当ブログの運営者は工藤英勝です 近代仏教史家で、とくに近代仏教と東アジアとの関係論に関心があります このブログではとくに朝鮮と日本宗教にかかわる問題とくに植民地布教についての資料とデータを提供いたします 大きな歴史認識や歴史解釈ではなく、諸事象と人間がどう動いていたのかを解析していきたいと思います 資料やデータにかかわる具体的なお尋ねには回答いたします

2018/12/1  8:00

倒錯と錯覚  余禄 エッセイ

倒錯と錯覚


変わることを
変わらないものと思いこみ

変わらないことを
変えようと空回りする




人はことばという文化をもって、社会的な人間となり、ことばが作り出す世界を現実と思いこんでいます

神、貨幣、国家そして生命そのものすら、ことばによる虚構です

虚構の織り成す世界を離れて、人間は生を営むことはできませんが、所詮は虚構なのだということを、肝に銘じておくにしくはありません

倒錯と錯覚の破綻した裂け目から、真実は開顕されます
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タグ: 言語 虚構

2018/10/14  7:00

人権(human rights)はキリスト教由来か?  余禄 エッセイ

人権(human rights)は、キリスト教由来の思想か?


人権(human rights)についての評価のひとつに、「人権(human rights)は、神の下の平等というキリスト教文化が大前提にある」という意見があります

要は、宗教的、社会的背景の異なる日本仏教は、異質の思想である人権(human rights)にかぶれてはならないという違和感なのです

一理はありそうなのですが、よく調べてみると、かならずしもそうとも断定できないようです

人権主義一辺倒にはなじめないわたしですが、人権=キリスト教という単純化には賛成できません

なぜならば、フランス大革命期に、人権(human rights)思想を社会的な標識として立ち上げた集団は、貴族やキリスト教会などの旧体制を激しく攻撃していましたし、革命を担った人々の多くは、無神論者や非宗教的な理性主義者であったことからしますとかならずしも人権(human rights)=キリスト教という図式は「自明」なことではなく、反証も十分可能です、

西欧社会が人権(human rights)を社会的政治的な正義として公式化したのも、人類史ではやっとの数百年にすぎません

人権(human rights)思想の土台というのは、ある時代のある宗教のある階層の一過性のトレンドではなく、案外根深いものがありそうです

人権(human rights)の根拠や起源にカタバシス=降下catabasisしてみませんか?
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タグ: 人権 宗教

2015/8/1  6:00

戦争WARの定義  余禄 エッセイ

戦争WARの定義


戦争WARとは、正義と邪悪との、善と悪との、知恵と無知との、勇気と卑怯との政治的詐術による転換剤である。

戦争WARとは、国家あるいはそれに替わる政治的組織の主催者が発動する構造的暴力の一大イヴェントの狂奔である。

ただし、戦争の主催者たちは、戦争という言葉を使うことは少なく、「自衛」とかやむを得ない正当防衛とか、平和維持活動とか積極的平和貢献とかの婉曲的な表現を好む。

戦争WARは、だれが主催者となろうとも、通常では犯罪とされる殺戮や破壊行為などの基本的人権の剥奪状態の異常を政治的に正当化する集団的狂気の常態化である。

戦争という幻覚時空間にあっては、賢者は敵性国民や売国奴とされ、残忍な破壊者は、英雄とされる。

戦争WARは、人類および全生物の最悪の愚行と狂態にもかかわらず、これに抵抗出来ないのは、勇敢なるがためで全くなく、愚行と手を切れない無知と卑怯さの悪循環に由来する。
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タグ: WAR 戦争

2014/8/15  12:00

戦争は平和である!  余禄 エッセイ

● 戦争は平和である‥‥

 ジョージ・オーウェル(George Orwell)『1984年』は、ディストピア(逆理想社会)を描いた空想小説である。全体主義国家オセアニアの独裁党の三大スローガンは
 戦争は平和である WAR IS PEACE
 自由は屈従である FREEDOM IS SLAVERY
 無知は力である  IGNORANCE IS STRENGTH

主人公・ウィンストン(Winston)は、オセアニアの真理省記録局に勤務する官僚で、日夜、党の政治方針に不都合な人物や事件の記録を破棄し抹殺する(「蒸発」と呼ばれている)過去の変造の仕事に従事している。全体主義国家オセアニアは、偉大な兄弟(BIG BROTHER)によって指導され、内部の人民の敵エマニュエル・ゴールドスタイン( Emmanuel Goldstein)が憎悪の対象となり、定期的に憎悪イヴェントが国民に義務づけられている。報道は国家と一体となった党の公式発表だけであり、戦争と虐殺を正当化する情報だけが流され、それに反抗する人物や事件はすべて内密に処分されている。そんな部局に精勤しているウィンストンであるが、彼はある日自分の日記帳にありうべからざる「思想犯罪」を犯す。(オセアニアにおいては私的言語を書き綴る、人知れず日記をつける行為自体が犯罪とされる。国民の言動は私的な領域も含めて徹底管理される。「テレスクリーン」という双方向性の受像機が自動的にプライバシィーを監視!⇒最近のIT社会を想起)それは「偉大な兄弟を打倒せよ(DOWN WITH BIG BROTHER)」と五度にわたって書き綴ったのである。ウィンストンはこれだけにとどまらずさまざまな反党行為に身を染め、それがもとで逮捕拘留拷問され、徹底的に人格改造された後、かつて裏切りをはたらいた偉大な兄弟への愛を感じながら、喜んで銃殺されるという物語である。
ウィンストンは拘禁されて尋問される中、「自由は屈従である 二足す二は五だ 神は権力だ」というオセアニア特有の新語法(ニュースピーク)によるスローガンを書き記す場面がある。
この「二足す二は五だ」という表現は、単純な事実や明瞭な真理も含め、すべて過去は改変できるという党の指導方針が表れている。
これと似た表現としては、ヘルマンヘッセの

…精神の代表者の大多数は、あの暴力時代の圧迫に耐えられませんでした。ある者は屈服して、才能や知識や方法を権力者に役立てました。マサゲーテン共和国の一大学教授が「二の二倍が何であるを決定するのは、大学の教員ではなくて、将軍である」と言ったのは、有名です。…
『ガラス玉演戯』 第十一章 回章
の一節を想起させる。

実態がありもしない不誠実な政治言語も、マスコミを動員して何万回と繰り返していくことによって、既成事実を創作するという政治的な詐術は、アジアのどこかの国の状況と酷似していると思いませんか?

これに抵抗することは、イデオロギーではなく、どのような政治的必要性や要求や、それを正当化する口実に関わらず、過去の記録や出来事をいささかも「改変」も「改正」もしないという覚悟でしょう。


戦争は(自衛においては「戦争」とは呼ばず)積極的平和である」という詭弁を政治家に放言させ、それを容認し喜んでいるような状況は、先に紹介した『1984年』の主人公の結末を将来することになるとわたしは思います。
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2014/6/1  8:00

権力とたたかう良心  余禄 エッセイ

● 寛容の宣言

真実を探し求め、おのれの信ずる真理を表明することは、けっして犯罪ではありえない。
なんぴとも、ある信条を強制されてはならない。
信条は自由なものだ。


               セバスチャン・カステリオン 1551年


現在では当たり前の観もある思想信条の自由と寛容の宣言です

この言葉を残したSEBASTIEN Castellion(1515-1563)は、中世ルネサンス期を代表する人文学者・神学者・牧師であるにもかかわらず、彼の存在は同時期のルターやカルヴァンらに隠れてほとんど日本では知られていません

それもそのはず、一流の神学者にしてすぐれた学校教師にもかかわらず、カルヴァンのような権威主義的な自己主張を好まず、終始おだやかにすごしていたからです

そんな温厚で慎重なカステリオンが、その殻を破って敢然と権力に立ち向かったのは、カルヴァンらによる異端者虐殺(セルヴェート焚殺)にたいする命がけの抗議でした。カステリオンはかならずしもセルヴェートの神学的主張を認めてはいませんでしたが、意見がカルヴィニズムと異なるというだけの口実で、物理的に肉体を抹殺してしまう暴力と権力に抗議したのでした。当時のジュネーブでカルヴァン先生に意見するということだけでも命が危ういという状況の中で、彼は後の世に残るごくまっとうな宣言を発したのでした

そのおかげでカルヴァンから追放され、生命の危険にさらされたのですが、彼は「ひとりの人間を殺すことは、けっして教義をまもることにはならない。それはあくまでも人間を殺すことでしかない」という人間的な金字塔のごとき言葉を残したのでした

そこで、わたしは考えるのです
この「寛容の宣言」は、自らが信奉し賛同する思想・信条・信念だけではなく、自らが嫌い・憎む思想や主義にたいしても適用されるべきだということを!

自分が好意をもっているお友達の信条を擁護するのは簡単です
しかし、寛容と思想信条の自由が本当の意味で問われるのは、自分の嫌いな考えや行動にたいする際だと思います。寛容を口実に反対する相手のことを容認することではありませんが、「お前は間違っている!反省しろ!」式で教え諭すのではなく、「あなたはこう考えこのように行なう。しかし、わたしはこう思う」と述べるにとどめるのが節度ではないでしょうか。「怒りの頂を行くことなかれ」これはブッダの言葉だと記憶していますが、イデオロギー論争の恐ろしいところは、いつのまにか自分が正義の旗手に扮して、相手をさまざまな手段で屈服させようとすることです

寛容は相手に忍耐を強いるものではありません。むしろ自らが忍辱し、異なる立場や思想とそして自らもを相対化する営みではないかと思います



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タグ: 寛容 自由 思想信条



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