対して、被告となった新日鉄住金にたいして一人当たり1億ウォンの支払を命じた判決にふれ、戦後補償をめぐり日韓関係を揺るがしかねない判決として、韓国政府は混乱回避へ動くべきだとの主張です

このような判決が出ることは、ここ数年間の韓国内および東アジア情勢から予想はできたはずなのですが、朝日新聞そのものがこの事態を甘く見ているような気がしてなりません。この動向はたんなる日韓間の日本パッシングではなく、2001年ダーバン宣言(人種主義、人種差別、外国人排斥および関連のある不寛容に反対する世界会議 宣言と行動計画)に明記された列強の植民地支配じたいを糾す潮流に沿ったものです。両国政府が小手先で日韓関係改善に動いてどうこうなるという話ではないのです

ただし、このような潮流を極限まで突き詰めていくと、強者が悪いという論法になり、現在経済力や政治力をつけてきている新興国は今後この力の論理を使えなくなるというジレンマを将来します。また、個人請求権は認めないとした旧体制の枠組みの範囲内での遺骨返還など問題外となってしまうのでしょう。当初の約束が反故にされるとしたら、それを正当化する理由はいかようにあれ、これ自体が信義誠実の原則を無視する「暴力」であることは明白です

日韓がおたがいにハードルを上げて、問題をさらに難しくし、解決すべき目の前の問題がかすんでしまうのは、賢明とは思えません。結局ははてしないネーション(国家・民族)のつくり出す神話・物語と虚構に回収するのでしょう

人間はいまだにネーション「国家」「民族」「国民」を相対化する共同体を構想できないでいます。左翼も右翼もネーションという共同幻想に拝跪し、現実逃避しているだけです

無縁遺骨の御霊は、そのようなNationalistたちの欲望の道具ではありません‥‥無縁遺骨の御霊は、わたしたちのそのような愚行を静かに諭しています。「わたしを見てください」と
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タグ: 朝鮮 韓国 遺骨



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