

アップし損ねていた、多分この橋〜鹿屋大橋〜R220が大隅半島の最大河川の肝属川キモツキガワ〜祓川はらいがわに架かる場所のその橋梁、巨大なコンクリートの橋桁土台に埋もれた部落〜村落の崩壊過程に登場したシーンが、あの福元正實著の『七面鳥の森』なんだろうなと思った。
初めて聞いた時には隣家のM養鶏場での出来事なのかとも錯覚してしまったが、どうも話が少し食い違ったようで、逆に電話の主の彼が中学生の当時に住んでた近辺らしいのが、図書館から借りて来てその本を読み進めた感想だった。
付け加えるならば、恐らくはバイパス陸橋の東側が下祓川で、川を挟んだ向かいの西側の付け根は西祓川と町の名が変わる。中世鎌倉時代や戦国時代を経て鹿屋院の北側に位置して西は不明だが、下方限シモホウギリとして大事な米どころでもあった。今はもう殆どの田んぼが宅地や工場などの建物と化したが、私らが子供の頃にはまだ多くがセッセと米作りを行ってもいた。
西端の西祓川集落センターの周りは今では埋め立てて見る影もすっかり無くなったが、実は橋桁と道路や空き地の下には祓川遺跡と名付けられた南九州独特の多くの縦穴式横穴墳墓や土坑などが眠っている。
誰が身に付けたか良くは判らない鉄製の兜カブトに鎧ヨロイが一式掘り出されて脚光を浴びたが、県の埋蔵文化センターが発掘調査している。その最初の発見の様子はチラッと前にも取り上げたが、生憎と近隣の住民らには全く知られもしなかったらしい。
これも無知蒙昧の子孫らがタダ単に親から受け継いだかの土地にしがみ付いてるだけだった!としか言いようのない結果だ。
実は村落共同体の解体などとカッコ付けて書いたり呼んだりするが、結局は七面鳥の森の様に補償金を吊り上げてしまい住民らは終いには呆気なく移転移住してしまうのだから、それがコンナ過疎のムラの限界なのだ。
七面鳥の森に関連する短編はその後に「森かげの家」と続編らしきが書かれてるが、本の終わりに置かれた「落ち雲雀」を読むに及び、大事な1人息子が東京の私立大学に進学して、知り合った彼女と共にいつの間にか政治運動に首を突っ込み、子供が生まれるもK党派の幹部にまで成り果ててしまい、あの三里塚成田空港反対闘争で逮捕される事となった話が登場したのには、2度目の驚き桃の木山椒の木〜^_^
そしてアノ空港反対闘争では反対から粉砕へ、或いは開港阻止へとスローガンや闘争自体も変化変質してもいったが、その過程でセクト党派主導の政治運動などには参加しようハズも無いと諦めた私だったが、この本の中の息子は例の「トラック焼打ち事件」を起こした張本人らしかった。
そこでそのK党派なるセクトが革マルでなくて革労協だろうと判断したが、革マルとテロリンチ合戦を中核と共に繰り広げたのはその前後でもあったから、色々と又調べてもみたがセン無きことかは〜調べようも無い。
警察白書や通り一遍のウィキで外容は少しは判った。
空港公団の下請け工事を請け負っていた会社のトラックに放火した様だ。けども文中にもあるが、火付け殺人や強盗となると普通の犯罪とは又刑罰が重くなるのは江戸時代からの伝統。
増してや国家公安治安に絡むとなればヤハリ重要容疑者となり、一大犯罪事件と断定されてしまう。
マァそれはさて置いて、終いには警視庁の敏腕刑事に翻弄されて獄中転向させられたらしい。その端末も又生々しいがココまで来るとこれはもう親の泣き落としにホダされた〜とか、生まれてくる子供に対して申し開きが出来るか?など色々恫喝されたりもしたのだろうが、その転向の問題も又少しばかり考えてもみたり〜普通の政治人間でもなかったろうにと考えたが、ヤッパ何か余程の見切り断念の要因を抱え込んだろうとも思った。
ホントはアノ惨虐極まりないテロリンチ殺人事件に関わった張本人らが、まだまだ何人もその後に生き残ってルには違いない。それをしも、政治運動だと革命戦争だと階級闘争だと言い換えたとしても、ヒトとして絶対に許されない行為、対面のケンカなどでもなく、集団で個人を嬲り殺しにした身の毛もよだつ犯罪、それこそ罰せられなければならない。
本ではソンナ光景なぞ書かれてないし関わっても無かったろう、オマケに本人の考えは余り語られないから、余計に勘繰ったりもしたがそれもコチラ熊の野次馬根性。
兎に角もアノ革労協が仕出かした革マルのトラック放火殺人事件かと勘違いだったのは判ったから、この話はこれで止める。余計なお節介かも知れん〜
村落共同体の崩壊がそうしてなし崩し的になされた結果、世の中は景観を段々と変えて行ったのも当然、しかも世は高度経済成長時代を経て世界に冠たる日本経済の
全盛期前世紀における絶頂期バブル時代へと突入しつつあった。
実はもう一つの友からの問い掛けがあったのだが、長々と書き過ぎたからその事は別にしよう。

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